Wednesday, October 28, 2009

Back to the basics?

I do not feel like thinking in Japanese now and I should be trained to say what I want to shortly and simply in English. As you know, my writing always tends to be verbose in any language and it shows a strict incognito positively and negatively. Let us get started whatever.

The things that happened to me today and what I am/have been thinking (recently)...

*My dearest English teacher from Ireland at my high school days seems to have finally gained her happiness! (Or be getting?) Anyway, I really hope all of those who I know live their lives as they want to. In these days, I have been thinking like this, seriously.

*Looking back on those days in Syria and Kuwait, I recently have realised again that the Arabs are strongly based on their mercantile mind-set. Although I am not going to generalize them all at all, I do not want to stick with my certain experiences and I am always talking in general, (1) they think things in a quite positive way (thus sometimes they do not tend to pay an attension for self-examination), (2) they also tend to count on and seek a favor in return in an obvious way (meanly, they do not care others' current positions, conditions and feelings if they want to ask a favor of others, especially when they strongly believe that they have already done enough for those people and they have rights to be given a help, which is mostly and generally considered in the West or at least in Japan to be completed by themselves, (3) they do not tend to hesitate to say to others whatever they want, compared to the other cultures that I know.

Even from only these 3 points, you can arrive at some results. I have stayed in Iran just 8 days, I do not have any knowledge of Persian and I have never compared which language is used on the Internet or books more, Persian or Arabic, but I feel that there are more information on the Internet and books in Persian than in Arabic. I do not think this is warranted, but at least I can say that there SEEMS to be Persian cultural and educational stuffs (the info and books, etc) many enough to convince me that it could be more than in Arabic. This fact is especially related to the reason (1). (if someone finds the data, please share it with me)

I really love how the Arab think and their culture of course (indeed I felt falling in love with them), but the Persian culture or their way of thinking excite my sympathy more than the Arab do.

*I would like to welcome or at least accept any criticism and survive any kind of it. I hate those who pretend to be tragic heroines. When I see those persons who have the opposite tendencies and characters from what I prefer, I try to be back to the basics and I reassure that I am not that bad.

Friday, October 23, 2009

300字×2

自分をものに例えると、お地蔵さんである。誤解を招く表現だが、私は神だ仏だと言っているわけではない。じっと街の片隅で雨の日も風の日も常に微笑を絶やさず、人々の生活を見守っている。世知辛いこの御時勢でも人は私にきれいな水をかけ、お供えを欠かさず、首にはいつも何かかけていてくれる。地に足をつけ、人に良く恵まれた。目新しいものは何も持ち合わせてはいないし、動きも鈍いけれど、一度誰かの心に入り込んだら、どこまでも自由自在に飛んでいく。非力だけれど、どういうわけか愛着のわく見過ごせない、まず見殺しにはできない存在。無償の永遠の慈悲が宿る、そんなお地蔵様に例えるのは罰当たりだが、少なくともそんな人でいたい。

私には強烈に個性的で趣味はない。これからの人生、働くことなしには喜びも苦しみも感じることは稀だろう。世の中で働くことで、人間関係の中で生き、ようやく自己の存在に承認がなされ、良い仕事をするにつけ、悪い仕事をするにつけ、そのひとつひとつが生きる糧となるのだ。もし自分の仕事が世の中の人々に悪影響を与えなければ、そこで初めて私はプラスの意味を持つ。周囲や私に関連する全ての人に感謝するだろうし、感謝されもするだろう。単純な私はそれで喜び、この社会で生きる資格を得たと、笑顔で明日を迎えることができるのである。「生きてよい」という証明を自分と他者に与えられるという承認の実現が最も根本的な仕事の意味である。

とある商社の1dayインターン申込がこんなんで(笑)通ったらすごいな。

Thursday, October 22, 2009

嗚呼

●駒場の若い生気を週に1回吸い取るために(その他理由多数)教養学部後期のゼミにaway感たっぷりに参加しているのだが、教養後期の人たちってなんであんなに楽しそうなんだー。「楽しそう」なんだよね、皮肉に聞こえたら申し訳ないけど。

次にこれを言っちゃあ前言が皮肉にしか聞こえなくなっちゃうだろうから恐縮だけど、3年も大学にいて、なんでいまだに(っていうかそもそも最初から使ったことないけど)Wikipediaコピペで発表できるんだー。可愛い子だったから許すけど、本当にすごい。尊敬、敬服する。そのWilipediaを多用しました(ハート)って笑える自信を見習いたいです。Wikiだろうが何だろうがそんなもので私は揺るがないわ!・・・みたいな?うーん、無理があるか。

●農学部の合説に。農学部の夜は素敵だ。猫になって就職するなら、法文1,2号館周辺なんかより、農学部キャンパスを希望だね。獣医さんもいるし。

●以前に書いた記憶もあるけど、私はよく、道や時間や講義やゼミについて訊かれ、手相や募金で呼び止められる。私の他にも人はいいーーーーーーっぱいいるのに、何故か私を選んでくださる。別に自意識過剰なわけじゃないが、そんなかすかな疑義は確信へと最近(帰って来てから)特に思う。「このゼミって~~~~~なんですか?」(え、なんで私?隣の隣の人超えて・・・!)「この授業って毎回レジュメあります?」(ああああ、はい、ありますよ、で、なんで私・・・。)「今何時ですか?」「○○○研究センターってどこですか?」(・・・し、知らないよぉぉぉぉ)・・・その他多数。

そんなに訊きやすい顔、雰囲気してますかね?(それともこれくらい平均的なのかしら)毎度、ありがとうございます。皆様のお役に少しでも立てたなら幸いです。「尋ねやすい人」を目指して今後も精進いたします。ーーーーぶすーっとした顔、態度してると思うんだけどなあ。こんなのに訊いてくださるとは、何ともありがたいことです。

●夕飯時の買い物客で賑わう商店街の一角で、お地蔵さんにひたすら何度も水をあげているいたいけな少年が。そこには、宗教の毒も魔薬もなく、信仰も何もかも、そんなものをとうに超えた、「慈しみ」だけが純粋な形で残っていた気がする。笑いもせず、目も逸らさず、ただ一心に何度も、何度も、透明な水をかける。お地蔵さんと彼が何を話していたのか、お地蔵さんがどんな顔をしていたのか、私には知る由もない。

●朝と、日のとっくに暮れた夕暮れどき、自転車で風を切るのがたまらなく心地よい。なぜ私はこぎ続けるのか。大学に向かい、家に向かい。渋谷の交差点でもどこでもいいけれど、急ぎ足でもたらたら歩きでも、どこかに歩いているってのは本当に幸せなことだ。少なくとも、どこからか来て、どこかへ行く場所があるんだから。何かのドラマかCMみたいに、交差点のど真ん中で立ち尽くしている人なんて、滅多に出会えたもんじゃない。だから、それだけで、人間が歩いているだけで泣けてくる。ここまで来ると病気かも知れない。だったら、治らなくてもいい。

●今日、何人の人に直接的にお世話になったか、迷惑をかけたか、傷つけたか、不快感を与えたか。間接的なのも入れるとこんな私でも恐ろしくなってくる。100人殺せば英雄だ。もう私も立派な犯罪者だから開き直ることにする。嗚呼、生かされている。今日の人たち、ごめんなさい。すみません。そして、ありがとう。

●昔のほうが研ぎ澄まされた感覚と文章で書けていた。少なくとも今よりは。何が欠けて、何が足されたのだろうか。

Tuesday, October 20, 2009

緩みきった涙腺の果て

偶然つけたワンセグが昭和平成名曲ランキングなるものをやっていて、(①平成も20年過ぎるとあたかもある程度過ぎたかのように「平成」として振り返り始めるのだな、②にしてもあと何年平成が続くか分からないのに、「平成」の、とするのは、例えば昭和40年とかに同じように振り返っているのと同じくらい滑稽なわけで、そこには、(α)昭和が終わろうが、平成があと何年続こうが基本的に世の中は動いていくはずだという頼もしくさえある確信(=天皇がいつ崩御されても大丈夫、そういう国はそんなに多くない)と、(β)そもそも「昭和」「平成」で区切ることのノスタルジーというか、一種の暗黙の了解、区切ることによる心地よさが(いまだ?)存在している(要するに、70年代、80年代・・・00年代という区切り方ではないということ。思うに、00年代という呼称の違和感はかなり多くの人が共有しているのではないか)ことにど・う・し・て・も安堵感を覚えてしまう私は、かなり以前から、自分が大好きな=愛国主義者だったのだろうと、最近改めて思う。

本当に1万人から集計を取ったのかどうだか知らないが、まあ、大多数の人が名曲と感じる曲は、カレーで言えば「バーモンドカレー中辛」というか「マルちゃんの焼きそば」のような80点主義になるものだが、次々と繰り広げられる哀愁爆弾に、緩むことに恐れを感じなくなり始めた涙腺が反応・・・。音楽っていいな・・・しかも昭和の曲第1位が私御贔屓の「なごり雪」ときた。

でも、待った。別に世の人はその「音楽」自体にうるうるしているわけでは毛頭ない。自分の生きた時代に、関わって、染込んで、切っても切り離せぬ、あの瞬間の、あの感情の、あの台詞に被さった、あの曲が、人間の生の営みを高らかに歌い上げた(殆どの曲がそうです)曲が、人間って汚くてあくどくて愚かだけれど、その愚かさや愛憎の襞が、愛くるしい、取り返しのつかないほど懐かしい、恋しい、ああ、生きていて良かったor私に繋がる命に感謝・・・と、「人間」自体に感動しているのだろう。少なくとも自分はそうだ。

実家のある田舎で成人の殆どは自家用車通勤だから分からないのだが、東京の山手線内側に住み始めて、朝の7時半頃に外に出れば、色々な価値観の色々な事情や思いを抱えた色々な年代の、それこを定年間際のサラリーマンから、手足が折れてしまいそうなほど細い黄色の小学1年生、母親の自転車の前と後ろに乗り込んだ3歳児と5歳児が、朝の清清しい秋晴れの空の下を行き交っているのを・・・・(涙)・・・・見ているだけで泣けてくる。

埼京線の池袋駅で駅員に詰め込まれる通勤通学客や、日本医科大学が近所なものだからよく通る救急車のサイレンに一斉に反応して道を譲る車たちや、夕飯時に勤めから帰りがけにスーパーに寄ったそれぞれの人々ができるだけお得な商品を選んでレジに並ぶ姿とか・・・もういい、銀杏の葉が落ちてくるのを安田講堂をバックに25番教室の窓から見るだけで・・・十分なのである。

人間とか、この世の尊さや美しさに耐え切れなくなるのには、十分なのである。十分だ、十分だ。慈悲だ、包容力だ。私は、私は・・・・何者でもないけれど、あなたたちが大好きだ。あなたたち一人ひとりが、幸せだと感じて生きていけるように、それだけを祈っている。

おそらく、ひとの幸せを願うことが私の生き甲斐となっていけるであろうと思う。本当に私は幸せだよ。







p.s.ち・な・み・に、イスラームでは解釈にもよるが、宗教的音楽(神を讃えるなど)以外の一般的音楽というものは禁止はされてはいないが、禁止の次の段階の嫌悪されるものであったように記憶している。理由はいくつかあるが、ひとつには、男性が女性歌手の声を聴いて悶々としてしまうのは良くないとか(日本で日本人女性歌手の曲を聴いて悶々とできる日本人男性がどれくらいいるのだろう・・・とか聞かない)、音楽を聴いている暇があったらコーランを読むなり聞くなりせよ、ということらしい。だから、教育機関で日本のように合唱をすることはまずありえない。オペラを鑑賞するというのもありえない。・・・ただ、1歩街へ出れば公共交通機関やタクシー、店舗内では日本的価値観からは想像もつかないほど大音量で何かしらの音楽が流れており、その大半が愛だの恋だのといった、およそ哲学的内容など本当にないよう、で(日本の歌謡曲は結構哲学的なものが多いと思う)「やあ恋人よ、あなたが恋しい」とかそんなもんであって、たまにアッラーを讃える現代歌謡曲もあるけれど、まあ、実態はそんなもんである。で、さらに、エジプトやレバノンで多く作られるPVは日本的価値観どころか、(一般的)欧米的価値観からも一瞬たじろいでしまうような過激で性的な魅力を存分に撒き散らしたナイスバディーの舞台化粧女性が腰をひねくり回して踊っているのが現実で、それを愉しんでいる中で、何割ほどの人間が、(名前だけだとしても)ムスリムなのかキリスト教徒なのか(あるいは他宗教)分からないが、「歌」というとこうなってしまうアラブの一方で、タリバーンなんかは厳格に音楽を禁じたわけで、なぜかしら、歌に限ったことではないけれど、極に走ってしまう、ジレンマとか矛盾みたいなものに鬱々としている彼らのような人々が地球上にはもちろんいるのだけれど、名曲ランキングで流されるような、万人受けのする青春歌謡ソングの、淡白さが、一方のそういう状況と並べると、一体何なのだろうと不思議な感情を湧かせるものである。そういう淡白さ、嫌いじゃない、っていうか好きだから書いているのだけれども。

Sunday, October 18, 2009

سبحان الله

何を言おうと喚こうと言うまいと喚きまいと、自分で自分の命を絶つか、諸要因によって死が訪れるまでは、自分に属する(とここではする)時間が、少なくともその時間だけは何があっても自分と運命を共にし、しかも一定の速さで変わることなく絶えず流れていってくれているということは、どうしようもなく有り難くも残酷にも感じられるし、そこには慈悲と無慈悲が背中合わせに同居しているわけだけれども、どちらをとるかは、その人の現在の様々な意味での「状況」(出自、才能、経済的状況等全てを含む)に負うかといえば、必ずしもそうではなかろうことが容易に想像できることが、我々に希望を与えてくれるかも知れない。・・・なんて、要するにどうにかなるときはなるし、どうにもならないときはどうにもならない。でも、誠実に真面目にやっていこうかな、くらいの希望でもあるし、涙がでるほどの希望でもあるのでした。

約1週間前に国連難民映画祭で「ジェニンの心」を観て。ただ単純にアラビア語やアラブが恋しくて、観覧料がカンパ制だったから行ったのだけれど、もうどうしようもなかった。話自体や映画としての質なんか、私にとってはどうでもよいこと。何がどうしようもないって・・・

シリア方言にも近いパレスチナのシャームの国々の愛くるしい言葉を、文化を、習慣を、生で直接、意を解する人がこの会場に私の他にどれだけいるのだろうかと思うと、もちろんそんなに知ったかぶりをするつもりは毛頭ないけれど、1年あの地方にいただけなりに「分かってしまう」ことが含み持つあまりの残酷さと素敵さ(いい日本語が思いつかないけれど、あの辺の口語で言うと、ヘロ(حلو)スウィートね、素敵、可愛い等々の意)を知ってしまった者なりの責任の重さ、責任とか言わないまでも、そのこと自体の重さ、私に目をかけてくれた全ての人々に何ができるかとか、一応イスラームでは神の、天国の言葉となっていて、文語であれば私だって啓示が下されたとされる7世紀の人々とも普通にコミュニケーションがとれてしまうという意味での貴重さや崇高さetcに、سبحان اللهという(直訳としては、「神に讃えあれ!」ですが、実際人が使うシチュエーションとしては「何だか分からないけれど、人の知には及ばない何か凄いものがこの世の中にはある。自分も、この状況も、それによって導かれている。ああ、何とも言えないが、素晴らしい」みたいな感じ。イスラーム教徒にとってはその「何か」が神や神の意思であるのでしょう。例としては、友との別離で、友が旅立った直後に、ああ・・・سبحان اللهとか、遺跡を見て、ここにはあれこれといった歴史や人々が・・・سبحان الله)思いが押し寄せてきて、泣きそうでした。

例を挙げ始めると切りがないけれど、まずこの映画とタイトル自体が、英語ではHeart of Jeninで、日本語もofは「の」になっている。ところがアラビア語ではقلب من جنينとなっている。منというのはもちろんofの意味もあるけれど、どちらかというとfrom的要素が強い。そこに帰属していて、かつそこからどこかに移動したという意味のような自分では気がしている。まあ、そうすると訳としてはofが妥当なのだろうけれど、fromのほうがダイレクトに訳されている気がしないでもない。で、問題はここからで、fromを訳にあてると、主人公の少年の心臓(や臓器)がジェニンの村からがっつり取られて、何人かの人々に分配されていくイメージが強くなる。ハイ、取られた!という。ofだとその生々しさが軽減されてしまう。・・・そんなこんなで、タイトルを観た瞬間から、こういった些細な、訳出不可能な差異がありありと見えてきてしまって。別にこんなことはどんな言語にも言えるのだけれど、アラビア語を話す人々が置かれている状況や彼らがいる場所を取り巻く複雑な情勢etcを考えると・・・重いんですわ。




أريد أن أرى شخصاً عربياً خاصة السوري في طوكيو ولكن طبعاً ليسوا موجودين. فلقد زرت المحاضرة مع الأستاذ الدمشقي ولكن المستوى في تلك المحاضرة كان ضعيفاً وقال لي إنه من ألأفضل أن لا آتي بطريقة غير مباشر وسوف يعطيني المادة إذا سجلت رسمياً....أه أحافظ لغتي العربية كما كانت في سوريا ولكن أشتاق كثيراً إلى اللغة العربية ذاتها و الشعب العربي لذلك زرت مهرجان الأمم المتحدة في الأسبوع الماضي وشاهدت الفلم عن فلسطين. لهجتهم متشابهة مع لهجة سورية وشعرت أنني مسؤولة عن أنني لقد عرفت اللغة العربية"الثقيلة". "الثقيلة" تعني أولاً أنها اللغة في الجنة في الإسلام و ثانياً دائماً توجد المشاكل الكثيرة و الكبيرة و المهمة و المعقدة حول المناتق حيث الناس الذين يتكلمون اللغة العربية فيها مثل قضايا فلسطين أو الفقر...إلخ. لا أعرف ماذا أستطيع أن أفعل بالعربية ولكن لقد عرفت القليل منها. وهذا يعني أنني مسؤولة. فلم أستطع أن أمنع بكاء قليل... حقاً سبحان الله


Monday, October 5, 2009

Not great but nice.

高校の最も仲の良い(と少なくとも私は思っている。相手側はどう思っているか分からない)友達数人を新居に「誘って」(前記事参照)、一年ぶりに再会し一日の4分の1程を共に過ごしたはいいものの、どんどん日本社会の一般常識(と観念されるもの)からかけ離れていくことに、危機感を既に通り越して、諦め、開き直り、自暴自棄の境地にさえ至ってしまったことが何とも情けない。彼女ら3人のうち、2人は既に社会人として働いており、1人も就職活動を経て無事に内定を得ている。つまり、彼女たちに比べて「世間知らず」であるとか、「社会人のマナーに疎い」私は、明示的には回避したものの、思うが侭に発言していたら、彼女らたちとの乖離感が痛々しいほど浮き上がってしまっていたであろうことを思い知らされた。

思うに、「自分の居場所が見つからない?ふざけたことを言うな。居場所は見つけるものじゃなくて、作るものだ」と思われる向きも多かろうが、努力して安住の地を「作った」ならば、それはもう既に「イって」しまったという場合もあるだろう。私のような、「居場所はどこにもないけれど、すごくこれで満足しているし、これ以上は望まない」とか言ってしまったら、社会不適応人間以外の何者でもないのであって、「普通の」人ならば、どうにか「見つかる」ものなのではないか、と。違う、それは「見つけた」のではなく、苦労して「作り上げた」「獲得した」ものなのだと言い張る向きがあるならば、そんな偉業を成し遂げられる人間には元々「作る」必要性などなく、「自分の居場所がある」と感じられるという時点で社会からお墨付きを得ているような気がする。要するに、居場所が「作れる」と信じている、居場所は「作る」ものと認知している時点で、リア充っていうやつなのではないかと。まあ、大したことは言っていません。


以前にも書いたようで恐縮だが、「女の化粧は男のネクタイと同じで社会人としてのマナー」だとか、「化粧は教養」とまで言ってのけたキラキラ女がいたが、まぁ、実際のところそうなのであろう。従って、私にはマナーが備わっておらず、教養もない、という結論が導かれることに何の異論もない。まあ、実際問題、「化粧をする物理的肉体的能力が備わっていると客観的にも、(経験からそれらが備わっているかどうかを見分けることができる)私にとって主観的にも、思われる女性」が、化粧はおろか、それ以前の身だしなみのレベルで圏外である場合、多くの場合において、その人は社会との接点をあまり有しない人であるか、有するにも関わらず、「関心が無い」という理由のみでそういう状態を維持しているのであれば、私が言うのも何であるが相当に「変わった人」であることがある。そうではなくて、病気その他疾患によって化粧ができない女は・・・まあ、大部分がやはり「社会」不適合であって、何かの前線で「活躍」しているということは滅多にない。「化粧なんて大事ではない。あくまでも清潔感が就職活動では求められる」と言う(自称他称)”企業の人事に詳しい”人々よ、化粧のできない人間の殆どに清潔感など有り得ない、と教えてあげよう。醜悪さを強制的に周囲に提供する人間を採りたい企業がどこにおるか。「障害を持った人の採用」と同じように、「「自らの意思に反して」社会人としてのマナーを遵守することのできない人の採用」もある一定の割合、義務付けることなしには、彼らの行き場など社会にはなく、見つけられにくいところに留まり、一般の人に対しては「化粧ができなくてマナーや教養が備わった、有能で優秀な人など見たことない」という印象を与えるのである。・・・まあ、ここでは、もちろんのことだが、化粧ができないが優秀な人がリクルート市場から”一般的に”排除されている可能性と恐れ(またそれによる損失が見込まれないこともないこと)を指摘しているだけであって、何も私が(筆者が)そうであるとは一言も言ってはいないし、また皮肉を込めて裏返しにして暗示するなどの高等技術も持ち合わせていないことを付記しておくが、まあ、こちらに通ってくださる読者の方々には意図は見え透いたも同然だろう。

外野が騒がしくなってきた。エントリー、エントリーとよく意味の分からない単語を振りまいている。ちなみに、隣と真向かいの中国語を話す人々も毎晩騒がしい。中国語を話す友人も多いので、中国語には特有のアクセント等により必然的に発声が日本語のそれよりも大きくなる傾向があると理解しているものの、声の音量ではなくて、音楽とかテレビの音量については何とかならないものだろうか・・・うーむ。


私が考えるところの、「知的バランスの均衡」がとれた人は、(自分が最もアイデンティティーを置く比率の高い主権国家あるいは領土と言う意味で)自国のことを「素敵(nice)」と呼び、「素晴らしい(great)」とは呼ばないところにあるのではないかと最近思う。身内のこと(文化、宗教等すべて)をgreat!great!と叫ばずとも、 ah, niceとクールに言えるのが丁度良い。そんなこんなで日本人と呼ばれる人々を私は愛しているし、彼らのためになる、或いは彼らに負の影響を与えないようなことをしたいと願っている。They are not so great, but still nice...So? I still like them.

Saturday, October 3, 2009

リハビリ

「誘う」という行為はかなり”崇高”だ。(1)相手が、「誘っている」という自分を誰だか認識しているという確信があり(2)特に久しぶりに会っていない人に対してならば、その相手の反応による自分への認識の仕方あるいは態度、評価、位置づけをまざまざと見せ付けられてもうろたえない自信もあり(3)その「誘い」がいかなる形であれ断られようが何だろうが、それから何の負の影響も受けない(4)もしくは受けてもそれを容易く超越もしくは克服できるという自信を、意識的・無意識的であれ持っていなければ「誘う」ことなどできたものではない。「誘い」は何も愛の告白に限ったことではない。同性異性に限らず、お茶やランチやお喋りの「誘い」、「帰ってきました」という報告をするという台詞が陰で要求する「だから、会いませんか」、もしくはそれさえも要らない。久しぶりに目にする人に対して発する一言目は身が切り刻まれるように痛い。外国人向けの日本語学習書以外に日本人の誰が「こんにちは」と一言目友達同士で言うだろう。そのマニュアルの無さに、困惑するのは、アラブの奴らがあまりにも楽しそうにالسلام عليكم. كيف حالك؟ ما هي أخبارك؟ أنا مشتاق إليك.(あなたの上に平安がありますように。あなたの状態はどうですか。何があなたのニュースですか。(久しぶりに会っていないので)懐かしい(もしくは恋しい、寂しい)です。(以上超直訳))の4点セットを電話でも何でも決まり文句として一気に吐き出す中で、自分もそれに甘んじできたからである。もちろん、人情味溢れ、ホスピタリティーとは斯くあるべき的な文化財指定のジェラルミンケースに誇らしげに展示することもは憚らなさそうな、と一般的に思われる彼らにも、実は日本人には逆立ちしても思いつかない発想に基礎付けられるある種の毒々しさや図々しさ、淡白さ(ビジネスライクな、商人的なと言えばいいだろうか)、単純な複雑さ(矛盾しているようだが、一般的な日本人的思考(というものが仮にあるとして)においては思いもつかないような、人間関係の込み入り方や出来事の進み方が、彼らのその他の面と比べるとやや一見複雑に見えるのだが、その複雑な状況を招いている思考自体は非常に単純なのである。もちろん、彼らの思考が何かと比較して相対的に単純だと言っているのではなく、その招かれた状況に比して、その原因となる思考方法が単純だとここでは言っているのである。)や面倒くささが同居しているので、一概にこちらがラクだというような話をするわけではないのだが、話の切り出し方としては非常に(特に私のようなこういう人間にとっては)ラクである。


シリアの友達とスカイプで会話するときに顔が変わる(家族曰く)らしく、少なくとも、アラビア語を始めとする外国語では(母語ほどの言語能力や言語や文化背景理解に欠けているからかも知れないが)いわゆる流行の「コミュニケーション能力」は、その言語を話す一般的集団構成員と比して、私にも備わっていると見ることができそうなものだが、さて、ここ日本となると、しかも自分の所属する大学学部生への(今まで散々書き散らしてきた)複雑にして単純な思いが(ここでもまた語義矛盾か。ここでは、自分で「複雑だ」と言うのは「自分は複雑な思考や悩みができる人間です」と豪語しているに等しいと私には思われて仕方ない(私流「複雑性至上主義」)ので)頭を擡げてくるので、どうか(私が)知っている人が私を知っていると認知しませんように、と視線を落として猫背でそそくさとその場をやり過ごすのにどうしても安堵してしまう。

こんなことではこれからの「シューカツ」で最も必要とされるであろう「コミュニケーション能力」とやらが育たない。いや、今更育つということはないのだが、にしてもそれ以前に日本語を流暢に話すことができないと大いに危惧されるので、恥さらしもいいところだが日本語の練習のために、(己の母語低下能力と母語における思考能力の低下を直視するのが嫌でずっと放置していた)この場を再開することとしたい。


最後にここにものを載せてから、本当に色々なことがあったが、それは機を見てお話することとして。


それにしても私が言うのも何だが、リクルート社の見事に先頭を切って作り上げた「シューカツ」文化に踊らされすぎである。ぶっちゃけかなりキモい。「特別な経験は要りません。重要なのはそこから何を学んだかです」とかと言う耳ダコなキャッチも、留学とかサークルのリーダーとかバイトでの責任者とかという「特別な経験」を「シューカツ文化」構成初期に祭り上げた同社の振り子を少し揺り戻しただけであって、ESに箇条書きで見出し付きで1,2,3と学んだことを列挙するのだ、ビジネスのセオリーであるPLAN→DO→・・・にあてはめるのだ、と言われると、「~~することができた」「~~ということに気づいた」「~~という自分を発見した(自分を発見するっていうのがまずキモい)」と、できたできたと割り切って言えないことの中にこそ、重要な部分があるのではないかとか、何をもって「成果」とするのか、「私は」「学んだ」「学んだ」と騒ぐのは高校生まででいいんじゃないかという穿った見方はシューカツ市場に、果てはこの「世の中」で「使えんよ」と言われるのがオチなのは重々承知の上で、1日から始まった(とされる)この「運動」に乗り遅れることを恐怖しながら、まあ、こんなことだから結局は乗り遅れそうなのであります。


日本語学習者は読んじゃいけない悪文ですな。いや、まずはリハビリです。いつも見に来て下さった方ありがとうございます。