ラマダンもいよいよクライマックス。写真は30日にカアバ神殿に集ったムスリムたち。ラマダンのあとにはعيدالفطر ('aid al-fitr=the Feast of Breaking the Ramadan Feast)と呼ばれる祭りがあるらしい。シリアの友達も、トルコの友達も実家に帰って、在クウェート日本大使館も、在日本クウェート大使館も休み。ちなみに10月6日は1973年の第4次中東戦争への勝利として、シリアは祝日。要するにずっと休み。
私は特定の宗教に没入する気は毛頭ないけれど、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、人智の歴史と哲学etcは心から咀嚼したいと思っている。神がいるから信じるのではない、信じるから神がいるのだ、とは真理だけれど、かくも人間は信じられるのか、信じることの功罪を考えて、荘厳な雰囲気の宗教施設(教会にせよシナゴーグにせよモスクにせよ・・・)に身を置いて、高貴で霊験あらたかな空気や祈りの声、一心不乱に祈る信者らの全身全霊をかけたような思いつめた態度を目の前にして、信じることの重さに押しつぶされそうになりながらも、必死で涙を堪えるしかないのだ、ただのひとりの日本人にとっては。神は、彼らの祈る心の中にいるのであって、私の中にあるのは、神に代わる「ような」ものでしかない。ただ、ローマ時代の遺跡の中にしばらくいると、歴史の中に自分が埋もれて、舞い戻って行くように、その連綿とした「思い」を受け継いで繋げるのが、宗教のひとつの役割なのではないかと思えてくる。
人間は、真理の不存在を知りながら、それを追い求めて生きていく。それが生の営みなのだと思う。特定の宗教に縋れば、真理は上から与えられるものであって、自分でcreateする必要はない。そもそも自分でcreateなぞできるものかという問いもあろうが、それはひとまずおいておいても、宗教の力を借りれば、絶対的に楽である。悩みは宗教の提供するその価値観と枠組みの中でぐるぐる回るのみだ。宗教の助けがない人は、自分でどうにかしなければならない。宗教は最低限のラインを提示してくれるが、そうでない場合は全くの自由裁量だから、個人間の差が大きい。言うなれば、宗教は信者の知を守っているのだろう。ユダヤ教のタルムードは、実に難解で、不明瞭な点が多く残る。信者は必然的にその議論を敷衍する。問う。考える。ユダヤ人に飛びぬけたインテリが多いのも納得できる。
言語によって、思考に向き不向きがある。ちょこちょこ読んでいるAndré Comte-Sponvilleの Présentations de la philosophieの冒頭。" Philosopher, c'est penser par soi-même; mais nul n'y parvient valablement qu'en s'appuyant d'abord sur la pensée des autres, et spécialement des grands philosophes du passé.・・・"(哲学者、それは、自分自身で考える人。しかし誰も他の思考にもたれずにきちんと最初に到達できるわけではない、とりわけ過去の偉大な哲学者たちには)なんて、英語や日本語で言うとものすごく陳腐なのに、フランス語で言うと、その音も手伝って、ものすごく高尚に聞こえ、しかもその単語の他の意味たちまでもがじんわりと味わいを見せてくるから素敵。
きっとその言語や文化にそれぞれの「身の丈」があって、適性があるのだと思う。「身の丈」は一度打破して、また戻ってくるのによい場所にしか過ぎない。
1 comment:
Bayram is not for breaking Ramadan month. I think it is for celebrating the great month and thanks to God :)
-Kerim.
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