Wednesday, November 19, 2008

愚か者めが



日本は寒いらしい。ストーブも焚いているらしい。巷ではクリスマス商戦もじわりらしい。あの神経が研ぎ澄まされるような張り詰めた冷たい空気。日の昇らないうちに駅へと急ぐサラリーマン。袢纏に身を包み、首を竦めて悴む手を袂に突っ込みながら、机上の明かりだけを照らして勉強する日本の冬の夜を思うと、気候によってメンタリティーが異なるのは当然で、こうして打っているワードフォントも、明朝体にしてみたりゴシックにしてみたり、なんだか感傷的になって教科書体にしてみたりしながら、何かに規定・限定されることの喜びや快感を浸ることにしてみる。それだけでしかない、しかしそれだけでもある私を愛する作業。

10月は週に一度、フランス語に浸る日を設けていたのに、11月に入ってアラビア語でいよいよ手一杯になり、そんな悠長なことは言っていられなくなった。2週間のブランクを経て、先日突然アフリカ系の仏語話者に話しかけられ、以前のように会話しようとしてもなかなか言葉が出てこない。先にアラビア語のほうが脳裏に浮かぶようになってしまった。抽象的な文を読むのは仏語のほうが数千倍ラクだけれど、日常会話で、例えば、先生の車があるから、もう彼はここに来ていると思う・・・なんてのはこんなpoorなアラビア語のほうが早いだなんて。愕然。唖然。呆然。の日本語も使わないと、ただただ廃れていくだけで、2時間くらい会話しないと弾丸トークは戻って来ない。

私たちは数え切れないものものに雁字搦めに拘束されていて、己の意識がどこにあるとか、難しいことを言わんでも、環境や外部と私自身とのベクトルのぶつかり具合は考えないと見えなくて、呆けているほうが幸せかどうかはさておき、人間らしいという点では満ち足りた気分にもなれるから、それほど悲観しなくても良い気はする。「適応」という、恐ろしくも心地よい単語はどうでも良いから、どの地面に立っても、スッと背を伸ばして両足で踏みしめていられる、大人になりたいと思う次第。

日本でクリスマスがあんなふうに受け取られていることを批判する人は多いけれど、別に大したことではないと。クリスマスというイベントが毎年やってくる。同じようにやってきて過ぎていく。クリスマスという単語は何に置き換えても結構で、ただそうしてしっかり時が流れ、動いていることを認識できるということが最も大事なことなのだと。また冬が来た、とか、また春が来たとか、大統領選が4年に1度あるとか、祝祭や「遊び」というのは伊達にあるものじゃないと。

祝祭、といえば、アラビア語でعيد(イード)ですが、イード・アル・アドハー(عيد الاضحى)という、イスラム暦(ヒジュラ暦)12月のメッカ巡礼の最終日の10日に行われる動物犠牲の儀礼があるそうで、(私はこれ以上の知識は、今はなく何とも。)語学センターは5日から13日まで休みになるので、6日から15の早朝というスケジュールでインドに行って来ることに。シーズン中なので、航空券は通常より高いけれど、帰りはシーズンを外して来るので、税抜きで片道7KD(=2800円)という驚愕の価格。インドは一度行かねばというお国だし、しかし日本に帰ればもう行けるチャンスはないわけで、まだアラビア語力も十分でないし、たまにはアラブから逃亡するのも悪くないということで。1月中旬から2月末までの冬休みは、カイロのArab West FoundationというシンクタンクっぽいNPOでインターンしたいというお願いをしているところ。通らなければ、また友人を訪ねるアラブ旅行。旅行の許されず、1ヶ月半も軟禁状態に置かれる中国人学生を尻目に手を振るのは、さすがに良心の痛むところではあるけれど、中国に、イスラム圏に、生まれなくて良かったなんて、本音を言ったら、偽悪者を名乗る偽善者から脱出できるとでも?

疎外、なんて聞くと鳥肌の立つ人もいるのかな。でも、その言葉がリアルに聞こえるのは、非正規雇用とかワーキングプアなんていう日本国内のお話ではなくて、ここクウェートに集まるスリランカ人やインド人やフィリピン人にとってのリアリティーなのだと最近特に思う。働けど、働けど、もらえる給料は微々たるもので、母国や母国周辺国よりはましだとしても、果てしなくやりきれない彼らの生活に、多少なりとも救いがあればという傲慢という情け心が、私を挨拶の道化師にするのだろうか。一日で彼らの月給を軽く稼ぐような日本人の「生きる力」のない女が、どんなに笑顔を作っても、その空虚さは彼らにこそ見抜かれるもので、彼らに疎外なんていう古びた単語を宛がうのは、失礼も甚だしいところかも知れない。世の中不公平なのは知っているつもりでも、その「不公平」だとか「不平等」を口にする者の口に、毎食、脂ぎった食い物が入って排出されているならば、それほど滑稽なことはないと、重々承知していても。

写真は、部屋の窓から見える、ちょっと欠けた月と、満月という意味を持つ私の名前、バッドリーヤのキーホルダー。日本の観光地にもよく子供向けにあるような、「まりちゃん」「ようすけくん」というスタンプとかの類です。最近は万葉暴走仮名的名づけも流行って(?)、そろそろそういうのは姿を消すのかも知れませんが、名前の種類がどう考えても、漢字で付ける日本語以上にはならないアラビア語名では、数も少なくてよろしいこと。

インドのロンリープラネットを相方と折半して買ったのだが、2005年版で4800円もした。日本でも最新版は3000円くらいするけれど、中古なら1500円くらいで買えるときもある。日本の歩き方は1800円に大体抑えていて一通りの情報が網羅されているから大したものだと思う。ステレオタイプな日本の迷信を信じるほかない「途上国」の人たちのイメージに反せず日本の住居費食費等(それでもヨーロッパに比べたら)は「高い」と言えるけれど、電化製品も書籍も衣服も、ちゃんとしたものや世界最高水準のものが一番お手ごろな値段で買える国ではないかと思う。

単語帳を作る際に、訳を英語や日本語ではなく、仏語でやったら一石二鳥だ、ついでに独語も・・・と調子に乗って書いてみたら、途方にくれてしまい、よくありがちなことだけれども、全てがどうでもよくなるような、バベルの塔よクソ食らえ、みたいな投げやりやる気沈没。それでも、逃避して、一晩日本語でゲーテの格言集を読んだら翌日には復活した。(・・・という話をアラビア語で書いたので後日up。今先生の添削待ち)偉大だよ、さすがに。

いくつか痺れた格言をば。()内は駄文コメント。

考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。
(静かに、静かに・・・ね。)

人間のあやまちこそ人間を本当に愛すべきものにする。

空気と光と
そして友だちの愛
これだけ残っていたら、
弱りきってしまうな。
(私が弱ってしまうよ、ゲーテ先生。)

生き且つ愛さなければいけない。命も愛も終わりがある。
運命の女神よ、この両者の糸を同時に切ってください。

少年のころは、打ち解けず、反抗的で、
青年のころは、高慢で、御しにくく、
おとなとなっては、実行にはげみ、
老人となっては、気がるで、気まぐれ!
君の墓標にこう記されるであろう。
たしかにそれは人間であったのだ。

人類ですって?そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。

人間であることが許されないことほど腹立たしいことはない。

ほんとにたくさんの矛盾のうなっているところを
私は何よりも好んでさすらう。

ああごくの知ることは、だれでも知りうるのだ。----ぼくの心(ハート)はぼくだけが持っている。

頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!

あけぼのの薄暗いうちにいち早く起き出して、太陽を待ちこがれていたくせに、太陽が上ってくると、目がくらんでしまう人のような気持ちを私は、学問において味わった。
(はい。もう、どうしてって。目を輝かせて研究者になりたい、なんて言える人は別次元の人なの。)

仮説は、建築する前に設けられ、建物が出来上がると取り払われる足場である。足場は作業する人にはなくてはならない。ただ作業する人は足場を建物だと思ってはいけない。
(ゲーテ先生。ありがとう。)

すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。

自分自身をなくしさえせねば
どんな生活を送るもよい。
すべてを失ってもいい、
自分のあるところのものでいつもあれば。

われわれは結局何を目指すべきか。
世の中を知り、これを軽蔑しないことだ。

人は努めている間は迷うものだ。
(生涯、迷い人でありたいです。)

思索なんかする奴は、
枯野原で悪霊にぐるぐる引きまわされている
動物みたいなものです。
そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。

・・・・ここまで。
最後に3回叫んで終わりにしよう。
愚かものめ!愚かものめ!愚かものめ!
・・・・はい、スッキリ。

6 comments:

Anonymous said...

格言、結構知らないのもあったわ。素敵ね。

本年のクリスマスという名の祝祭は友人とちゃんこ鍋でも食べに行く予定。いや、無宗教じゃないけれど、私にとっては(恋人たちの、なんて頭辞をつける気はない)お祭りだしイベントごとって好きなんだと思う。と再確認。

内定取り消しも多数の厳しい風潮だし、東大法学部も殺人予告を掲示板に書かれる始末だけれど、それでもいろんな不条理さにいまひとつリアリティがないのは日本のぬくぬくした面なのかね。

こっちはさむいよー。ちょっとあったかくなったかと思って油断したら、あっという間に風邪っぴきマスクだらけになるような11月前半でした。
ここのところ焼きみかん食べてます。

写真見る限り元気そうで何よりですが、体調に気を付けて下さいな。

hnnvansier said...

It is nice to have health-caring friends like maeko-san. I could not understand at all but hope you are all right.

So they sell named wooden chains, sweet. Unfortunately, it is impossible for my name to be found on cups, chains etc.. too long :D and rare here i think.

Also, are all those views, taken through your dorm room's window? If that's the case, you have a considerable view over there, lucky.

soissoimeme said...

>> maeko殿
殺人予告―――! それは文字通りの意味で?! 厳しいね。不条理だね。十分リアリティを感ずるよ。全然違うレベルの不条理で、日本のことを考えるときは、ちゃんと頭がそっちに移行するものねぇ。(ため息)

焼きみかん・・・身体に良さそう。いいなあ、みかん。こっちは日本の10月の初めくらいの最適な気候で、日本とは比べものにならないくらい色々な意味でラクな生活をしているから、私のお肌はどんどん綺麗になるし、お化粧もできるようになったし、すこぶる健康なの。それから、日本に帰ったら、大学徒歩圏に弟と住むことに決めたの。前の生活に戻ったら、この1年の静養がチャラになっちゃうの確実だからねぇ。(1に静養、2に勉強w)

というわけで、私なんかより、まえこ殿の心身のほうがよっぽどハードな状況かと。倒れないでね。無理しないで。ともかくコメントありがとうー

soissoimeme said...

>>kerim,

Yeah, as you can see, my health condition is the utmost in these 2 years. al hamd lilla!

Yep, all the photos are from the windows of my room. This is the best place to look over the city and think something hearing Azaan.

hnnvansier said...

Aha al hamd lila :D Turks say "elhamdulillah" which is same as Arabic one i think (: Well, Im glad to hear your health is well for over 2 years :) What to say.. 'masallah' :D

Azaan (Turkish: 'Ezan') is nice to listen, especially in the early-morning. I like to walk on streets at those early-morning hours, while they are empty, not bright -but also not dark- and ezan echoing over the sleeping city..

soissoimeme said...

Yeah, exactly, masshalla! Thanks!

I also really love hearing the earliest azaan, and I think I’m sharing the same feeling you have. I also like the 15:00 and 17:00 (not exactly) azaan. They remind me that the time is passing while studying.