Monday, December 27, 2010

作為もjudgeもなしに無心だけどたまに俯瞰して

"She just takes my breath away. She became the music. --- The beauty of her skating is, she really feels this music, is really seamless with this choreography, just looks so natural and just draws you in." (Mao Asada - 2006 SA SP)

素人目にも、浅田真央の進化っぷりが、プログラム的には未完成なれどその身のこなしにじんじん見てとれた。タラソワの作り込んだプログラムを全身で消化するというよりも、安藤美姫のようにいかにもな得点稼ぎというよりも、もはやそういう「作為」を全く感じさせない所作というか。とくに今期のEXがそう。翻って4年前のスケートアメリカの解説者のコメントがまさしく今の彼女にさらに相応しい。わざとらしさがない。書道に通じるかも。そのレベルに達するには相当の達観が必要。

自分の生活は何だ、作為だらけ、わざとらしい。がむしゃらに生きれば自己生存が何よりもの目的で、考える余裕もないと嘆くくせに、いざ感情を挟む余地を入れれば、手垢に塗れた既視感でいっぱい。すべてを超えることなんてできるんだろうか。

もうひとつ。ほぼ確実に進歩していくスケーターたち。「知識や経験なんてのは饅頭の皮」とのたまわれたかの人的には、私の面の皮は厚くなっていくばかりか。

経験ってなんだらう。できる限りひとつひとつを咀嚼し消化し臓腑に落とさせて私の血肉と、私の核となるのではなかったか。進化とも退化とも呼ばない。どちらが前?君の向いているほうが前、なんて受験生への檄文だけで結構。進化でも退化でもなくていい、蓄積による化学反応で病気が出てもいいしビョーキになったっていい。飼い犬程度の学習能力は備わっているとしてもしなくても、私がホモサピエンス、ヒト科で生きて死んでいく限り、目出度い感じでも残念な感じでも、天文学的量の中のひとつのサンプルにはなる。無様だって転落していったってお花畑的幸せだって、人間である限り特別な解釈なしに面白い。

でも、何であれ、そのひとつひとつを誇っちゃいけないし、哀れんでも後悔しても美化しても正当化しても、要するに解釈すべきでない(judgeしてはいけない)。歴史学。濃淡も優劣もない。スケートだと分からんから書道にすると、「偶然を装った作為」さえも超えた領域、確かに必然でもないのだけど、「これはこうなったのだ」「そのとき私はそう判断したのだ」ということだけ。そして今微笑むだけ。ただその絶妙なバランスが難しすぎる。