Tuesday, August 17, 2010

帰国便機内でのランダムノート

austere---この形容詞に出会ったことが幸か不幸か今までなかった。買いかぶりに過ぎるのやも知れないが、純粋無垢でイノセントに大きな瞳をきらきらさせて笑う英国人とシンガポール系中国人のハーフの若干20歳の少年が、最終日に初めてまともに化粧をして日本でいう(ちょっといいところに行く)デート装い程度に繕った私を朝一番に見て、本気で驚いて、その日ほぼ一日中近くにいれば私をじーーーっと見ているものだから、どこまでこのいい男になりそうなこの男の子は”男の子”なのだと笑わせさえしたけれど、さんざん言葉を選んだ挙句、「austereなくらい綺麗だ・・・つまり、洗練されてるとか・・・うーん、とにかくaustereなくらいだ」って。

その彼の言葉を裏切らずに生きていけるだろうか。自惚れに過ぎると言われようが、分かる人に分かれば良い。ただし、balanced critical mindで。自分に対しても他人に対しても。全き他者による自己肯定ほど力強いものはなく。

だけど、私は誰に分かってほしいんだろう。物理と哲学の最強ダブルメジャーで、人生とかユニバースについて若干20歳には思えない落ち着きと確信を持って、(どうでもいいけどちなみに萌える)オーストラリアアクセントでぼそぼそと話す彼のような人に少なくとも「分かって」もらえた、のは、今の私の在り方にとりあえず途轍もないゴーサインが出されたに等しく。私が今までどのように生きて、今何を考え、誰を愛し、誰に愛されているかetcが、私の顔に全て滲み出ているか、体現しているとしたら・・・なおさら、この絶妙な姿勢やバランスをいつ崩すかという懸念。

彼にはずっと私の定点観測でいて欲しい。人も時代も動いていく中で、どう変わろうとその人の定点を信用できる足る友情とか信頼とか、そもそもそれを信用できる自分の軸足や関係性がすごく素敵かも。



この私という人の肉体と精神で、与えられた時間をどのようにデザインしたりアレンジしたりすると、この人自身やこの人の眼に映る人々や物ものが幸せでいられるのか。何にどう優先順位をつけるのか。まだ振り子のようにمتراجعな私のvaluesやaxisの一端を再度引き摺り出そうとしたアメリカという国、ブリリアントな世界からの若者たちとの、いわゆる中東学。


知識の上で特に得るものはなかった。「アメリカ流」なのか「その人流」なのかケースバイケースではあろうが、少なくともその「その人流」をそのアメリカが支持ないし許しているという様々な点に度肝を抜かれ。

おそらくこの国の5本の指に入る大学でもやっていけるのだろうという可能性とか自信だとかはこの後どう処理すればいいのだろうか。

ムスリムの今後の最大の戦法は人口増加。存在と非存在(消滅)との極限的なアイデンティティーの葛藤は留保なく正当化されてよいとしたら、私のこの便利な 日本国籍のパスポートは拠り所としての最後の牙を剥くことになるのか。それとも、そんなものを超越して全人類を愛するために自己犠牲を払うことなど本当に できるのだろうか。

何もしない勇気も見上げたものだけれど、とりあえず今は死ぬほど何かをしてよい時期のような気がする。良くも悪くも自分はまだ若いらしい。

・・・まことに縁は異なもの味なもの。Inscrutable and interesting are the ways people are brought together...

今後のスローゲンに加えようかな、「静かに語れ、朗らかに笑え」

より多様な多くの人と出会い、一つ一つの生に真摯に向き合おうとすれば、自分がどう生きたくてそうでないのか自ずと炙り出されてくるのではなかろうかと、眩しく輝く人らを見てそう思う。最後の講義で私の眠っていた生存本能に火が点いた。