ご無沙汰であります。いつも見てくださっている少数精鋭(?)の読者諸氏には平身低頭でございます。今日12月6日からイード休みを利用してインド旅行と称したアラブからの逃避に身を投じるゆえに、現況をば。アラビア語の勉強に関しては可もなく不可もなく丁度良いレベルと速さで進んでおり、昨日行われた中間テストでも問題なく、むしろ2ヶ月で、別に蛍雪の功ほど勉強しなくても、こういう環境でそこそこやれば、自分を訪ねてくる友人への手紙をその場である程度書けるようになるとは。アラビア語というのは、実に難解な、自分には到底どうにもならないというコンプレックスめいたものがあったものですから、これはこれは小さな感動なのです。ただ、再三愚痴を述べておりますように、言語は所詮言語のなにものでもなく、要はそのもとの頭でありますから、カラカラと音の鳴る頭で何ヶ国語を片言で言おうと、そこからは何も生まれやしないわけで、しかしながら、そうは言ってももう固定されてしまったこの脳みそで生きていかねばならんわけですから、それなりに頑張ればよいわけです。時間のバランス配分が肝要ですが、なかなか難しく、仏独語のネイティブが隣にいるというのにそのソースを十二分に生かせきれていない、と。あちらを立てればこちらが立たず。バランスというのは何を持っても難しいものです。
さて、報告する気も失せるほどの不条理に、どれだけ寛容な心で挑もうとも、ただそこに残るのはやはり疲労と空虚さだけで。要は行政手続の問題や、いい加減なインシャアッラーが引き起こす多大なコストのこと。留学生と親しい(=“オープン”な)アラブ人学生だって、その辺のことに関しては愚痴を連ねているわけだから、これはもう当然言語の問題ではない、と。今までも、私なりに歩み寄って、しかし冷静に、同時に客観的に、考察を加えようとしたわけだけれど、もはや匙を投げようかという次第。反中東(「アラブ」と置き換え可)でも、親中東でもなく、“知”中東になりたまえ、というリフレインがひたすら脳裏に。「反」でもなく「親」でもなく、ただそこに「知」が・・・というのは、難しいようで、実は一番ラクな、ある意味ズルいのかもと思ってみたりみなかったり。
いくつか読んだ本で、ここでの生活にリンクするものをば。ウェーバー『社会主義』(濱島朗・訳、講談社学術文庫)。ウェーバーの社会主義への態度というのは実に面白い部分だが、それは私めが言うべきものでもないので。結局、官僚制との絡みが貫いているわけだが、はて、この地に官僚独裁なるものは理論的にも実践的にも存在しうるか。官僚制の弊害というのは色々あるけれども、それは第一にとりあえずの(とりあえず、で良いのです)「自分の仕事をやる意欲」と少なくとも9時5時で働く「最低限の」勤勉さがなければ、そもそも官僚制など存在しえないわけで、例えばセクショナリズムと言ったって、各々のセクターがある程度の「責任」めいたものを、線を引いて保持していなければどうにもならず、したがって、“我々”が考えるような「官僚制」というのはかなり違った形で、ここでは考えられなければならないのではないか、と。
もうひとつ。バーナード・ルイス『聖戦と聖ならざるテロリズム』(中山元・訳、紀伊國屋書店、2004)Bernard Lewis, The Crisis of Islam, Holy War and Unholy Terror,2003。訳がうまいのはさすが。実際にアラビア語をやっていて発見する喜びというのは、今までカタカナという音でしか認識不能だった諸概念が、その語根とともに世界を広げて、私もそこに少しだけ垣間見ることが許される瞬間でしょう。ジハードがجهد「努力」から来ているというのは、よく知られたことかも知れないけれど、実際文の中で出てくると感動するわな。あとは「殉教する」という動詞はاستشهدといって、شهدという「見る、目撃する、出席する、経験する」という”普通の”単語が語根である、と。شهيدとなれば目撃者、殉教者で、英語ではmartyrだが、それもギリシア語の「マルチコス」から来ている。証書はشهادة、場所を表すمが付いてمشهد集会・会議の場所・殉教者が死んだところ・宗教的に祀られたところという意味になるわけ。おそらく、殉教というのは聖戦でのみ、目撃されていなければならない、と。極めて多くの、極めて日常的な単語から、極めて宗教的な意味が常に潜んでいるという、このどうにもならない抗いがたさを如何せん。もちろん、そもそも、目だけ、もしくは目さえも黒い布に覆われてこの世を見て、その他多くの「私たちの」canが彼ら/彼女らにはcan’tもしくはdon’tであることを思えば、今更何を思うべきでもないのかも知れない。
教科書のテキストもアラブ的な感性で(=近代的、とか民主的、とかという“我々”の感覚からはおよそ離れた=ズレている)あって、新聞も英字であっても、非常にアラビア語的な思考で書かれているのがよく分かる。(もちろん、ジャパンタイムズなんかも日本的思考方式だと言えばそれまでなんだけれど、それを行間で読み取る努力をしなくても、ギラに出してくるあたりのことを言っている)これに慣れたらお終いだな、という意識を大切にしていかなくては、と思う。
さて、この本自体はよくできた入門書だと思う。中山氏が言うように、もちろん、「ちくしょう、また西洋中心主義かよ」的突っ込みはいくらだってできるけれど、それを言い始めるとどうにもならないので。へぇと思ったのは・・・イスラム最初の金貨はディナール(クウェートは今でもディナール)。これはローマのディナリウスから借りた言葉。金貨の鋳造自体がローマ帝国の特権に対する、またキリスト教世界への挑戦の強調だったそうで。もうそういうレベルまで考えると、この世界のすべてがそういった歴史とか憎悪とかという感情にまみれて、埋もれて、塗りたくられていて、もちろん日本でも世界のどこでもそうだろうけれど、ここでのリアリティーは凄まじいものがあると、今更にして思ったのでした。
Saturday, December 6, 2008
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