アメリカ大統領選で何が感動的だったかと言えば、変化の「兆し」でもなく、「変化」というよりは、「躍動」なのだと思いついた。それで、私は何に感動したかと言うと、人間が動いていることに、つまりは生きていることに、だったのだと思う。
クウェート人は「お金持ち」だから、クウェートにいるクウェート人男子学生は、(家庭に)お金がないか頭がないかのどちらかである。ずば抜けてお金があればOxbridgeもHarvardも余裕なわけで、それができないということは、残る可能性は余程のおバカだけ。女子は当然(お金があるにも関わらず)親元を離れて異国一人暮らしなどありえないから、当然この、「歴史」も「文化」もない、あるのは石油だけじゃないかと言われたら反論するには相当の論説人が必要であろうこの国で、大事に大事に育てられることとなる。結果、クウェート人男子学生は驚愕的に壊滅的に英語もできず、知性の欠片も感じさせないことに成功するが、女子学生は(比較の問題として)多少は優秀なのが残り、流暢な英語を使い、フスハーでも話せる者も少なくない。
考えてみれば、自分の母国に残っている異性がボンビーかおバカかと相場が決まっているとしたら、これほど悲劇的なことはないわけで、海外留学の好きな韓国を見てみても、外に出たがらない日本人でも何でもいいから、国が潰れるような事態にはまだならないようで、変なところで安心してみたくもなる。
海外旅行や留学中は、日本では絶対に付き合うことのなかったであろうお頭の方々とともに時間を過ごすことになる。私は常に上を見上げて我が脳みその出来の悪さに絶望していたことからも分かるように、自分が賢いだなんて一分一秒たりとも思ったことはない。人間の頭というのは、ほぼ生誕時からその質が決まっていて、その後の人生で申し訳程度でも、頭をcultivate(耕す)したかで程度が決まる。愚かであることは悪いことではなく、その人なりにその人なりの人生を生きれば良いだけで、賢いからと言ってそのこと自体が善であるわけではない。その一分や身分、身の丈を認識し、甘受し、消化して歩んでいけばよい話である。東大にいるときは、周りに比べて、自分が生きるに値しないと思えるくらいに、能無しで、穴がなくても掘って逃亡したいくらい、色々恥をかいてきたが、それがいかに恵まれた環境であったか、思い知らされると、精神衛生上楽しくない。ただでさえ腐っていた自分の頭の腐敗が超速度で進行していくのに立ち会わないといけないし、「頭の程度」で付き合いをセレクトしたがる自分の欲求に、啓蒙的な理性が立ちはだかるのに、いちいち付き合わないといけないからだ。
一目見れば、その人がどの程度のことを普段考えている人か大体想像がつくし、3分話せば、それは確信へと変わる。一日居れば辟易するか、素直に楽しめるか、平伏しているかの大まかには3通りである。しかもこれは、言語は根本的な問題ではない。外国人大学院生が日本語で書いた日本政治思想の論文を、すべての日本人が添削できるわけがないのと同様に、私が表現したいことは英語でもアラビア語でも仏語でも、文法が完全に合っていてもそのそれぞれの全ての話者に理解され、やり取りができるわけではない。そういう目的で外国語を学ぶときは、適切な指導者や練習相手の確保に苦労するし、その内容を把握して欲しいと思えば、戻るところは、一番簡単なのは、今在籍している大学なのだな、と、傍から見れば、かなり意地悪く、性悪発言をしてしまう。もちろん、私が恵まれていたのは、私が在籍している大学の威光と制度によってであって、それを着ぐるみはがされたら、何も残らないどころか、マイナスにさえなる、「ただの人」を凌駕した「社会的害悪」にすらなりかねないのだから、己の問題を棚に挙げるつもりは毛頭ないが、クウェート男1とイラン男3とロシア男女それぞれ1とブルガリア女2と台湾女2と半日BBQにビーチに行ってみた日には、やっぱりそんなあほらしいアクティビティーは実際あほで、それに参加した自分ももっとあほだった、と半ば誇張気味かつ自嘲気味に嘆くしかすることがないのである。
アメリカに1年留学した先輩に、どうでしたか?と訊いて返ってきた答えが、「皆考えていることが高校生みたいで話にならず、ずっと部屋で本を読んでいたよ」に、ものすごく今共感し、ならばアカデメイアに残らない限り、就活でどうせ入ることになる「負け組」的な組織や会社で、こういうフラストレーションを抱えながら生きていかねばならんのかと、それはあんた自意識過剰というものだと突っ込んでみるしか「脳がない」。(「能」と「脳」を同じ音にしたのは神のなせる業か。「能無し」より「脳なし」のほうがすっと響きがいい)
I’m not socialistic, I’m not on the mood, I’m not a out-going person, I’m always at home even in Japan unless I have anything I have to do…なんていちいち嘆く自分が嘘臭くてたまらない。この国にはバカしかおらん、と捨て台詞を吐いて、数本論文を書いちゃうような人がいたら、その人の匂いだけでもかがせてくれたら嬉しいと思う。
留学生の中でも院生を名乗る複数の人に食いつきやすそうな話題を振るのだけれど、悉く釣果は微々たるもので、①彼らに能力・気力がない②私に能力がない③彼らに私と意思疎通可能な、共有言語がない④その逆・・・のどれかが原因。
院に行って研究者になるのは、ずば抜けて煌く頭脳と根気強い粘着力を兼ね備える人だけだと思っていたし、今も思っているのに比べると、海外(特に欧米)では、日本よりもカジュアルに院に行ってしまうのから、という勘繰りはこの辺で。
Nazihの言う’empty state’がこの国家の文化的表層にあてはめていいものか分からないが、日本人は召使いを雇うほどの金銭的余裕があっても、「お手伝いさん」や家政婦は見た!的市原悦子のような「家政婦」を、ごく一部の超越的ハイソな上流家庭が雇うだけで、同国人にとどまり、奴隷的扱い(食事を与えないとか性的虐待をするとか休みを与えないとか)は皆無に近いと(信じたいし)思う。人を奴隷的に使用することに慣れきり、車と家と使用人の数でしか社会的地位を誇示できず、知識や教養や「中身」の重要性は「重要でない」という形容詞が霞んで見えるほど、力を持たない。ステレオタイプ的見方をすれば、日本人は資源のないところに、頭脳労働肉体労働双方を(大まかに言って)自らの手で持って進め、経済発展を遂げたとすれば、ここクウェートは突然降って沸いた石油で、何の努力もなしに、短期間で「近代化」され、その後の社会保障の完全丸抱え状況は(北欧諸国は税金をペイしている分見返りがあるが、ここではone-way(一方通行)にgiven(与えられる)だけである)国家社会主義なんていう生暖かい表現では足りないくらいの、「お世話ぶりであるから、頭が腐るのも致し方ないのかも知れない。
しかし、問題は、中身がないempty stateの中身のなさemptinessの価値判断を、どこまで相対的に踏みとどまるべきか、ということである。私たちはいつまでどこまで相対的にあるべきなのか。それはそれ、これはこれ、と言った瞬間、思考停止。相対主義は生産的ではない?
How much should we be relative? Is it guilty just to state the affairs without any value judgments? The coming of thought to a standstill could be said ‘unproductive’? To begin with, it seems to be prohibited to pursue the rationality or productivity here in this ‘culture’. According to an Islamic culture lecture I have heard in a mosque, a lecturer seemed to criticize its modernization or consumption culture, which can collapse the beliefs of Muslims; however, they seem to remain as mere superficial causes, not as fundamental ones. It is too naïve only to mention and criticize the products and results brought by ‘others’. Why cannot they come up with ideas to force the vector to the inside of them and ‘cultivate’ themselves?
(Warning! This is my mere monologue which is not ready or matured enough in English to be criticized and it still needs a long explanation and backgrounds, hence, please keep your opinions in your mind)
単純労働の人員の過剰さ、外観と体裁第一主義、歪んだ男女関係と宗教的「恥」の観念がもたらす数々の悲劇・・・。この国やこの国に似た(UAEやバーレーンやカタールなどの石油新興国)国の「中身」や「質」の将来を、現地国籍人に代わって憂慮してあげるこの日本人の態度を、厚かましいとも傲慢だとも指摘する能力も気力も態度のなさそうな彼らに対して、留保をつける必要も、謝る必要も、当分は、少なくとも数十年はないかも知れない、と、1ドルが98円とか、1ユーロが125円とかという、旅行する身分にとっては夢のようなレートをたたき出してしまう世相で思うのは、世間知らずもいいところ、ということにしたい。
それにしても、empty stateに比べれば、日本は何だかんだ言って、「骨太の国家」なのだなあとしんみりするのも世間知らず、ということにしよう。
もうひとつ付け加えれば、クウェート大学の学術的、つまり、学生の全体的で平均的な学問レベルは、想像を超えて、死ぬほど低く、易しい。イスラム法とか、イスラムに特化した部分は、他国と比較しようがないから、別として、例えば、英語は、私が中3とか高1にすらすら読んでいたものを、たらたらと読んでいる感じで、理系に至っては私が高1で覚えさせられた周期表をやっとこさやっているといった有様である。政治学を見ても、有斐閣アルマの一番下のランクでさえもびっくりな、高校の倫理政経レベルを超えなさそうな教科書の勢いだし、そもそも図書館はスカスカで(湾岸戦争で全部焼かれた、という言い訳は他への投資を考えたら説得的でないのは明らかである)、資料のコピーは8時~13時にこれまた「使用人」に頼まないとできないという方式で、キャンパスからは16時を過ぎると人はまばらになり、17時を過ぎるとほとんどいないと言っていい。アラブ人は図書館で勉強しないだけだ、家で勉強している、と言う人もいるけれど、ゼミやらないの?資料要らないの?コピーしたいときにしなくて済むほど資料集めしないの?君たちは家でそんなに数多くの種類の各国の新聞や雑誌を採っているの?・・・・・なんでもっと勉強しようと思わないの――――?!
私があの威容で異様で偉容な本郷図書館と比べすぎているのか。日本の普通の大学はクウェート大と大差ないのか?でも、この大学は中東で5本の指に入るという。東アジアで5つ大学をセレクトしてみようよ。東京?京都?北京?精華?ソウル?香港?シンガポール?チュラロンコーン?他にもまだまだアメリカやイギリスの作る大学ランキングに上位に来にくいが、質の高い大学はいっぱいあるよ。
経済的な側面ではもはや説明不可能であるくらいに、クウェートはお金を持っている。大学教育に投資して、有名な教授をお金で呼んで、有名な世界の各大学から奨学金をどっさり出して学生を呼ぶくらいの資金は朝飯前で、emptyな図書館を本で満たすことだって、可能なはずだ。(クウェート国籍を持つ人は勉強しなくても働かなくても享楽的に生きていけるから、その必要がないという理由はひとつあるけれど、私が聞きたいのは、そういう物理的側面ではなしに、メンタリティーの問題として、なぜ?なぜ?ということである)
なんで勉強しないの?という問いは、なぜmore(もっと)やbetter(より良く)を目指さないのか?やはりこの世と比較して、人間は神に比べて無力だから天国を充実して見せるためにも、あ・え・て、この程度にしているとしたら、がむしゃらに頑張る我らより、よっぽど高度で哲学的なテクニックだと思う。
私は訊きたい。勉強に限って訊きたい。勉強しないで得られる「いいこと」(メリット、アドバンテージ)と勉強して得られる「いいこと」を比較することは許されないのか?もっと考えたい、もっと知りたいという欲求は、神の怒りに触れるのだろうか?だから、日本人やアメリカ人(とりあえずアメリカ人としておく。これはイギリス人でも何人でもいい)に天罰が下ったと、あなた方は批判するのか?(昨今の金融危機は神からの天罰だ、みたいな論調は新聞にも少なくない)
在留外国人すべてに課される健康診断で、B型肝炎ウイルスが検出された台湾からの留学生が強制送還された。彼女はもう二度と戻ってこないだろう。fierceだがstrongではない、emptyなstateと言えば、以前見た、ウガンダのアミン大統領の暴政を描いた映画を思い出す。なんとなく面白そうだからという軽薄な動機でスコットランドからやってきたこれまた軽薄な青年が、ずるずるとアミンの手に堕ちていく様子が、かなりfierceに、おどろおどろしく迫ってくるし、今ではよく思い出せないが、植民地主義とかアフリカの暗い部分とか、かなり見る人を選ぶけれども、人によっては相当程度深い考察が導ける秀作だった気がする。その中で、主人公の青年は大統領の第二夫人と通じてしまい、第二夫人は手足首を斬殺されて、惨たらしい死体となって発見されたシーンがあって、これはもちろんアミンがやらせたものだが、ここから言えるのは、いくらfierceと言えども、fierceなことをやっているのは人間であって、巨大で、一人の普通の人間の力ではどうにもすることのできないほどの国家であっても、それは個々の人間の集合なのである。ただ、まだウガンダのほうが、アミンの独裁ということで、意思決定の過程は透明でクリアーだけれど、アラブの論理や、この国インシャアッラーは、どこまで人間の所業を覆い隠すのだろうか、とも憂慮できる。日本はすべての外国人在留者に健康診断を課しているのだろうか?アメリカは例えば移民大国で、そんなことは捌ききれないような気がするのだが。誰か教えてください。
クウェート人は「お金持ち」だから、クウェートにいるクウェート人男子学生は、(家庭に)お金がないか頭がないかのどちらかである。ずば抜けてお金があればOxbridgeもHarvardも余裕なわけで、それができないということは、残る可能性は余程のおバカだけ。女子は当然(お金があるにも関わらず)親元を離れて異国一人暮らしなどありえないから、当然この、「歴史」も「文化」もない、あるのは石油だけじゃないかと言われたら反論するには相当の論説人が必要であろうこの国で、大事に大事に育てられることとなる。結果、クウェート人男子学生は驚愕的に壊滅的に英語もできず、知性の欠片も感じさせないことに成功するが、女子学生は(比較の問題として)多少は優秀なのが残り、流暢な英語を使い、フスハーでも話せる者も少なくない。
考えてみれば、自分の母国に残っている異性がボンビーかおバカかと相場が決まっているとしたら、これほど悲劇的なことはないわけで、海外留学の好きな韓国を見てみても、外に出たがらない日本人でも何でもいいから、国が潰れるような事態にはまだならないようで、変なところで安心してみたくもなる。
海外旅行や留学中は、日本では絶対に付き合うことのなかったであろうお頭の方々とともに時間を過ごすことになる。私は常に上を見上げて我が脳みその出来の悪さに絶望していたことからも分かるように、自分が賢いだなんて一分一秒たりとも思ったことはない。人間の頭というのは、ほぼ生誕時からその質が決まっていて、その後の人生で申し訳程度でも、頭をcultivate(耕す)したかで程度が決まる。愚かであることは悪いことではなく、その人なりにその人なりの人生を生きれば良いだけで、賢いからと言ってそのこと自体が善であるわけではない。その一分や身分、身の丈を認識し、甘受し、消化して歩んでいけばよい話である。東大にいるときは、周りに比べて、自分が生きるに値しないと思えるくらいに、能無しで、穴がなくても掘って逃亡したいくらい、色々恥をかいてきたが、それがいかに恵まれた環境であったか、思い知らされると、精神衛生上楽しくない。ただでさえ腐っていた自分の頭の腐敗が超速度で進行していくのに立ち会わないといけないし、「頭の程度」で付き合いをセレクトしたがる自分の欲求に、啓蒙的な理性が立ちはだかるのに、いちいち付き合わないといけないからだ。
一目見れば、その人がどの程度のことを普段考えている人か大体想像がつくし、3分話せば、それは確信へと変わる。一日居れば辟易するか、素直に楽しめるか、平伏しているかの大まかには3通りである。しかもこれは、言語は根本的な問題ではない。外国人大学院生が日本語で書いた日本政治思想の論文を、すべての日本人が添削できるわけがないのと同様に、私が表現したいことは英語でもアラビア語でも仏語でも、文法が完全に合っていてもそのそれぞれの全ての話者に理解され、やり取りができるわけではない。そういう目的で外国語を学ぶときは、適切な指導者や練習相手の確保に苦労するし、その内容を把握して欲しいと思えば、戻るところは、一番簡単なのは、今在籍している大学なのだな、と、傍から見れば、かなり意地悪く、性悪発言をしてしまう。もちろん、私が恵まれていたのは、私が在籍している大学の威光と制度によってであって、それを着ぐるみはがされたら、何も残らないどころか、マイナスにさえなる、「ただの人」を凌駕した「社会的害悪」にすらなりかねないのだから、己の問題を棚に挙げるつもりは毛頭ないが、クウェート男1とイラン男3とロシア男女それぞれ1とブルガリア女2と台湾女2と半日BBQにビーチに行ってみた日には、やっぱりそんなあほらしいアクティビティーは実際あほで、それに参加した自分ももっとあほだった、と半ば誇張気味かつ自嘲気味に嘆くしかすることがないのである。
アメリカに1年留学した先輩に、どうでしたか?と訊いて返ってきた答えが、「皆考えていることが高校生みたいで話にならず、ずっと部屋で本を読んでいたよ」に、ものすごく今共感し、ならばアカデメイアに残らない限り、就活でどうせ入ることになる「負け組」的な組織や会社で、こういうフラストレーションを抱えながら生きていかねばならんのかと、それはあんた自意識過剰というものだと突っ込んでみるしか「脳がない」。(「能」と「脳」を同じ音にしたのは神のなせる業か。「能無し」より「脳なし」のほうがすっと響きがいい)
I’m not socialistic, I’m not on the mood, I’m not a out-going person, I’m always at home even in Japan unless I have anything I have to do…なんていちいち嘆く自分が嘘臭くてたまらない。この国にはバカしかおらん、と捨て台詞を吐いて、数本論文を書いちゃうような人がいたら、その人の匂いだけでもかがせてくれたら嬉しいと思う。
留学生の中でも院生を名乗る複数の人に食いつきやすそうな話題を振るのだけれど、悉く釣果は微々たるもので、①彼らに能力・気力がない②私に能力がない③彼らに私と意思疎通可能な、共有言語がない④その逆・・・のどれかが原因。
院に行って研究者になるのは、ずば抜けて煌く頭脳と根気強い粘着力を兼ね備える人だけだと思っていたし、今も思っているのに比べると、海外(特に欧米)では、日本よりもカジュアルに院に行ってしまうのから、という勘繰りはこの辺で。
Nazihの言う’empty state’がこの国家の文化的表層にあてはめていいものか分からないが、日本人は召使いを雇うほどの金銭的余裕があっても、「お手伝いさん」や家政婦は見た!的市原悦子のような「家政婦」を、ごく一部の超越的ハイソな上流家庭が雇うだけで、同国人にとどまり、奴隷的扱い(食事を与えないとか性的虐待をするとか休みを与えないとか)は皆無に近いと(信じたいし)思う。人を奴隷的に使用することに慣れきり、車と家と使用人の数でしか社会的地位を誇示できず、知識や教養や「中身」の重要性は「重要でない」という形容詞が霞んで見えるほど、力を持たない。ステレオタイプ的見方をすれば、日本人は資源のないところに、頭脳労働肉体労働双方を(大まかに言って)自らの手で持って進め、経済発展を遂げたとすれば、ここクウェートは突然降って沸いた石油で、何の努力もなしに、短期間で「近代化」され、その後の社会保障の完全丸抱え状況は(北欧諸国は税金をペイしている分見返りがあるが、ここではone-way(一方通行)にgiven(与えられる)だけである)国家社会主義なんていう生暖かい表現では足りないくらいの、「お世話ぶりであるから、頭が腐るのも致し方ないのかも知れない。
しかし、問題は、中身がないempty stateの中身のなさemptinessの価値判断を、どこまで相対的に踏みとどまるべきか、ということである。私たちはいつまでどこまで相対的にあるべきなのか。それはそれ、これはこれ、と言った瞬間、思考停止。相対主義は生産的ではない?
How much should we be relative? Is it guilty just to state the affairs without any value judgments? The coming of thought to a standstill could be said ‘unproductive’? To begin with, it seems to be prohibited to pursue the rationality or productivity here in this ‘culture’. According to an Islamic culture lecture I have heard in a mosque, a lecturer seemed to criticize its modernization or consumption culture, which can collapse the beliefs of Muslims; however, they seem to remain as mere superficial causes, not as fundamental ones. It is too naïve only to mention and criticize the products and results brought by ‘others’. Why cannot they come up with ideas to force the vector to the inside of them and ‘cultivate’ themselves?
(Warning! This is my mere monologue which is not ready or matured enough in English to be criticized and it still needs a long explanation and backgrounds, hence, please keep your opinions in your mind)
単純労働の人員の過剰さ、外観と体裁第一主義、歪んだ男女関係と宗教的「恥」の観念がもたらす数々の悲劇・・・。この国やこの国に似た(UAEやバーレーンやカタールなどの石油新興国)国の「中身」や「質」の将来を、現地国籍人に代わって憂慮してあげるこの日本人の態度を、厚かましいとも傲慢だとも指摘する能力も気力も態度のなさそうな彼らに対して、留保をつける必要も、謝る必要も、当分は、少なくとも数十年はないかも知れない、と、1ドルが98円とか、1ユーロが125円とかという、旅行する身分にとっては夢のようなレートをたたき出してしまう世相で思うのは、世間知らずもいいところ、ということにしたい。
それにしても、empty stateに比べれば、日本は何だかんだ言って、「骨太の国家」なのだなあとしんみりするのも世間知らず、ということにしよう。
もうひとつ付け加えれば、クウェート大学の学術的、つまり、学生の全体的で平均的な学問レベルは、想像を超えて、死ぬほど低く、易しい。イスラム法とか、イスラムに特化した部分は、他国と比較しようがないから、別として、例えば、英語は、私が中3とか高1にすらすら読んでいたものを、たらたらと読んでいる感じで、理系に至っては私が高1で覚えさせられた周期表をやっとこさやっているといった有様である。政治学を見ても、有斐閣アルマの一番下のランクでさえもびっくりな、高校の倫理政経レベルを超えなさそうな教科書の勢いだし、そもそも図書館はスカスカで(湾岸戦争で全部焼かれた、という言い訳は他への投資を考えたら説得的でないのは明らかである)、資料のコピーは8時~13時にこれまた「使用人」に頼まないとできないという方式で、キャンパスからは16時を過ぎると人はまばらになり、17時を過ぎるとほとんどいないと言っていい。アラブ人は図書館で勉強しないだけだ、家で勉強している、と言う人もいるけれど、ゼミやらないの?資料要らないの?コピーしたいときにしなくて済むほど資料集めしないの?君たちは家でそんなに数多くの種類の各国の新聞や雑誌を採っているの?・・・・・なんでもっと勉強しようと思わないの――――?!
私があの威容で異様で偉容な本郷図書館と比べすぎているのか。日本の普通の大学はクウェート大と大差ないのか?でも、この大学は中東で5本の指に入るという。東アジアで5つ大学をセレクトしてみようよ。東京?京都?北京?精華?ソウル?香港?シンガポール?チュラロンコーン?他にもまだまだアメリカやイギリスの作る大学ランキングに上位に来にくいが、質の高い大学はいっぱいあるよ。
経済的な側面ではもはや説明不可能であるくらいに、クウェートはお金を持っている。大学教育に投資して、有名な教授をお金で呼んで、有名な世界の各大学から奨学金をどっさり出して学生を呼ぶくらいの資金は朝飯前で、emptyな図書館を本で満たすことだって、可能なはずだ。(クウェート国籍を持つ人は勉強しなくても働かなくても享楽的に生きていけるから、その必要がないという理由はひとつあるけれど、私が聞きたいのは、そういう物理的側面ではなしに、メンタリティーの問題として、なぜ?なぜ?ということである)
なんで勉強しないの?という問いは、なぜmore(もっと)やbetter(より良く)を目指さないのか?やはりこの世と比較して、人間は神に比べて無力だから天国を充実して見せるためにも、あ・え・て、この程度にしているとしたら、がむしゃらに頑張る我らより、よっぽど高度で哲学的なテクニックだと思う。
私は訊きたい。勉強に限って訊きたい。勉強しないで得られる「いいこと」(メリット、アドバンテージ)と勉強して得られる「いいこと」を比較することは許されないのか?もっと考えたい、もっと知りたいという欲求は、神の怒りに触れるのだろうか?だから、日本人やアメリカ人(とりあえずアメリカ人としておく。これはイギリス人でも何人でもいい)に天罰が下ったと、あなた方は批判するのか?(昨今の金融危機は神からの天罰だ、みたいな論調は新聞にも少なくない)
在留外国人すべてに課される健康診断で、B型肝炎ウイルスが検出された台湾からの留学生が強制送還された。彼女はもう二度と戻ってこないだろう。fierceだがstrongではない、emptyなstateと言えば、以前見た、ウガンダのアミン大統領の暴政を描いた映画を思い出す。なんとなく面白そうだからという軽薄な動機でスコットランドからやってきたこれまた軽薄な青年が、ずるずるとアミンの手に堕ちていく様子が、かなりfierceに、おどろおどろしく迫ってくるし、今ではよく思い出せないが、植民地主義とかアフリカの暗い部分とか、かなり見る人を選ぶけれども、人によっては相当程度深い考察が導ける秀作だった気がする。その中で、主人公の青年は大統領の第二夫人と通じてしまい、第二夫人は手足首を斬殺されて、惨たらしい死体となって発見されたシーンがあって、これはもちろんアミンがやらせたものだが、ここから言えるのは、いくらfierceと言えども、fierceなことをやっているのは人間であって、巨大で、一人の普通の人間の力ではどうにもすることのできないほどの国家であっても、それは個々の人間の集合なのである。ただ、まだウガンダのほうが、アミンの独裁ということで、意思決定の過程は透明でクリアーだけれど、アラブの論理や、この国インシャアッラーは、どこまで人間の所業を覆い隠すのだろうか、とも憂慮できる。日本はすべての外国人在留者に健康診断を課しているのだろうか?アメリカは例えば移民大国で、そんなことは捌ききれないような気がするのだが。誰か教えてください。
2 comments:
I guess I should stop writing comments :)
No kidding! I've just wanted to say that this entry of mine is not worth discussing. I'm always looking forward to something you say to me...
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