Overstating the Arab State: Politics and Society in the Middle East Nazih N. Ayubi I B Tauris & Co Ltd 1996-09-15 売り上げランキング : 127434 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
Nazih N.Ayubi, Over-stating the Arab State, 1994
Preface and Acknowledgements
ほとんどのアラブ国家は’hard’で’fierce’であって’strong’ではない。大規模な官僚、軍、監獄制度を持っていても、徴税や戦争での勝利、ヘゲモニックなパワーブロックや、抑圧的で「コーポラティヴな(組合協調主義的な)」レベルを超えて、モラルや知的な段階に国家を移行できうるイデオロギーを生み出すことには劣っている。(xi ¶2)
本書の対象:エジプト、シリア、イラク、チュニジア、サウジ、クウェイト、UAE、アルジェリア、イエメン、レバノン、モロッコ(同¶3)
「文化」は重要だが支配的な変数ではない(xii ¶1)
‘East looking at East’のセンス、日本から(同)
Chapt.1 The Middle East and the State Debate: a Conceptual Framework
(中東と国家についての議論:概念的枠組)
著者の問題意識(p.1)
・多くの「国」に分かれていて、国の規模や資源の多寡に差があるのに、なぜアラブと彼ら自身を呼ぶのか。
・なぜこれらの「国」は次々と常に失敗する政治的統一の試みのマルチチュードに熱心に加わるのか。
・なぜアラブ諸国のレトリックは、ナショナリズムや社会主義といった広く普遍的でさえある概念に基づき、実際の’ruling caste’(支配階級制)は語られないのか。
・広範な官僚制や軍があっても、なぜ税制度や法運用に「浸透」しないのか。
・なぜ地域や国際同盟を簡単に切り替えることができるようにみえるのか。
・国内政策を一夜にして完全に逆の方向へ変えることがなぜ可能なのか。
一般化:必要だが、多様な歴史的特徴のある’cases’の痕跡を失くすほど広範囲に渡ってはいけない。
特定化:その’essence’の外形を超えてしまうほど理解できなくなるような’special case’にそれぞれの事例を変えてしまうほど極端になってはいけない。
・「政治経済」と「政治文化」アプローチ
‘articulation(統合)’,’ non-correspondence’(非対応関係) and ‘compensation’(相殺)の概念
・2つの矛盾した目標
1、OrientalistsやFundamentalistの特異性等の主張を排した理論的、比較的概念に中東(アラブ世界)を当てはめる。
2、アラブの学者によって書かれた文献をできるだけ参考にする。
・本書のタイトルについて(p.3)
1、工業化や社会保障だけではなく、公的職員、公的機関、公的支出などといった量的用語での国家の拡大について述べることを意味する=étatisme(国家社会(管理)主義)的。over-stating=over-staffing=over-developed state同時にover-stretched, over-extended
2、同時に、皮肉にも、対照的にも、本当の国家のpower、効力、重要性は過大視されているという意味でもある。(a)’infrastructual power’(b)ideological hegemonyの欠落によって、自己存在の保持のために圧政に訴えがちな’fierce’な国家ではあるが、’strong’ではない。
コーポラティズムの形を明確にとりやすい。なぜなら、’philosophical individualism’も、西洋の資本主義国で見られるような政治が発現できるほど社会階層が発達していないから。中東のコーポラティズムはより「有機的」で連帯主義的で共産主義的立場。
公私の二分法は生産手段の違いに留まらず、道徳(morality)や社会的空間に政治的イスラムが「公」を持ち込むということもまた意味する。(p.4)
The State Debate(国家論議)
言論界:bringing the state back in 実際:less of the state (moins d’Etat)
1980年代から高まり始めた社会や経済の役割についての関心。しかし、イスラム的共同体(umma)やアラブナショナリズムに気を取られ、領域的官僚国家などとしての役割には関心示さず。国家の役割に対する無関心が改善されたのはつい最近。
(p.5)
Marxism Mark1:国家は社会の反映。とくに階級の現実。
Marxism Mark2:事物をその中で形作ることができる社会を伴った自律的政体
グラムシは「基盤が意識を形成する」に代わって「何が意識を形成するかを基盤が決定することは可能である」とした。グラムシの国家の定義:実際的で理論的な活動の全体的体系で、それとともに支配階級はその支配を正当化と維持するだけでなく、被支配者の生きた合意を取り付ける努力をする
ウェーバーの定義:与えられた領域内における物理的権力の合法的行使の独占を主張する人間の共同体
(p.6) 3つの正当化・・・「伝統的」で「カリスマ的」で「法的」な支配の基本的合法性
グラムシではdominationはhegemony(legitimacyより包括的でより法的でない)の場合に、国家の基本的構成要素として調節される。
hegemony-----egemonia------haymana,
Ibn Khaldun のiltiham(合同、連立)は-社会的統合やイデオロギーの一貫性をoverpowering physical capacityとなっている国家(ghulb)に加えることができる。「自然の権威は、絶えず圧倒的な競争相手の政党を通して、集団の感情(’asabiyya)から導かれる。しかしながら、この権力(権威)の継続性の状況は、屈従的な集団にとって、リーダーシップをコントロールする集団と合体するものである」
グラムシ:支配階級は国家の高圧的権力や直接的な経済的権力のみに依存していたわけではなく、むしろそのhegemonyに頼っていた。階級はleadingかdominantな方法でhegemonicになる。
(p.7)グラムシのhegemony>ウェーバーのlegitimacy
なぜならグラムシのhegemonyは制度の代理人によって政治構造が受容される過程に限定するのではなく、文化的イデオロギー的合意まで掘り下げ、educatorとしての国家の役割を強調するから。
the gendarme-state:法と秩序の観点での国家 現在の
the corporative-state:経済的利益とその機能の観点での国家 中東諸国
⇔the integral state=the state in its totalityは政府に限定されず、市民社会の側面を含み、hegemonyとリーダーシップに基づく。the integral stateはthe ethical state、educatorとしての国家にリンクする(学校や裁判所を通して)。
市民社会が脆弱で、権力者や官僚機構の階級統一が強固であることは「強さ」ではない。satatolatry(国家崇拝)からthe integral stateへの移行にはhegemony か、社会のすべてのレベルでの関係性を利用する方法を取るしかない。
(p.8)hegemonyはイデオロギー上のコントロールや社会化を担う代理人の間で「世界観」が拡散し、広範に行き渡る意識が広く大衆によって内面化され、common senseとなるときに達成される。
Althusserの概念:the ideological apparatuses of the state (国家のイデオロギー的機構)
(p.9)最近まで、アラブが西洋から借用する政治学(そして国家)の概念は形式主義的で道具主義的だった。これはヘーゲリアンの、国家は市民社会の「外」や上に実在するという国家観に負っていて、立憲主義者らは、その分離した至高の存在としての国家を強調するために、私法からmoral personalityの概念を借用した。moral personality (shakhsiyya ma’nawiyya):国家は、弁証法的な方法でバランスを取った、ある特定のその「mind」と論理を持った実在である。それらの一般性に対して特殊性(具体性)への配慮だけでなく、それらの変化に対する秩序も含む。
このmoral personalityは、具体的な「人々」を具体的な「領域」において、「主権」の原則に基づいて看視する。この原則には2つの明示がある。(1)外的な、公式な独立と他の国家と向き合った平等を暗示する。(2)内的な、統治者か臣民の上にある政府の権威を暗示する。ウェーバーは(2)が国家の最も重要で適切な要素だとした。国家に対する臣民間(市民)での法的平等性と不平等性の現実との間に不均衡がたびたび見られたという事実は、伝統的な憲法理論のなかでは主に語られて来なかった。
(p.10)ウェーバーが言うような社会学の国家概念は中東では通用しておらず、官僚制の法合理的タイプを受容しようとしたが、多くは、これがウェーバーの「プロテスタントの倫理」(protestant ethic)に繋がっており、それがまたムスリム社会とかけ離れていることに気づいていなかった。
Marxism Mark1が、経済や社会経済の入力を強調したのに対して、アメリカの政治学は文化的、社会心理的入力を強調した。政治的主要アクターとして国家が無視され、その比較的自律性やはっきりしたアイデンティティ、社会を形成する能力が過小評価され、経済か文化のどちらかから「誘導」することに満足していただけだった。
The State in Comparative Perspective(比較的視点による国家観)
(p.12)植民地国家-----最初に法的意味において登場。社会的、構造的要素が発達する前に。このような未成熟な国家のlegalityはsociologicalな国家になることを制約する。なぜなら、legalityは本当の国家を強固な経済や行政や文化的基盤のもとに作る必要性に間違った印象を与えてしまうから。
しかし中東では アフリカのように明らかに植民地化された過去があるわけではないため、当てはまらない。ただ、官僚制は過剰。
(p.13)WW2後に独立し発展した国は、その国自体の生産過程にそれ自身が重要な役割。資本家と労働者階級は、その「周辺的な」国家(デモクラシーの危機を抱える中東のほとんどの国々で)との関係において貢献するようになる。⇒とはいえ、資本家と労働者階級の貢献だけでは説明できない。Economie mondiale constituéeの中で、周辺国家はlocal societyと世界システムとの間の架け橋と見做される。貿易関係を広げ、労働の国際的な境界の構成要素を国境内に溜め込んでいく。legitimacy-buildingとviolence-applyingの実現方法を混合させながら。
国家はreceiverとしてだけではなく、階級をreflect反映させ、represent表象し、condense凝縮する。階級を創出するような周辺国家においてはとくに。
(p.15)中東諸国は社会における階級の現実をただ反映するだけではなく、そのような現実の創出者になっているということ。
The Non-Individualistic Path to the State(国家への非個人主義的な道)
アラブ世界の特異性?state⇔dawla, دولة
安定性と国の立場が第一。第二に普及や権力や富の転倒。宗教文化的にはumma,امةが第一。
(p.16)限界:英語、仏語⇔独語----アラブ、イスラムの概念と親和的⇒Gemeinschaft (umma, jama’a), Geist (英mindの意味と、精神,思潮,気風,本質,知力)(ruh)روح breath of life, spirit, human life, ghost, essence, sense of・・・ , e.g. sense of responsibility روح المسؤولية(masuwlがresponsibility) (pl )ارواح
自由の概念を個人主義ではなく、loyalty(忠誠心や愛国心)から導いた独特の、集合的なオーラ(aura)によって色付けした。さらに、言語と法が国家の最も至高の表現だと考えた。これらはアラブ、イスラムの思想と近い。
19世紀近代ヨーロッパの思想に出会い、「修正主義者reformist」Jamal al-Din al-Afghani(1839-97), Muhamma ‘Abduh(1849-1905) は、生気論者vitalistや有機的政体論へと傾向し、ヘルダーのロマン主義とBildungへの強調と、スペンサーの社会ダーウィニズムとの比較を導いた。このtight bond(al-‘urwa al wuthqa) は非常に反啓蒙主義的。(p.17)有機的政体論(political organism)は、世俗的Shibli Shumayyilの下で中東に広まった。トルコのナショナリストZia Gokalpのsolidaristic corporatism(連帯的協調組合主義)など。
汎アラブ主義-----ニーチェ、シュペングラー、ベルクソン
新イスラミストはこの潮流を受け継ぎ、「歴史の自然化naturalization of history」(din al-fitra)を加えた。
Hamid Rabi’-----独、伊の歴史学校の影響。cultural nationalist、カトリックのモデル、個人の権利が第一、直接の市民と国家との関係。このモデルはアラブ諸国に適さず。Rabi’はpolitical function(waziya siyasiyya)に導かれたcultural heritage(turath)の復興を示唆したため。
⇒エジプトorアラブのナショナルな自己意識は差別性(特殊性)と正統性の面においてより古いイスラムの源泉を探すことを試みている。
(p.18)イスラムの政体はヨーロッパ的な意味での(領域的に定義された)国家ではない。politico-religious community (umma)である。ummaの目的はメッセージ(da’wa)を広げること、権力と権威(sulta)の機能は文化的/文明的使命(risala hadariyya)を獲得する道具。イスラムの「国家」は、公私の境界がなく、政治的理想と倫理的原則を混同に基づいた特異なコミュニケーション機能(wazifa ittisaliyya)を持った「教義上の(doctrinal)国家」(‘aqa’idiyya)である。
ヨーロッパの国家観では、国家の文明的機能は単なる「政治的」機能にまで減少している。イスラム国家は対照的に、「文明的意思」(civilisational will, al-irada al-hadariyya)がかつてあったローマやギリシャ文明の伝統に追随している。da’waを軸に回り、個々人にイスラムの理想を気づかせる環境を追求する。マキャベリ以降のヨーロッパの国家観は抽象的になりすぎ、社会や文化から離れすぎた。どんな道徳や文化的存在からも無効である存在として。逆に、イスラム国家はある倫理的理想を提供する。過去、現在、未来を永遠につなぐものとして。
イスラムのturathを介して、シオニストのように、近代的なだけでなく、歴史的共同体の文化的価値に忠実な有効な国家を持ちたかったら、現代アラブも同じことをするべきだという主張は明確だ。
(p.20)著者のcorporatismの概念は、イデオロギー的か「道徳的」信条を連帯の概念として推奨するのではなく、国家や社会の構成ツールを全体的に理解する上で便利だからツールとして使っているので、G.O’Donnellに近い。
The Arabs and the Issue of the State (アラブ人と国家の問題)
(p.21)統合に関する問題は、宗教道徳的な’tight bond’(al-‘urwa al’wuthqa)や言語文化的な紐帯まで幅広い。
19世紀まで・・・ムスリムは政治をumma(民族、宗教的共同体としてだけでなく、結果的に普遍的なムスリム共同体と同義に)やkhilafa, sultan(より宗教的政治的性格の強い政府や統治)で考えてきた。
dawla(ヨーロッパ的stateを指す)はコーランに存在したが、その動詞の原義はturn, rotate, alternateで、Abbasid時代には運、栄枯盛衰などの意味で用いられ、最近になってstateの意。現在では、Rifa’a Rafi’ Al-Tahtamiによる、共同体的概念よりも領域的な概念としてのwatan。
(p.22)
ところが、イスラム思想家は新しいこの国家の概念を急いで信奉することはしていない。
・Afghaniと’Abduh・・・ummaとtight bond、イスラムの統治者
・’Abd al-Rahman al Kawakibi(1854-1902)・・・Islamic league(al-jami’a al-islamiyya)、民族的意味としてのummaも。ムスリムと非ムスリムの統合としてのal-watan。政治と宗教行政(al-din)、政治と「王国」(al-mulk)の行政を峻別。
アラブ人は19世紀から「権力の示威行動(manifestation of power)」には関心を寄せてきたが、社会、経済、国家内の知的基礎には関心払わず。第一にjustice(‘adl)、libertyは二の次。
Laroui・・・アラブ国家はすべて身体や筋肉であって精神や心は少々、libertyの理論は全くない。Laroriの国家概念は歴史的にブルジョワと結びついてきた、社会の合理化を目指す道具の集合体。
(p.23)実際のアラブ国家は2つのプロセスの結果。1、独裁スルタン国家2、高位行政の改革と西洋から拝借した交通やコミュニケーション手段などの改革過程。しかし、tanzimat(政治機構と構造制度)や改革は個人に、現代の国家は一般意思や公共道徳の明白化なのだということを思わせるに至らなかった。国家は社会にとってはalienに留まった。現代のアラブ国家は形としては強いが、実際国家の暴力性は脆弱さの表れでもある。
(p.24)なぜ?liberty(huriyya)と結びついたことがないから。liberty:政治社会的意、huriyya:心理的形而上学的意。伝統的社会には国家と社会の均衡を図るものがもっとあった。政体は絶対的独裁だったが、その「政治的」範囲は限定されていた。現代国家は中央集権的かつ権威主義的で、集団や個人の自由の犠牲のもとにその範囲を広げた。
Schematic Argument and Conceptual Framework(図式的議論と概念的枠組)
(p.25)階級覇権が欠落している社会は、要求の統合過程ではなく国家の分捕りと国家への抵抗行動によって説明される。支配層特権の保護が行われている状況では現状維持(経済発展などが阻害されないで)がなされ、彼らは「合同的」なやり方で自ら他の集団を選出する。これは湾岸や石油輸出国にあてはまる。
⇒政治技術は政治的co-optation(編集者注:反対者(の意見)を現会員が取り込むことによって組織の存立・目的達成を安定化させる)、政治的孤立(’azl siyasi)。政治的様式は「論理」や経済戦略のエピソードによっても統治される。(p.26)このような社会にはすべての階級や集団を包含するような覇権的イデオロギーはない。ナショナリスティックにはなりうるが、それがイデオロギーとはならない。
The Concept of ‘Articulation’ (「統合」の概念)
(p.28)articulationとは、articulatory(統合的な)実行の結果としてアイデンティティが修正されるような要素間において関係を構築すること。modes of production(生産), modes of coercion(抑圧), modes of persuasion(信条)間での統合⇒日本は卓越した例
湾岸やアラビア半島に見られる「政治的部族意識」。「生産の部族的様式」の抑圧的or信条的側面は、仮にそのような様式の経済的基盤が失われても存在し続ける。
・(p.29)’articulation’(統合)と’non-correspondence’(非対応関係)が意味するもの
階級の様相は流動的になりがちであるため、支配的社会階級の出現を許さないということ。もうひとつは、この事態は「相殺(compensation,asynchrony)の原則によって、「政治的なもの」(国家)が支配階級の欠落を相殺する方法で社会形成にprimacyを置きがちな状況を生むということ。つまり、政治的側面は社会的側面と、代表制の意味によってではなく、相殺(埋め合わせ)の意味によってリンクするということ。