高校の最も仲の良い(と少なくとも私は思っている。相手側はどう思っているか分からない)友達数人を新居に「誘って」(前記事参照)、一年ぶりに再会し一日の4分の1程を共に過ごしたはいいものの、どんどん日本社会の一般常識(と観念されるもの)からかけ離れていくことに、危機感を既に通り越して、諦め、開き直り、自暴自棄の境地にさえ至ってしまったことが何とも情けない。彼女ら3人のうち、2人は既に社会人として働いており、1人も就職活動を経て無事に内定を得ている。つまり、彼女たちに比べて「世間知らず」であるとか、「社会人のマナーに疎い」私は、明示的には回避したものの、思うが侭に発言していたら、彼女らたちとの乖離感が痛々しいほど浮き上がってしまっていたであろうことを思い知らされた。
思うに、「自分の居場所が見つからない?ふざけたことを言うな。居場所は見つけるものじゃなくて、作るものだ」と思われる向きも多かろうが、努力して安住の地を「作った」ならば、それはもう既に「イって」しまったという場合もあるだろう。私のような、「居場所はどこにもないけれど、すごくこれで満足しているし、これ以上は望まない」とか言ってしまったら、社会不適応人間以外の何者でもないのであって、「普通の」人ならば、どうにか「見つかる」ものなのではないか、と。違う、それは「見つけた」のではなく、苦労して「作り上げた」「獲得した」ものなのだと言い張る向きがあるならば、そんな偉業を成し遂げられる人間には元々「作る」必要性などなく、「自分の居場所がある」と感じられるという時点で社会からお墨付きを得ているような気がする。要するに、居場所が「作れる」と信じている、居場所は「作る」ものと認知している時点で、リア充っていうやつなのではないかと。まあ、大したことは言っていません。
以前にも書いたようで恐縮だが、「女の化粧は男のネクタイと同じで社会人としてのマナー」だとか、「化粧は教養」とまで言ってのけたキラキラ女がいたが、まぁ、実際のところそうなのであろう。従って、私にはマナーが備わっておらず、教養もない、という結論が導かれることに何の異論もない。まあ、実際問題、「化粧をする物理的肉体的能力が備わっていると客観的にも、(経験からそれらが備わっているかどうかを見分けることができる)私にとって主観的にも、思われる女性」が、化粧はおろか、それ以前の身だしなみのレベルで圏外である場合、多くの場合において、その人は社会との接点をあまり有しない人であるか、有するにも関わらず、「関心が無い」という理由のみでそういう状態を維持しているのであれば、私が言うのも何であるが相当に「変わった人」であることがある。そうではなくて、病気その他疾患によって化粧ができない女は・・・まあ、大部分がやはり「社会」不適合であって、何かの前線で「活躍」しているということは滅多にない。「化粧なんて大事ではない。あくまでも清潔感が就職活動では求められる」と言う(自称他称)”企業の人事に詳しい”人々よ、化粧のできない人間の殆どに清潔感など有り得ない、と教えてあげよう。醜悪さを強制的に周囲に提供する人間を採りたい企業がどこにおるか。「障害を持った人の採用」と同じように、「「自らの意思に反して」社会人としてのマナーを遵守することのできない人の採用」もある一定の割合、義務付けることなしには、彼らの行き場など社会にはなく、見つけられにくいところに留まり、一般の人に対しては「化粧ができなくてマナーや教養が備わった、有能で優秀な人など見たことない」という印象を与えるのである。・・・まあ、ここでは、もちろんのことだが、化粧ができないが優秀な人がリクルート市場から”一般的に”排除されている可能性と恐れ(またそれによる損失が見込まれないこともないこと)を指摘しているだけであって、何も私が(筆者が)そうであるとは一言も言ってはいないし、また皮肉を込めて裏返しにして暗示するなどの高等技術も持ち合わせていないことを付記しておくが、まあ、こちらに通ってくださる読者の方々には意図は見え透いたも同然だろう。
外野が騒がしくなってきた。エントリー、エントリーとよく意味の分からない単語を振りまいている。ちなみに、隣と真向かいの中国語を話す人々も毎晩騒がしい。中国語を話す友人も多いので、中国語には特有のアクセント等により必然的に発声が日本語のそれよりも大きくなる傾向があると理解しているものの、声の音量ではなくて、音楽とかテレビの音量については何とかならないものだろうか・・・うーむ。
私が考えるところの、「知的バランスの均衡」がとれた人は、(自分が最もアイデンティティーを置く比率の高い主権国家あるいは領土と言う意味で)自国のことを「素敵(nice)」と呼び、「素晴らしい(great)」とは呼ばないところにあるのではないかと最近思う。身内のこと(文化、宗教等すべて)をgreat!great!と叫ばずとも、 ah, niceとクールに言えるのが丁度良い。そんなこんなで日本人と呼ばれる人々を私は愛しているし、彼らのためになる、或いは彼らに負の影響を与えないようなことをしたいと願っている。They are not so great, but still nice...So? I still like them.
Monday, October 5, 2009
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5 comments:
Japans? -Kerim
Thanks for a comment. I wrote I regard it sophisticated if you call your country,culture or something you belong to "nice", not "great". That is the stand point which the learned should take, as long as I think now.
hmm I understood. I believe, every civilization is 'nice' -at your manners. So, one should always be proud (not in a fascist way) of her/his nationality. I'd be a proud Japanese if I were a Japanese; or a proud Georgian if I were (who knows? hehe) And a proud Armenian.. etc etc (its a long list eh..)
Im glad that you also think that way.
BTW, its me, Kerim again (the post above).
Yep, I'm also glad and always impressed at your attitude toward these themes.
If I was a Turk, I wouldn't say that Turkey is great but nice. If I was a Syrian, I wouldn't say that Syria is great but nice.
Now I'm a Japanese and I won't say that Japan is great but it's nice.
As I know, everyone has his/her origin. Nobody can't be born without parents, and that's the origin. So I rather would like to say that we can't live without being proud of our origins, although we can live without being proud of nationalities.
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