美人なのに頭が悪いというのは救いようがない。いわゆる今流行の「おバカ」ではなく、頭がよろしくない人のことである。そういう場合は開き直れるキャラでない人がほとんどであって、余計に痛ましい。
女子アナと呼ばれる人種は、最近はほとんどの場合、外見とコネ採用なわけで、彼女らに知識や教養を求めるほうがお門違いというものなのだろうけれど、昨日の「笑ってコラえて」(私のお気に入り)で、日本に居住する外国人で、その国籍数の少ない国を所ジョージが任意に抽出して、会いにいくというコーナーで、セルビアが選ばれた。全国に20人足らずで、フランス人の8000人やイタリア人の2000人からすると桁違いに少ない。必然的に日本に居住するセルビア人というのは、インテリになるわけで、番組がスポットを当てたのも、東大の院で宗教学を専攻する男子学生だった。彼は、高校生のときにテレビで見た剣道に惹かれ、やがてベオグラード大学で日本語・日本文学を専攻し、文部科学省の奨学金を得て慶応で一日16時間という猛勉強を続けたのちに、日本人の「ユニークな」宗教観念に研究対象を見出し、現在に至る、仕草も態度も日本人より日本人らしい努力家の好青年だ。彼によって召集された8人のセルビア人がパーティーを行い、それを夏目というアナウンサーが訪ねるのだが、番組の「リトル・セルビア」を作って欲しいという依頼のもとに行われるわけであるから、当然彼は玄関で女子アナを「ドバルダン」(=こんにちは)で迎えるのだが、そのアナウンサーは、セルビアの「こんにちは」さえも調べずに来たらしい。その後、セルビアの民族衣装を着せてもらって、「自分でもかわいいと思う」とおおはしゃぎの様子だったが、会話の内容を見ても、ある程度の知識層であるだろう彼らと話がうまくかみ合わず、かわいい顔でにこにこしている姿が実に痛々しかった。
私がここで言っているのは、机上の勉強ができる「頭の良さ」ではなく、最低限の礼儀やコミュニケーションの基礎を真摯に実践できる人のことだ。こういう場合に、美人はつくづく不利だと思う。美人であるがゆえに、美人でなければあらかたあきらめられたであろうことを要求され、失望されるなんて。しかしまあ、美人は美人であるということだけで生きていけるから、頭が腐ってしまうのかも知れない。私も美人だったら、こんなに(?)勉強しなかっただろう。東大にももちろん美人はいっぱいいるけれど、美人すぎてどうにもならないほどの美人には出くわしたことはない。あえて言えば、もちろん美人だけれども好みの分かれそうな美人ということだ。
ブスはブスなりに苦労が絶えないが、それは内向きの苦労であって、誰かを落胆させたり傷付けたりはしない。美人は美人ということだけで生きていることに気づかない人も多く、自分の頭が腐っていることにも悲観したりしない。傷つけるのはただひたすら、寄ってきた愚かな男どもや、それにとどまらない、周りの人々だ。
ブスは、頭の鮮度を維持する努力をするだけで、ブスなのに偉いというイメージを抱かれることがある。ブスなのに仕事ができれば褒められるし、気が利けば株も上がる。これは単なるルサンチマンでも僻みでもなく、この歳になると、心からそう思える。ブスは美人の気持ちを想像するのに難くないが、その逆は困難だ。
ペイリンも黙っていれば知的な美人に見えるのに、しゃべり始めるとただのバカであることが露呈するからもったいない。テレビ局のリポーターくらいが彼女には合っていたのかも知れない。ブラウン管を通じて、彼女の美しい笑顔を振り撒いたほうが、マケインがくたばったときに代理で務めて、破局的な結果に陥るよりも、公共の利益に適っている。にこにこ笑っていればすむ仕事がどうして世の中にこんなにあるのか、幼少時は疑問だったけれど、綺麗なだけの彼女たちを生かすために昔からある知恵なのだと最近とくに思う。
身の丈に応じて生きることの大切さ。「身の丈」が早く、適切に分かるのも実力だ。その実力を備えなければ。
Thursday, October 2, 2008
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