流石にあからさまに仕様もないことをぬけぬけと書くのは控えてきたけれど、第三者に読んでもらえている可能性のある場で吐露することで救われはしないが書かないよりまし、ということは無きにしも非ずなので、気にせずに日本語能力の人並み化の意味も込めて、社会悪であっても徒然しよ。
個性のある人に憧れてきた。個性崇拝も甚だしいとは自分でも思う。引き出しの多く、周囲の人をも幸せにし、人間的に厚みがあって魅力的な人に。人間という種とか、個体それ自体としての権利的側面からの一人ひとりの価値は同じだけれど、その質の価値としては絶対に同じなんかではないから、人間国宝とか様々な制度があるわけで、でもそんな制度に覆われなくても、素晴らしいと多数が思う人間は実際素晴らしいことが多いのは周知の事実。
ただ、人間的魅力を振りまく人の近くにいると、大概の人は幸せになれるのだろうが、捻くれた私はさらに捻くれるだけであります。自分の人間的魅力の無さが絶対的にもそもそも明らかであったのに、相対的に突きつけられて帰りたくなる。もう22年もこうだと、何もかも遅すぎるのです。
じゃあ、お前は人間的魅力のある人間になって何がしたいのだ?答えは意外にもひとつしかないかも。他の人間的魅力のある人間の傍にいて残念な(暗い)気持ちにならないため。
そもそも、人間的魅力とは何だ、それを他人と比較してどうなるのだ、と言う向きもあろうが、誰にだって思う節はある。自分に価値があって欲しいと望むのは人間の自然な欲求だと思う。
遅すぎる、などと言わずに自己努力してみよ、と?・・・ため息が出る。きっと不幸のオーラが充満して、口角の思いっきり下がった嫌な顔をしているのだろう。女を捨て、お前は人間性さえも捨てるのか。
楽しく、前向きに、明るく、笑顔で、(小学校の教育目標というのは人生の目標なのだなと最近とみに痛感する)生きられたらどんなに良いことだろう。幸せになる資格の有無について検討しているうちに時は過ぎ人生は終わっていく。最近は、終わるなら終わるで、中途半端に「もう12月か、早いな~」というレベルではなく、5倍速くらいでも受け入れられる気がする。もちろん、自分だけ5倍速。そういう難病もあるけれど、周囲の人やものはそのままで、自分だけ、しかも、周囲は(家族も含めて)それを当然と思える。
よく、明日を人生最後の日と思えば、日々を充実させられる、と言うけど、私は全くそうは思えない。ああ、明日で終わりなんですか、へぇ、じゃあ、今日の晩御飯には卵をひとつ入れようかな、くらいじゃなかろうか。その終わり方がどうであれ、周囲の人が全く悲しまない方法であれば、また自分がそれに伴う苦痛を感じないのであれば、人生はいつ終わっても問題ない。
悲観的な書き方に見えそうだが、意外と本人は超楽観的だ。楽観が度を越すとこうなるらしい。
・・・こんなに堪えるのは、5年ぶりかも知れない。顔がエイリアンになるのも良し、痛み痒みで眠れないのも寝たら最後起きられないのも良し。それはどんな病気でも病気のせいにできる。---しかしこればかりは、自己全否定のノリでなきゃ。