Saturday, May 30, 2009

من أجل ماذا؟ (corrected ver.)

ودعت أحد أصدقائي القيمون. سيسافر إلى أبو ظبي و سيعمل هناك لسنتين. الاحتمال الذي أستطيع أن أراة ليس صفراً ولكن تقريباً صفر...هذه الحقيقة التي أؤمن بها. لدينا ذكريات جيدة كثيرة لذلك من الطبيعي أن أحزن على وداعه. يبدو أنني بكيت ولكن ليس من أجله بل للوداع ذاته أو لعوامل أخرى

أولاً, من أجل الوداع ذاته فالوقت يسير بسرعة و الإنسان ليس موجوداً بشكل أبدي. باللغة اليابانية يقولون إن اللقاء هو بداية الفراق. في الحياة يوجد كثير من اللقاءات والفراق. الصدفة والقدر...إلخ. إن هذه أشياء تعطي الإنسان وجوداً جميلاً و أيضاً يجعلون الإنسان إنساناً. لا أريد أن أوقف المناعة ضد الفراق أو الأشياء الحساسة لذلك ربما بكيت لكي أمنع ذلك. آه! لم يكن حتى من أجل وداع أو فراق أو فناء الإنسان بل من أجلي فقط

ثانياً فكرت أنني من أجل واقع سوريا. لم أتوقع أنّ مسافرين فقط يستطيعون الدخول إلى داخل المطار. وموظف العسكري ينتظره. أنّ سوريا هي دولة الحرية مما توقعت! حتى السجين السياسي يوجد. لا أحد ينتقد سياسة سوريا في داخل سوريا. على الأقل بشكل سطحي لا يوجد أي حركة سياسية ضد الحكومة لا في الجامعات ولا في المدن أو لا أستطيع أن أرى أي منظمة. ربما هذا بسبب عدم كفاءتي في اللغة العربية أو لقصرمدة السكن هنا. إذا أراد الناس السوريون ذلك, لا أقول أي شيء ولكن قد هرب من الواجب الوطني, يعني خدمة العلم

في كوريا الشمالية مدة الخدمة العسكرية هي عشر سنوات للرجل وسبع سنوات للمرأة و في تايوان سنة واحدة للرجل وفي روسيا أيضاً سنة واحدة للرجل و في كوريا الجنوبية سنتين للرجل. ربما اليابان الذي ليس لديه الخدمة العسكرية هو غير عادي. هو تحت مظلة الجيش الأمريكي من فور الحرب العالمية الثانية حتى إنهاء الحرب الباردة الجيش الأمكريكي كان لديه مهمة ولكنه الآن قد قام بتغير الجيش وقد أصبح مجرد قشرة. على الرغم من أن قوات الدفاع الذاتي اليابانية لديها القوة العسكرية الثانية أو الثالثة الأكبر في العالم, لا يستعمل. هذا تقريباً يعني التجرد. نستطيع أن نقول إنّ التجنيد الإجباري هو إيديولوجية و ليس سياسة واقعية كوسيلة أو كأسلوب للدفاع. (إذا كان التجنيد الإجباري سياسة واقعية,الواقع حيث الناس يعيش هو محزن حتى في هذا العصر) مع إنه عندما أفكر إن الجيش الأمريكي هو وسيلة لقبول الفقراء,لا بد إنه إيديولوجي. من هو ضحية؟ لا يجب أن نغفل الوعي اتجاه أي أزمة ولكن يبدو أنها الفكرة التي يجب أن نحمي الوطن بأنفسنا هي مؤسفة. الحالة التي لا يجب أن نفكر عن الدفاع الوطن هي مثالية. ربما هذا أحد أسباب

ثالثاً إنه أكبر إخوته التسعة لذلك خرج من وطنه لكي يحصل على مال أكثر. (حتى في الإسلام أظن أن تنظيم النسل مهم على الرغم من أن بعض أشخاص يقولون هذه الفكر حرام ربما.) يحتمل إن أحد أسباب الفقر هو عدد كبير لأفراد الأسرة. إن هذا أحد الأسباب التي كان يجب عليه أن يسافر. حتى مع ذلك, كان يبدو أن عائلته تعيش سعيدةً وهي رائعة جداً. هذه الازدواجية, وجود مشاعر متناقضة, تجعلني أحتار

الجهل

هوايتي السفر. عندما تجمعت النقود الكافية للسفر خرجت فوراً من اليابان بالحيوية. قد سافرت إلى مدن العالم سوى القارة الأمريكية و الإفريقية و الآن أسكن في دولة عربية لمدة ثمانية أشهر. ولا أحكم على أشياء فقط من خبرتي ولكن من المهم أن نستمر في التفكير بأسئلة

لماذا يتخلف العرب بشكل عام (طبعاً ليس كلهم) خاصة في المعارف و التعليم؟ عندما أمشي في الشارع كثيرمنهم يقولون لي كلاماً غير جميل. عموماً يقولون لي "الصين!" فقط ولكن لا أستطيع أن أفهم من أجل ماذا يقولون ذلك. هل يرحبون بي؟ هذا يحدث فقط في الدول العربية (مع أنني لم أسافر إلا لبنان وسوريا والأردون وفلسطين وعمان ودبي والكويت فقط) عندما سافرت إلى إيران لم يحدث ذلك أبداً. لذا ليس بسبب الإسلام. هل هذا الثقافة والتقاليد العربية؟ إذا كان ذلك, أريد أن أنهي التحديث عن هذا الموضوع هنا. لا أريد أن أقيم الثقافات الأخرى. لأنه من الصعب دائماً أن أتحمل المسؤولية في الحكم عن الأشياء النسبية. (حتى إن كان هذا هروباً من المسؤولية, أريد أن أختار عدم الفعل. هذا لا يعني عدم الاهتمام أبداً بل يعني عدم الاشتباك. ربما بعض الأشخاص يعدون هذه الفكرة من المكر. إذا كنت مستمرة في حمل هذه الفكرة, لن أتمكن أن أحب شخصاً ما حباً عميقاً أبداً في المستقبل.) إذاً أرجع إلى الموضوع و أغير وجهة نظري قليلاً

في يوم ما أحد أصدقائي الجيدون قال لي إن خطوط اللغة اليابانية أسهر من خطوط اللغة العربية. دهشت منه. أعرف أن اللغة العربية هي إحدى اللغات الصعبة في العالم. (ودائماً أسعد العربيين بقولي أن لغتهم اللغة الأصعب في العالم...(شخصيتي سيئة!)) ولكن لماذا وكيف يستطيع أن يقول ذلك على الرغم أن كل لغة وثقافة لديها عالم عميق جداً الذي لا نستطيع أن نفهمه أبداً! لم تكن هذه المرة الأولى التي أسمع فيها هذا الكلام. قد سمعت عدداً من العرب يقولون أيضاً في الكويت. ربما هم عباقرة في تعليم اللغات الأجنبية

إن مستوى وأدوات في سوريا (طبعاً ليس في كل المجالات) ليس عالياً. هذا ربما بسبب المشكلة المالية ولكن ماذا أقول عن جامعة الكويت؟ وخطرت ببالي نكتة. ربما يجعلون مستوى التعليم غير عال "قصداً" بسبب ما! لكي يجعلون الجنة أجمل من الدنيا. لكي يرضون بحياتهم الحالية وبالمستوى الحالي. نحن نستطيع أن نصبح سعداء بقولنا أن اللغات الأخرى أسهل من لغتنا

ولكن هذا موضوع ليس مشكلة العرب بل مشكلتي. لماذا أتمسك بذلك هكذا؟ سبب واضح جداً. عزة النفس عالية جداً. هي غير عادية. أحياناً أقول لنفسي إنني غير مؤهلة لأكون كإنسان واحد في المجتمع لكن إذا فكرت بذلك حقاً من قلبي, لماذا لا أنتحر مثل الكاتب الذي قال إنه غير مؤهل كإنسان؟ في الحقيقة لأنني أفكر أنني أفضل وأحسن من كل العالم
يجب أن أواجه هذا الوحش الذي يسكن في داخلي كلما أشاهد جمال العرب في حياتهم. خصوصاً في هذه المدينة في سوريا حيث الله حاميها

ブーメラン

5月30日
1ヶ月近くも放置してしまいました。見に来て下さった方、すみません。便りのないのが良い便り、ということで、お願いします。

さて、シリアですが、「理想郷」をできるなりに愉しんでいます。クウェートと比べるほうが間違いなのですが、全てが違いすぎて、で、何々が違います、これがこうです云々とだだ並べてもそれほど意味のあることのようには思えないので、全然違いますよ、本当にアレッポは素敵なところですよ、くらいに留めておきます。

日本は今どんな感じなんでしょうか。5月の終わりというと、授業も調子がでてきて、さすがにこの時期まで1回も出てないっていうのはまずいかしらという頃でしょうか。国Ⅰも終わって。就活も大体終わり、と。完全に浦島花子です。なんで最近街中で「コーリアシャマリーア!(=アラビア語で北朝鮮の意)」と呼ばれるようになったのかしらと思ったら、教養のない人でもその存在を知るくらいに北朝鮮のニュースがテレビで出ていると。あまりにも違う世界にいすぎて、ニュースをチェックする気概が起きない。クウェートはまだそういう意味で(情報マスメディアとか表現の自由とか、つまり、このブログがブロックされていないとか(笑))世界に組み込まれていましたが。まあ、4ヶ月くらいそういう生活が人生にあってもいいでしょう。

ああ、1年近く経とうとしていて(8ヶ月が終了)、さすがに現実に戻らなきゃな、戻りたいなという意識が。いい休養になりました。もう少しで22です。腹が据わってきた。「時間が解決する」という言い方はそんなに好きじゃないけど、時間の経過ってそこそこ大事なんですね。日本に帰ったら、ああこの1年私は何やってきたのかしら、日本で誰も喋らない言語が多少できるようになって、日本でほとんどいないアラブとかイスラームの文化に浸ってきて、頭腐らせて、歳だけ食って、皆進路決めて・・・あーあ、的気分になることはあると思うんだけれど(いや、もう本当に。自分の部屋に戻って、1年前と同じ(汚い)状況で本当に1年も経ったんだろうか、って絶対思うでしょう。本当に浦島ですよ、ああ恐い恐い)、兎にも角にも時間が必要だった。器用には生きられなかった。

帰国後即忘れるであろう言語。更に鈍った頭。食ったのは歳と、得たのは体重と。故郷は変わり果て、親祖父母は老い・・・最悪ですね。それでも1年経った。1年生きた。何かあるでしょう。少なくとも、そういうことにしておかないと。

はい、内容のないような文章をまた書いてしまいました。とりあえず近況報告ということで。

5月11日

アラブやイスラム(ここでは双方が重なる地域について)がかつての隆盛に比して没落(あるいは他地域と相対的に比較したときに測られ得る数値等で「低い」ことを「劣っている」と言えるとしたら)しているのはなぜか、方々で喧々諤々の議論がなされてきたから、別にもう付け加える必要もないのだが、今日やや久しぶりに頭に来た(怒りを覚えた、という一般的な意味はさておき、頭に「考え」が上った、呼び起こされたという意味で)のでストレス発散に書く。

本日、アラビア文字より日本語の文字のほうが簡単と言ってのけた、本当に「いい」友達。(皮肉でもなんでもなくて、彼が一番最初の「ゲート」だったこともあり)文法とか発音の話ではない。文字の話。もう2年か3年も日本語をやっていて、その奥深さを知らない。もしくは、異文化の奥深さへの敬意に欠ける。常に、イスラム・アラブ文化が一番で優越しているという意執はないのか。日本語をべらべらに操れて、自分のアラビア語能力を遥かに凌駕し、古代からの日本中国の書道の全分野を究めてしまったなら私にどうこう言う資格はもちろんない。どの言語も文化も一人の人間が一生の間で理解し愉しむには奥が深すぎる。人間の知の累積。この自分が世界を知っているなんて言う気は毛頭ない。自分だって死ぬまで永遠に井の中の蛙である。その自覚の程度に不足はあるだろう。しかし自覚をしようという自覚はある。ゼロでは、ない。・・・ああ、アラビア語の良い辞書がないのは、アラビア語を母語とする奴らの怠慢でしかない。和英英和辞書の編纂の指揮は、日本人が執る。仏英英仏でも独英英独でも中英英中でもなんでもいいが、今、世界で一番使われている言語が英語だとしたら、その英語という言語に対する各国語の辞書の整備を行うのは、それを母語話者程度に操る能力のある者の責任だ。


自文化の優越性なんて、よくも主張できたもんだ。何も知らないくせに、よくも(知らないからこそ、か)その無知をばら撒けるもんだ。イスラーム学以外の学問の貧困。自文化中心主義、エスノセントリズムとやらを、中学の社会で習ったときは、今時そんなんを地で行く奴らがおるものか、教科書的に説明しているだけだろうと高をくくっていたのは間違いだった。「日本人が外国語を話せないのは日本語が簡単だからですよね?」お前、日本語操ってからその言葉吐いてみろ。理由のひとつにそれはあるのかも知れない。私は言語学者ではないから知らない。内容の正誤を問うているのではない。なんだ、その傲慢な態度は?どこから出てくるんだ、その自信は?そんなんだから、お前らいつまで経っても空っぽなんだ。・・・ここまでの言葉、全部己に向けて書いています。ええ、もちろん、このブログの主旨ですから。通称、ブーメラン自虐。


アラブ人がよく言う言い方に、What do you know about ---?というのがある。---にはイスラームでもなんでも入れてくれて構わない。彼らは英語でもアラビア語でもなんでもこうやって聞く。イスラームについて何を知っていますか?と聞かれたら、何って・・・とりあえず、中級入門書に書かれてあるくらいのことは知識として頭に入っているつもりだけど・・・何、私はこれを知っています、あれを知っていますと挙げればいいのか?「知る」ことの重みに耐え切れずに逃避するような人間だから、私は、「知っているかと言われると・・・偉そうに何か知っているわけでは・・・まあ、何も知らないと言えば知らないうちに入るのかな。」と。知ってるよ、もちろん、彼らの基準の「知る」はこんなに高度なことじゃない。・・・それでも私は、私は母語である日本語でさえも満足に操れない、英語はおろか、ましてや仏語もアラビア語も凄惨たるものである、専門なんて言葉使えるほど知識はない・・・と言い続ける。


この異常なまでの謙遜はどこから?すべて、裏返し。最近日本とか日本語とか日本文化の「相対的な」魅力に(一度母国を長期間出た者に「よくありがち」な、従って、私もその「よくある」人々のうちのひとりでしかない、ええ、ええ)ため息をつかせる身の、内側の毒々しい獣。よく道徳の教科書にあるような「自分を大切に出来ない者は他者を大切にすることなどできない」という言葉は嘘であろうか。自分が大切で、大切で、可愛くてならないのだ。自分だけが一番なのだ。このどうしようもないプライドの塊が、本当に他者を見据えることなどできようか。おそらく、道徳の教科書の言う「自分を大切にする」ということの意味は、違うのであって、本当に私は自分を「大切」になどしていないのだろう。やはり、道徳の教科書は正しいのだ。ここでまた、私は「人間失格」と嘯くのだ。本当にそう思っているのならとっくに自殺しておるわ。「失格」だとわざわざ声に出しながらも、いけしゃあしゃあと生きる己のおぞましさにいちいち付き合わなければならないほど、アラブ人の話し方は(人間は社会的な動物だから、コミュニケーションが命)、熱っぽく、直球で、相手の存在を本当に認めているように思わせるほど熱いのだ。だから、アラブ国家のemptiness理論の実践現場に出会うほど、emptyであることに何の疑いも持たない彼らの人間的なつながり、人間力に、emptyでしかたがないと渦巻く己の嫌らしさに立ち会わなければならない。泣いてもいいかな、と思えるほど、このアレッポの街は本当に美しく、シリアは神によって守られている、というシリアによくある文句も、それを妨害するどころか、まるで逆の仕事をしてくれるのだ。

Sunday, April 26, 2009

応え切れなくて、ごめんね。

Dear readers, I'm flying to Syria on May 3rd, taking off the land of Kuwait at 10:30a.m. The coming article below is the one I submitted to the staff on the embassy to persuade him to allow me to stop the scholarship. I've changed all 「クウェート」to "Kuwait", taking it into consideration those who concern this scholarship and those who are really willing to apply for it this year or after and googling the name of this country in Japanese (It makes no sense when I've already written so many articles using "the term" until now, though)

Anyway, you will see how the things will be going in this last week I will spend. This is the way I've been struggling to get for these two months, but when it really comes to face "the time", I totally don't know what I should think. Wherever I go on the earth, those people will keep living here and there. そういう事実がただ私をひたすら哀しくさせて。方々で温かく見守ってくれた人々の顔を踏み躙って行くことだけはしたくないのに。その思いに応え切れなくて、本当に、ごめんなさい。


目次
1奨学金を中退することについて
 1-1お詫び
 1-2語学センターの現状を「想定内」とする抗弁への留保
   1-2-1グレーゾーンの線引き
   1-2-2予期可能性の限界
 1-3 前提条件に対する結論

2アラビア語の言語の学習自体について
 2-1学習環境の重要性 
   2-1-1語学学習の方法の簡便性の追求
 2-2シリアとKuwait
   2-2-1フスハーと方言(アンミーヤ)、それに関する予期不可能性
   2-2-2 フスハーをより良く学ぶ際の2条件
   2-2-3日本語を懸命に学ぶシリア人の友人の存在
   2-2-4 Kuwait人のリテラシーの低さ
   2-2-5 Kuwaitを始めとする湾岸諸国の教育レベルの低さ
   2-2-6男女間の差異
 2-3小結論

3 Kuwait社会のメンタリティーとの不一致



1.奨学金を中退することについて
1-1お詫び
 この広範囲をカバーするKuwait政府からの奨学金が長年の信頼関係に基づいた先人たちの様々な苦労や努力の結晶であり、自分から応募して、幸運にも選んでいただいた以上、期間半ばで中退を申し上げることは、出資先であるKuwait政府や大学ばかりでなく実際に選考作業に携わられた日本大使館のスタッフの方々への裏切り行為とでも言えるものであり、また過去の留学生の実績やイメージを汚すものでもあり、本来、病気や他の外因的な問題などの「やむを得ない」「合理的な」理由を除いては、甚だ許されることではないことは重々承知しております。

1-2語学センターの現状を「想定内」とする抗弁への留保 
 しかしながら、まず一例として挙げるならば、Kuwait大学ランゲージ・センターが発行している募集要項に添付されたカリキュラムやクラス分け、教員の質保証等には現実との絶対的な齟齬が生じているのは事実であり、いくら自己負担ゼロに近い奨学金が提供されているとはいえ、「タダなのだからある程度の質低下は当然予期されるべきであり、通常甘受すべき程度の損害に含まれる」と言い切ってしまうのには若干の留保があって然るべきと思われます。

1-2-1グレーゾーンの線引き
まず、①前述の通りであれば、「ここまでは許される(=現実とのギャップについて)」という境界線が常に曖昧で流動的であるために、グレーゾーンが存在します。全ての物事に「グレー」な部分は付き物であり、それが人間社会を成立させている一要素とも言えますが、だからこそ、「このグレーは行き過ぎである」という、多数の合意がより得られやすい地点での決着をみて、新たな線引き(=再定義)が常に更新されるものと思われます。今後の日本人留学生の利益等を考える(=私の中退が今後の日本人枠に影響することを危惧して等)のであればなおさら、一般的に考えられるKuwait文化において、再考されることのないに等しいこのグレーゾーンの「線引き」について、半年間在籍した一学生が声を上げ、声を上げるだけでなく実際に結果として明らかになることは、完全に無益なこととも言い難いと考えられます。

1-2-2予期可能性の限界
また、②「予期可能性」(=水掛け論としての、「それくらい予想or事前調査しなかったお前が悪い論」)についても、特に社会や世界を知らない一学生にとっては、一般社会人に通常期待されるそれより、どうしても限界性を帯びてしまいます。Kuwaitという国自体、インターネット等で得られる通り一遍の情報を超えて、アクセスすることが非常に難しく(少なくとも簡単であるとは言えないように思います)、本奨学金自体の内容についても、日本大使館のHP以上の詳細が明らかになるのは、合格後、前年度の奨学生と報告書を通じてでしかありません。スタッフの方に問い合わせることも、もちろん可能だったはずですが、大使館には届きにくい「現実」や「実際」が存在することはままあるように、大部分の学生が見聞き感じることを、メールなどの通信手段でお忙しいスタッフの方からどれだけ伝達可能かということを考えますと、あくまでも予想の域を出ませんが、簡単であっただろうとは申し上げにくいのが正直なところでございます。

1-3 前提条件に対する結論
以上の通り、「全課程を修了する強い意志を持った者の応募を望む」という文言の想定する対象の状態に限界が生じる可能性は少なくとも拭えないことが考えられます。

2アラビア語の言語の学習自体について
2-1学習環境の重要性 
外国語の学習一般について、通常どの言語も独学が可能と言われますし、また自学自習をベースにしなければならないのは言うまでもありません。しかし、だからと言って、これが学習環境の不備を正当化する理由となりうるとするのは早計のように思われます。なぜならば、そもそも語学留学一般の目的は、日本では簡単にはアクセスすることのできない語学環境(話し相手となるネイティヴスピーカーの存在やネイティヴの先生による授業など)に身をおき、学習に集中することこそが第一であり、奨学金によって自己負担が軽減されているとはいえ、自己努力とともに、さらなる学習環境を追求することは、留学生に求められるごく普通の心構えであるとも言えます。

2-1-1語学学習の方法の簡便性の追求
 より良い対象により簡単にアクセスできることで得られるものは、そうでない場合よりも、それ自体の価値が劣るとか、簡単であった分だけその後失われやすいという現象は、語学習得や文化宗教への接触のケースにどれほどあてはまるものでしょうか。確かに、山頂まで徒歩で到達した人とロープーウェイに甘んじた人では、苦労した分だけ当然山頂からの眺めは前者にとってのほうがより印象的であることは大体の場合において大きな間違いではないと言えそうです。しかし、例えば英語話者に囲まれて英語圏の国で思春期を過ごした日本人と、英語話者のほとんど訪れることのない日本の地方で100%近くの割合の日本人と生活した日本人では、後者が前者の英語力を上回るには相当の涙ぐましい努力が必要です。ごくまれに努力の天才、語学の天才と呼ばれるような人物が数万人に数人出現しますが、あくまでも一般的な人々を対象に考えた場合、前者が母語である日本語よりも快適な英語を忘れることのほうが、後者が身につけた英語を忘れることより簡単でその質も低いとは、なかなか言えるものではありません。したがって、語学学習自体の簡便性はむしろ推奨されるべきであり、非難されることは容易ではありません。

2-2シリアとKuwait
 以下、基本的に私が移動先として希望しているシリアのアレッポという都市とKuwaitを比較して参りますが、Kuwaitの人々や社会文化を否定するものでは全くなく、どんな国にも存在する正負の側面全てを受容しております。今回は、アラビア語という言語学習や宗教や社会文化への接触などの通常の「留学」生活において極めて重要な要素であると思われる事柄をそれぞれ照らし合わせることで、ご理解していただくための私の意図の明確化を試みるにすぎません。

2-2-1フスハーと方言(アンミーヤ)、それに関する予期不可能性
まず、言語的側面としてシリア・パレスチナ方言は正則アラビア語であるフスハーに最も近い発音と文法、文構造であると言われていますが、実際アラビア語を勉強し始めてからその重要性を痛感するようになりました。湾岸方言はエジプト方言と同様、フスハーとは全く異なり、外国人フスハー学習者にはほとんど理解することができません。過去に始めてシリア等を旅行した際は、発音の差異が認識できるほどアラビア語自体を勉強していたわけではないので、奨学金の応募の時点で予期することは不可能でした。

2-2-2 フスハーをより良く学ぶ際の2条件
また、フスハーとは、現在ではテレビのニュース番組や書物、一部の講演会などでのみ使用される言語で、これを完全に読み書き話すことができるのは教育をきちんと受けた知識人や教養人にとどまります。したがって、①外国人フスハー学習者がフスハーの会話を練習したい場合にはリテラシーの高いネイティヴスピーカーを相手にすることが第一の条件となります。②また、これは立場を置き換えてみれば容易に推測できることですが、ネイティヴスピーカーにとって、その外国人自身やその文化や言語に興味があるなどして、彼らに時間を割くことに利害の一致を見たりすることができなければ、継続的な交流は非常に困難となります。

2-2-3日本語を懸命に学ぶシリア人の友人の存在
そこで、約2年前にインターネットを通じて知り合い、その後連絡を絶やさず、2008年にも訪問したアレッポ国立大学学術交流日本センターで日本語を真剣に学ぶ(=多くは文部科学省の給費留学生制度に合格するため、必死に勉強していますが、なぜ必死かという点については、シリアの経済状況を鑑みれば分かります)友人らが常に誰かしら待機し、アラビア語と日本語の交換が「常時」行える日本センターは、アラビア語学習者にとってこれ以上ない天国のような環境であることは疑いありません。2009年は10日間ほど滞在した中で、文字通り朝から晩までいずれかの友人らと勉強することができ、充実した留学生活が送れるものと確信いたしました。何物にも代え難い確固たる友情と信頼関係に基づいた言語環境そのものが、今回の動機の最も重要なものです。これが上述の②に当たります。


2-2-4Kuwait人のリテラシーの低さ
しかし、これならば、Kuwait大学の日本語学習者とも交流が持てないわけではなく、それこそ努力次第ではないかと思われますが、ここに前段落に負けず劣らず重要な観点があります。日本語を学習しているKuwait人学生もフスハーを話すことができますし、もちろんニュースや新聞を読むことはできます。しかしながら、新出単語を訊いてノートに書き留めてもらうなどすると、きちんと正確な綴りが書けない人が少なくないのが現実です。上述の①にあてはめますと、リテラシーが低い、ということになります。もちろん、全ての人にあてはまるわけではありませんし、読み書きの正確にできる学生と交流すればよいとも思われますが、交流相手は多ければ多いほうが良いのは自明のことですし、いくら利害が一致しているとはいえ、機会を作って、「会いに」出掛けなければ会うこともままならないKuwaitにおいては(→モビリティーについては後述)、言い方は下世話になりますが、交流相手の「ストック」はある程度多く確保しておかなければ尽きてしまうからです。

2-2-5Kuwaitを始めとする湾岸諸国の教育レベルの低さ
Kuwait大学が大学として国際的に公式に認知されているのはわずかにいくつかの学部だけという現状を指摘するまでもなく、俗に言って「勉強しなくても食べていける」湾岸諸国の教育レベルは、他のアラブ諸国から軽蔑されるほどに低く、したがって、モラルや教養に欠けた言動を取る者は少なくありません。また、言語というものはhow to speak(どのように話すか)よりもwhat to speak(何を話すか)が重要なのは言うまでもありませんが、アカデミックな話題を、冷静に感情的にならず、できるだけ客観的な視点から共有することができるという、最低限教養人として求められる振る舞いを満足に行える学生と出会うのは非常に難しく、また彼らが私の下手なアラビア語に付き合うに足る利益を得られるかという二重三重のハードルをクリアするのは、途方もなく困難なことであります。

2-2-6男女間の差異
さらに、Kuwaitでは異性の友人を作ることが大変難しく、例えできたとしても、一対一や自分ひとり対複数のアラブ人男性、または自分+1人か2人の女の友人対複数のアラブ人男性という形で会うことは不可能に近いか、できるだけ避けるべきとされています。ところが、万国共通の性質として、①人間は異性に甘く同性に厳しいということが挙げられます。外国人の下手なアラビア語に辛抱強く付き合うことがより可能なのは、一般的にまた平均的に女に対しては男です。若干余談になりますが、女同士の人間関係のほうが、本来気にしなくてもよい事柄にまで神経を遣わなければならず非常に厄介であるとも言えます。②万国共通の2点目として、余談に関連しますが、センスィティヴな問題について(例えば政治や宗教の問題)語るとき、女はその問題に自分たちの人間関係を持ち込みがちです。言い換えれば、相手の顔色ばかり伺って、言いたいことが必ずしも言えるわけではないということです。③最後に、特にKuwaitでは、女子学生は両親の許可や庇護なしには外出することが困難で、また男子学生と比べても自動車を運転する者は少なく、必然的に会うことが大学以外では難しくなります。(シリアでは安価な公共交通機関が充実していることと、庶民にとって自動車は未だに高嶺の花であることから、この点については問題がありません=モビリティーが高いということです)①、②、③から、結果として、アラビア語の練習相手としても、その他の異文化理解を深める目的としても、実用的な観点からも、女子より男子のほうが(俗な言い方をすれば)「便利」ということになります。

2-3小結論
以上から、全ての要件を一挙に満たすことのできるアレッポの学生と、Kuwaitの学生を比較して、前者に旗を上げることは、アラビア語を熱心に勉強しようとし、また社会文化についてもより理解しようと努めるからこその、極めて自然な結果であり、決して安易な「心変わり」ではなく、むしろ、私が奨学金応募当初から求めているものは不変であることを、どうかご理解いただければと切に祈ります。

3 Kuwait社会のメンタリティーとの問題
曲がりなりにも半年間Kuwaitで生活し、この国の様々な面を含めて愛着さえ感じることさえできますが、郷に従いながら慣れてきていた中で1ヵ月半旅行に出て帰ってくると、本来あったはずの感受性や違和感が社会へのアタッチメントと引き換えに失われていたことに気づき、「郷に従う」ということは必ずしも無批判的に社会に埋没することを意味しないことを再確認するようになりました。KuwaitをKuwaitたらしめているものは、他の湾岸諸国との間でももちろん明確な差異として存在するほど、社会として多くの点で非常に「ユニーク」ではありますし、例えば研究材料としても色々な意味で話題を欠きませんが、そのひとつとして、外国人労働者とKUwait人との関係や政府のKuwait人に対する経済的法的な支援などの背景から醸成されるKuwait人のメンタリティーに、個人的な意見として、慣れきってしまうことの危険性を痛感して以降、多くのKuwait人の言動の端々に浮かび上がる事柄に対して精神衛生上の安寧が得られにくくなりました。個人の経済的観念は個人のすべての振る舞いを含めた人格形成や思考に強く影響を及ぼすことを考えると、お互いを尊敬、尊重し合うという深い友情成立の条件がどうしても乗り越えられないという壁にどうしても突き当たってしまいます。当然、彼らを通じて全てを学ぶなら、それはアラビア語と深く関わってくるイスラム教という宗教というものへの見方をも、他と比較するという意味で、非常に限定されてくるのは否めません。

国や社会文化、人々自体に優劣はもちろんありません。どちらの国が素晴らしくて、どちらがダメだという話をしているわけでもありません。それぞれに内在する多様性は無視してはならないもので、私がその多くを見逃しているどころか、まだ何物にも出会えていないという可能性は永遠に残ります。ただ、アラビア語という言語や、イスラム教という宗教により近づくためにどちらがより適しているか、という判断基準は多くのアラビア語学習者がシリアかエジプトに留学しているという現実を鑑みれば、存在してしかるべきと思われます。いくら事前に情報収集に勤しんでも、実際やってみないと見えてこないことは本当に数多くあります。

他の国を見てきて、そちらの方が良かったから、そちらに乗り替えるという単純な図式ではありません。例えば、過剰までの数の生気のない顔をした単純労働者なしには成り立たない社会生活を作り上げてしまった上でその上に胡坐をかく姿勢や、大量消費や“無駄遣い”がすべて文化やオイル収益によって正当化もしくは美名化される風潮の中で、外国人としてある一定の限界ラインを、精神衛生を損なうことなしに保持することは容易いことではありませんが、ならば放棄せよという命題は、異文化に接する者の精神性(対象に埋没せず、しかし愛を持って見つめる。親Kuwaitではなしに反Kuwaitでもなく知Kuwaitという姿勢)に欠きます。例えばシリアなどのアラブ諸国と比較して、「清貧」の思想などどこかへ行ってしまったKuwaitの社会の中で、異なるものものへの自らが理想とする「眼差し」を保持し続けられるほど、私自身が十分でなかった、至らなかった、という意味です。したがって浮世離れした豪勢な食事とシェラトンホテル4連泊は、私の身の丈には相応ではないし、趣旨としても相応しくないという意味で、この文脈において、また数人の日本語学習者との交流も、様々な点で今回の決意を新たにさせるのにかえって十分であったと言えます。

最後まで長文駄文をお読みくださったこと大変感謝いたします。どうかご理解くださることをお祈りして筆をおかせていただきます。

Monday, April 13, 2009

最近分かったこと




もともと内容がないようなこのブログも、私の脳機能の低下とともにすっからかんになってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

こんなにアラビア語に集中するつもりはなかったんです。日本から持ってきた本をもっと読まなければいけなかった。それでも、ふとたまに気がついて、こうして徒然しているのですが、それ以外(寝る食う移動する付き合う以外)はアラビア語のことしか考えていない。

最近わかったこと。私はそんなに賢いわけではないが、思っていたほど馬鹿でもないらしいということ。日本という国はどうしようもない国のひとつでもあるが、思っていたほど手がつけられないわけではないらしいということ。前者はおそらく日本に帰って総合図書館の机にでも座った瞬間訂正されそうではありますが、後者については、なんだかんだ言って日本はそこそこいい国で、私も嫌いではない、というか、やはり日本人ですから、好きというか、少なくとも、ハチャメチャに荒廃するのは見たくない、そのためには歯車でも何でもなりますよ(結果的にそれが他の国の他の人にとってマイナスだったとしても)という、とりあえずのパブリックマインドとかノブリスオブリージュみたいなものを持っていることをもう否定しなくてもいいかな、と。あとは、想定外に入れ込んでしまったアラビア語をどうにか何かに繋げられないかな、という自己利益の観点も踏まえて、いいところに落ち着くお仕事があればいいですね、という感じですね。

自分より勉強や仕事ができて性格も良くて綺麗な子はゴマンといる中で、己の存在価値なんてどう弁護してもないわけですが、今まではこれについてグジグジ言ってきたけれど、もういいや。価値ない。ええ、価値ない。でも、生きちゃってるから仕方ない。それなりに他人と交差して、飯食って生きていくしかない。そうです。

クウェートの新聞は、英字アラビア語ともにレベルが高くない。これは自明のものとなりました。ゆえに、面白い部分もあり。

(写真下)たとえば、外交辞令ですが、ベルギーとクウェートにそんな共通点があったら、日本とナイジェリアは似たようなもんですね、世界は皆同じですね、と言っているようなもので(まあ、極論言ってしまえばそうでしょうが)。

(写真上)ブッシュ夫人の隣にいる人。大多数の非イスラム圏の人間が見たら、間違いなく戦慄。慄きますわな。漸く慣れては来たけれど、この手の人とは会話無理。ニカーブが限度。この記事をデジカメで撮るときにも、ブッシュ夫人の顔しか、私のカメラは顔認識しなかった。当然ですが。「覆うこと」についての研究は仰山あって、私が云々するまでもないのだけれど、実感として、あれで一生送るのは正直しんどい。一億もらっても無理。会話も含めた社会生活が限られた枠内でしか成立しない。ムスリム女性は仕事での社会貢献とか自己実現なんて考えるまでもないだろうけれど、真っ黒の彼女がめっちゃデキる人間で、教授とかになっても、学生としてはあれで講義されてはたまらん。外交官になって外交できるのかいな。営業とかどうやってやるんでしょう。私から彼女へのベクトルが、すべてそこで遮断される。真っ黒に、彼女自身も社会からの存在を抹殺して欲しいと願っている(自発的に覆っているなら)。少なくとも、フィトナ的文脈では確かにそうだ。見られなくない。でも、確かに、彼女はそこに物理的に存在しているはずで、欠落はしていない。こそこそとアバヤ的人種の女性とのみ話して。それで絶望せずに生きていける彼女の精神性が余計に彼女を存在ならしめてしまう。閉じているはずなのに、強烈に猛烈に強固に主張して。私はここにいるのだぞ!お前ら見るでないぞ!

ちなみに、あれで周囲が見えるんだろうか、と多くの方は疑問を抱くでしょう。見えていません。少なくとも、我々の多くが見ているようには見えていません。ショッピングモールで、布を持ち上げながら服を選んでいる人を見ました。

パキスタン、アフガニスタンでは目の部分の布がメッシュになっているようですが。日焼け防止には最適ですわな。UV加工してあるのかどうか知らないけど。アンマンで買ったコピーDVDの「Osama」を鑑賞。クウェート人じゃなくて良かったと思うことも多々あれど、アフガンに生まれなくて本当に良かった・・・としか思えない。


Sunday, March 29, 2009

君の熱っぽさに、理屈じゃなくて。

時の流れだとか、非情なまでの人と人との出会いの有限性やら偶然性やら尊さとかに、否応なく対峙しなければならないときが人生には何度もあるんだろう。出会いは別れの始まりなんて、よく言ったものだけれど、幼い頃は、人間が皆一様に、死に向かって生きていることが恐くて仕方なかった。こういう感傷に浸るのにぴったりなのは、「なごり雪」とか「秋桜」とかNuovo Cinema PradisoのTema d'Amoreくらいがいいと思う。

後で振り返ってみると、何かしらの直感めいたものが存在していたことに、後付けと言われようと何と言われようと気づくことがある。現在進行形のときに、占い師に対するように自分の直感に頼りたくはないけれど、どうしても、こっちだろう、としか思えないときはあるらしい。傍から見れば盲目だとしか思われないだろうけれど・・・理屈じゃないことがあってもいいんだと。

早すぎる時の流れに付いていけず、様々なことが重なって、休養を欲していた私にとって、この奨学金はタダで「珍しい」国に住みながら勉強できる・・・1年の人生のホリディくらいの認識にしか過ぎなかった。このアラビア語が将来「役に」立つのかなんて限りなくゼロに近いのを分かっていて、どうせ時間を潰すなら大量に持ってきた本を読み、英語か、せめて仏か、100歩譲って独ぐらいに精を出した方が報われるのを分かっていて、どうしてこんなに食べる寝る移動する話する以外の時間をアラビア語に費やせるのだろうと、自分でも不思議に思うことがある。半年前には何も分からなかったのに、色々と分かるようになると周囲の見方も変わってくる。

高校のときに私文にしようか国公立文系にしようか定まらない時期に数ⅡBをやりながら、やんわり抱く倦怠感や先行き不安定感とは違って、どうしても、もっとできなければならない、もっと彼らを理解しようとしなければならない・・・という切迫感が常に襲ってくる。理屈抜き。自分の考えを、思いを、気持ちを、伝えなければならない人たちがいる。何をあれほど、熱っぽく、話しているのだろう。それだけでお互いの存在が保障されてしまうような語りの魔力。彼らの傍にいる限り、全力を尽くすのが礼儀だと思った。・・・ただ、それだけだ。

”東大法学部”の人間の、しかもその手の研究領域に進むわけでもない人間に、どうして趣味以上のアラビア語が必要だろう。外交官になれば税金で3年間語学研修が入省後できるし、今、世間一般この時期に手にすべきは必修科目の参考書なり、シュウカツやら資格取得の問題集なり何なりのはずで、自分が世間から本当に置いて行かれているのは重々承知だし、帰国してから本当に直面するのだろうけれど・・・理屈じゃないんだな。

きっと理屈で何かをやっているときは、それ相応のものにしかならないんだと思う。理屈を求めているうちは、とくに。・・・何となく、漸く分かった気がします。

君の熱っぽさに誠実でありたい、ただそれだけ。

Thursday, March 26, 2009

この哀しき愛しき有限性

人間の死に免疫が滅法なくなっているから、誰かに死なれたりしたら立ちどころに弱りきってしまいそうな気がする今日この頃だけれども、人間が美しいのはその有限性に依るのだとつくづく思う。どんな権力者にも天才にも誰にも止められない時間の流れが、人間を人間たらしめていることくらい誰でも知っていることだが、改めて実感すると、人間が、人間と出会って、何かを語り、何かに笑い、何かに泣き、何かに怒り、何かを考え、全き他者に測定不能な「影響」を与え合い、もう2度とやってこない瞬間を積み重ね、目に見えない、決して歴史家に選択されることのない歴史の襞になっていく。親や祖父母が子や孫に与える無償の代替不能な尊い愛は、決して同じ形をとらずに一回きりでしかしずっと更新されながら受け継がれていく。運命的な(と言うほど何も「運命的」ではないのだけれど、何十億人の中から出会ったという意味で、簡単なものではない)出会いを繰り返し、時間が束になって流れていくのを瞬間、どうしても繋ぎ止めたいと懇願したい衝動に駆られながらも、泣く泣く諦めなければ、受け入れなければならないその有限性がなければ、人間はもっと陳腐な存在でいられただろうに。悲しくてやりきれない。