Thursday, July 31, 2008

苦悩するアフリカ

《Shackled Africa》

『アフリカ 苦悩する大陸』(ロバート・ゲスト、東洋経済新報社、2008.5)The Shackled Continent: Africa's Past, Present and Future, Robert Guest, 2004

"shackled"とは「足かせを嵌められた」という意味。アフリカ各国の現状を「エコノミスト」“欧米”ジャーナリストの視点から、極めて現実的にしかし悲観も楽観もせずに、期待は失わない筆致で具体的な事例をもとに紹介し、いかにしてアフリカは発展することが可能か、自身の日本の知識をもとに追求する。なぜ日本は発展し、アフリカはいつまで経っても発展できないのか----という幼子でも抱く素朴な疑問。しかし、誰も明確には答えられない。複数の要因が複合的に重なり合い、しかも評者の立場が問われる。非アフリカ人なら、アフリカの権力者の異常なまでもの権力志向や腐敗、言ってみればグダグダ政府にその要因を少しでも求めれば、(サヨクからも)植民地主義者と強烈な非難を浴びるし、アフリカ人の政治家たちは口を開けば援助、援助・・・しかしその行き先は、nobody knows. この非生産的な袋小路を打破するには?

著者の提案で注目すべきは2点。

著者は明日の食べ物に困る人たちにとっては、まず搾取のグローバリゼーションとしての貿易が必要なのだと提案する。搾取されることよりも、まず相手にされないことのほうが問題だ、と。リカードの「比較優位」の話を持ち出す。そんなに事態は単純なのかと疑いたくもなるが、確かに一理あるのかも知れない。ある人々(搾取!暴力!ポストコロニアル!と叫びたい人たち)にとっては超モンダイ発言だが、一考には価する。

アフリカには「信用」が存在しないため、ビジネスが成立しない。不動産の所有権を確立して、財産法や相続法を整備すること。不動産を担保に資金を借り入れることを容易にする。先進国では当たり前のことがいかに整っていないか。民法でマルト(=登記)と当然のようにノートを取ることの偶然性のようなものに、打ちのめされそうになる。

あとはありがちだが、「民主化」と脱中央集権化、部族意識の改善(「保護者=庇護者」という構図)。アフリカ権力者の権力志向はアフリカに特有のものかどうか?強固な部族意識は本当に植民地支配の産物なのか?その部族意識はアフガニスタンのそれと異なるか?どのように?部族意識の改善が難しければ、ナイジェリアのイジョ族とイツェキリ族の対立に苦慮する官僚がナイーヴに言うように「マイノリティがいない、均質な行政区を作る」ことなんて可能なのだろうか?もしくはそれしか方法がないのだろうか?ボスニアで、どう頑張っても民族ごとに色分けすることができなかったこと、そのたびの血が流れたことを考えると気の遠くなる作業だけれど・・・今後調べよう。

アフリカ苦悩する大陸アフリカ苦悩する大陸
伊藤 真

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7/31の注目ニュース


South African ruling party leader Jacob Zuma has lost a legal bid to stop documents being used as evidence in his corruption trial that starts next week.

Tonga's Prime Minister Fred Sevele has defended the lavish festivities marking the royal coronation this week.

The EU has expressed relief at the decision by Turkey's Constitutional Court's not to ban the ruling AK Party.

Israeli right-wing opposition leader Binyamin Netanyahu has called for snap elections, after Prime Minister Ehud Olmert announced he would stand down.

Thai school offers transsexual toilet. これは画期的。

Wednesday, July 30, 2008

宗教の限界と可能性

《Possibility and Limitation of Religions 》

『現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義』(池内恵、講談社現代新書、2002) Contemporary Arab Social Thoughts, eschatology and Islamism, Ikeuchi Satoshi,2002

この著者にはいろいろ批判も向けられるし、もちろん私もallマンセーではないが、かなりの若き秀英であることは世の中一致しているはず。1967年を皮切りにアラブ世界の(ほとんどが著者の専門であるエジプト限定なのだが)知的営みがどん詰まりの袋小路に嵌っていく過程の行き着く先が、日本赤軍やマルクス主義、共産主義とも絡めて描かれ、「どぎつい際物出版物」が地で行くオカルト陰謀論とともに、どうしようもないと言いたくなるような閉塞感と痛々しいまでの絶望感である。それを育てたのは"われわれ"世界だと言われれば身も蓋もないけれど、この思考の貧しさはどこから来て、どこまで行ってしまうのだろうか。

シリアに逃れてきていたバグダッド大学の政治学の教授は、とても開明的で教養のあるおじさまだった。しかし、シリアの友達は哀しくなるほど凝り固まっている(”敬虔な”とは褒め言葉になりうるのだろうか)。トルコの友達は賢いし、それほどではないが、やはりそこから抜け出られない感じがする(抜け出る必要もないけれど)。何を信じようと自由だが、だからこそ宗教の限界と可能性に思いを馳せてしまう。



現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義 (講談社現代新書)現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義 (講談社現代新書)
池内 恵

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7/29の注目ニュース

日本の報道番組のレヴェルの低さを改めて指摘する元気ももはや起きないけど、忙しいとつい情報収集を怠ってしまうので、日本ではあまり伝えられないニュースをピックアップしてみようかと。適当に改変とコメントを適宜加えます。(ソースはBBC, Al Jazeeraなど)

Turkish jets 'attack PKK hideout' Turkish warplanes have attacked a hideout of the rebel Kurdish Workers Party (PKK) in northern Iraq, the Turkish army says. Some 40,000 people have been killed since the PKK launched its campaign in 1984.一昨日のイスタンブールのテロがどう影響するのかも心配。

Iraqis attack al-Qaeda stronghold Iraqi forces backed by American troops have launched a major operation against insurgents in the north-eastern Iraqi province of Diyala. A US army spokesman in Iraq said the goal of the operation in Diyala was to seek out and destroy what he called criminal elements and terrorist threats in the province, and to eliminate smuggling in the region. 女性の自爆も急増で女性警官がチェックにあたっているよう。

Bosnian Serbs jailed for genocide. Seven Bosnian Serbs have been convicted of genocide and jailed over the massacre of Bosnian Muslims (Bosniaks) in Srebrenica in 1995. カラジッチの拘束に対するデモが半端ない。これも影響するか。根深い。

Zimbabwe crisis talks 'adjourned' .ムガベがMDCのツァンギライ議長に「第3副大統領」ポストを提示したが、議長側はこれを拒否。協議が行き詰まる。・・・学校で速報で聴いた。

China defends human rights record. これも生で見たけど、政策側の意図かどうか知らんが、登場した中国人女性教授がヒートアップするごとに非中国人からすると笑ってしまうようなコメントに走ってしまっていて気の毒だった。"アムネスティの色眼鏡"という面ももちろんないわけではないけど。

Tuesday, July 29, 2008

読むに値しない新聞

《A Worthless Paper》

新聞を読むことは重要。私も日々お世話になっている。しかし、読む価値のある記事がどれほどあるかというと甚だ怪しい。社説なんか言っていることはハチャメチャだから流し読みだし、天声人語もたまにはいいこと言うけれどもいつもじゃないから。オピニオン面の特に読者投稿なんてのは最悪な部類で、吐き気を催すような垂れ流しばっかり。浅くて浅くて、嫌になっちゃう。

特に「若い世代」には絶対投稿数が少ないからなのか、そもそもクオリティーが低いのか、今の若い子はこの程度しか考えていませんと言っているに過ぎない。昨日の朝刊だと、秋葉原、八王子の事件を受けて、刃物の正しい使い方を教え、「強く生きる力」を身につけさせられるような教師になるぜ、と誓う大学生とか。そういう問題じゃないんだよ、あなた。あとは25歳の大学生が、欧米の目を気にしての北京での犬肉禁止に対して「異文化理解し合おう」なんていう中学生みたいなスローガンを満足げに投げてるんだが、おいおい・・・。

そもそも読むに値しない紙面をわざわざblogで取り上げる私もどうかと思うけど。鬱憤晴らしということで。

罪深き抽象性

《Sinful Abstraction》

具体性から避難するのはそれほど罪だろうか。抽象の非生産性とか現場の重要性を再三述べてきたし、決して否定もしないが、そうして自分を説得してみても、やはり具体的なものに全く興味が持てないことをそろそろ認めてもいいのではないかと思うようになった。「理論と実践」という魅力的な相関関係の危険性は身をもって体験したところだが、アクチュアルな実践を全身で拒否してしまう自分が消えない。もう、これは仕方がないのではないか。自分への説得はいつか欺きに変わってしまうかも知れない。世界にも自分にもそれは不幸としか言えない。

国際協力とはいかにも美しい響きだ。27日にその前線で活躍する錚々たる顔ぶれのオフ会の末席を汚させてもらったが・・・ダメだな。ダメだ。国連などの国際的な公的機関で「いかにも良さげな」ことを仕事にしたいと常々思っていたはずだけど、仕向けていただけなんだろうな。己を改心させるのは諦めようか。

・・・「僕は偽善者だという、この偽善的な衒い」(『ある永遠の序奏 青春の反逆と死』大宅歩、角川文庫、2008.7.25)
・・・"The hypocritical affectation that I am a hypocrite" (a poet, Ouya Ayumu)

彼のお父様、大宅壮一氏の名言「男の顔は履歴書である」("Man's face is a C.V.")。深く、鋭い履歴書が欲しい。

Monday, July 28, 2008

恥辱のあまり

《Out of Shame》

海外の文通友達のために英語でも表記することにしたけど、やはり2倍時間がかかるので暇なときだけにしよう。I have decided to use both English and Japanese for my penpals overseas as much as possible only when I have time to do that, since it takes double time:(

『アフガニスタンの仏像はは破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(モフセン・マフマルバフ、武井みゆき+渡部良子訳、現代企画室、2001)
The Budda Was Not Demolished in Afganistan; It Collaspsed Out of Shame, Mosen Makhmalbaf, 2001

著者はイラン人映画監督で、おそらく"近代的な"大学教育を受けたこともなければ、いわんや政治学、国際関係学をや、だろうから客観的な分析とか学問的深遠さを期待してはいけない。アフガン人に対する視線も、訳者の指摘するように、"われわれ"西洋の枠組みを適用している。しかし、そういう要素を引いても、イラン人である彼がこのように声を上げることの重要性は否定してもし切れるものではない。唯一同じ言語、同じ宗教を共有するイラン人が何もして来なかったのだと猛省を促す言辞の矛先はもちろん、"われわれ"にも向かっているのだが、その姿勢は強く誠実に静かに「感受性」に訴えかけてくる。「恥辱のあまり」という"上手い"コピーが、切々と迫ってくるように。超一級の芸術家、表現者である。

「石仏は崩れ落ちることで瀕死にある国を指さした。だが、誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指させば月ではなくその指を見るのだ」

「タリバンは遠くから見れば危険なイスラーム原理主義だが、近づいて個々を見ればそれはパシュトゥーンの飢えた孤児である」

うまいなぁ。

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだアフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
Mohsen Makhmalbaf 武井 みゆき 渡部 良子

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自由に生きる

《Live Freely》

引き続き『二十歳のころ』より。

「○○のために粉骨砕身」という人は「○○イコール何とか」というのが基本パターンで、その人にとっては○○が何であれ大した問題ではない。戦時中お国のために粉骨砕身していた人は、戦後も色々なことのために粉骨砕身していた。(pp286,森毅)
Someone who wants to exert him/herself to the utmost for ○○ always tend to see that ○○ is equal to something as his/her basic pattern, and it does not matter what ○○ is for him/her. Those who had exerted themselves to the utmost for the state during the war did so for other various things also after the war.(pp286, Mori Tsuyoshi)

自分の持っている価値観を旅先に持って行って、それをメジャーにして判断すると、その土地特有の文化を知ることもできない。自分の味覚感覚でその土地の食べ物を批評するのは失礼だしおこがましい。(pp362,妹尾河童)
If you bring your values to your trip and evaluate things on the ground of it, you never know those peculiar cultures. It is rude and impudent to criticize foods of those places, based on your sense of taste. (pp.362, Seno Kappa)


ここから言えるのは、本当の意味で何かから自由になるというのは実に難しいということでしょう。
We can learn from these words that it is really difficult to be free from something in a real sense.

Sunday, July 27, 2008

もう戻れない

《Can't Go Back Any More》

法律の勉強をする気が全く起きない。そろそろ本腰入れねばと思うのだが。

何事にもやる気で満ち溢れているときと、全く何もする気が起きずただただ悲観的に脱力感ばかり漂うときとの落差が、自分は激しいほうだろうか。健康状態にもよるけれども、最近は何者にもなれないことへの恐怖が一番大きい。そういう意味での失敗は絶対したくない、という小心者のバリア感がかえって臆病にしているのは分かっていても。中途半端な嫌な人間になっていきますよ。ああ使えない。

最近、お遊び本として『二十歳のころ』(新潮文庫、2002)を読む。大物として成就する人は遅くとも高校生か20歳前後には何かしら頭角を顕しているもの。point of no returnとしてのcritical momentは、私の場合、とうに過ぎ去っているのだろうか。高木徹『大仏破壊 ビンラディン、9・11へのプレリュード』 (文春文庫、2007)の度々のpoints of no returnには寒気がした。高木徹はやはり筑附→東大目線がどこかしら強固に残っている気がしないでもないけど、切れ者だな。こういうjournalist的ポジションは本当に羨ましい。・・・最近堅い本の進みが遅い。

しばらく『二十歳~』から、いい言葉を抜粋していこう。

「世界にはいろいろ面白いものがあってびっくりします。君らも若いんだし、面白い生き方を一杯見るといいと思う。歩き回るというのが大切です。教室と自宅の行き来では新しいものは生まれてこないんじゃないかな。書籍以外に真理があるということ・・・」(pp108、水木しげる) 激しく同意。また旅に出たい。長期休みが欲しい。

有名どころですが、「わたしが一番きれいだったとき」は涙もの。私ver.で、恥ずかしいからin English. "When I was at my most beautiful, I was on the bed. When I was at my most beautiful, I was always looking down・・・"なんて。 大したことないですよ、戦争とか原爆とかを思えば。ほんと、「自分の感受性くらい」ですよ。ひとつ名作を。

もはや / Any more できあいの思想には倚りかかりたくない / I won’t lean back / On any ready-made ideology. もはや / Any moreできあいの宗教には倚りかかりたくない / I won’t lean back / On any ready-made religion. もはや / Any moreできあいの学問には倚りかかりたくない / I won’t lean back / On any ready-made knowledge. もはや /Any moreいかなる権威にも倚りかかりたくない / I won’t lean back / On authority of any kind. ながく生きて / After so long years in my life 心底学んだのはそれぐらい / Only this I have learned truly. じぶんの耳目 / My own eyes and ears, じぶんの二本足のみで立っていて / My own feet to stand on, なに不都合のことやある / What else should I need? 倚りかかるとすれば / I will lean back, それは /If I should,椅子の背もたれだけ / Only on the seatback. (http://minsai.exblog.jp/様より 『倚りかからず』1999)

「小さな娘が思ったこと」(pp144抜粋)
僭越ながら海外の友達のためにも英訳してみる。



小さな娘が思ったこと
(What a little girl thought)

ひとの奥さんの肩はなぜあんなに匂うのだろう
(Why the shoulders of someone's wife smell so much)

木犀みたいに
(like a sweet osmanthus)

くちなしみたいに
(like a gardenia)

ひとの奥さんの肩にかかる
あの淡い靄のようなものは
なんだろう?
(What is that, something like a waney haze on her shoulders?)

小さな娘は自分もそれを欲しいと思った
(The little girl thought she also wanted it)

どんなきれいな娘にもない
とても素敵な或るなにか・・・
(something wonderful, no other beautiful girls have)



小さな娘がおとなになって
(The little girl grew up to be a woman)

妻になって母になって
(to be a wife, and to be a mother)

ある日不意に気づいてしまう
(One day, she happened to realize)

ひとの奥さんの肩にふりつもる
あのやさしいものは
(that something gentle lied on the shoulders someone's wife was)

日々
ひとを愛していくための
ただの疲労であったと
(a mere fatigue in order to love someone every day)


茨木さんが仰るように、能動的に相手のすべてを愛するとは大変なこと。自分も傷つくし。疲れる。しかし・・・。それが幸福の形なのだな。私は疲れたからしばらくいいです。

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Wednesday, July 23, 2008

「らしさ」の陥穽

《Snare of "Just Like You"》

先般、香山リカ「らしい」ね、と言い放ってしまったが、「らしさ」もまたいろいろと難しい問題がある。私が使ったその文脈は、彼女は「あちら」側の世界の人、何を言っても何を書いても。柔軟な思考どころじゃないし、哀しい思考回路だわ(人の振り見て・・・だけど)、もちろんそういう人がいてこその多様性だから全く否定はしないけど。

一般的な「らしさ」の話。「らしさ」がなければoriginalityもidentityもあったものじゃないから、あってナンボなのだが、「らしいね」がしばらく続くと大分危険信号点滅なのではないかという気もする。「らしさ」に安住しないことが大事、とでも言えばいいかな。

でも、意図的に「らしさ」を打破しようとしても結局実にならないことも多い。悩んで、やっぱりこんなの私じゃない・・・と原点に戻って再出発するという作業を繰り返さなければならないのかも。ただ、その原点は、核としては揺るがないものであって欲しいけど、その同心円状に広がるcapacityやpossibilityは常に流動可能性を孕んでいて欲しいものだな。原点に戻りつ出つ・・・を繰り返しながら、原点が大きく深く成長する。他の世界とのcommunicateのための語彙も豊富に。気づいたら原点が少しずつ移動していてもいいかも知れない。あくまでも、少しずつ、なのだけれど。

鮮度から深度へ

茹だるような暑さに、羽目をはずした子どもたち。夏の匂い、だれそうな雰囲気。

子どものときはやはり子どもだったけど、「子ども」とひと括りにして安心できるほど子どもじゃなかったし、今の「子ども」たちもそうだろうと思う。天野祐吉はたまにすごくいいことを言うのだが、昨日の『CM天気図』で宮沢りえの伊右衛門茶のCMを引き合いに、「女優は鮮度から深度だ」みたいなことを書いていた。若さには可能性がある、なんて学校の先生はよく言うけれど、確かにそれはそう。ただし、何もしていないということは何でもできうるという選択肢を残しているという意味で。何もしていないことが可能性になるのはせいぜい高校生くらいまでだろうか。それでも今のお受験競争だと小学校から始まっているのかもしれないけど。何にせよ、歳を重ねながら方向性を狭めていく。隘路に飲まれていく。しかし飲まれなければ可能性とも呼ばれない。昨日久しぶりにビューティーコロシアムがやっていて偶然見たけれど、あの是非は置いておいて、中身が空っぽじゃやっていけない。どんなに顔が歪んでいても、プロに任せれば誰だって「それなり」にはなるだろうよ。問題は中身だ。深度だ。おまえはどれくらい深いんだ?・・・と問うてみる。

Sunday, July 20, 2008

知は現場にある?

光文社新書のしおりより。コレ、結構深い問題孕んでいる。

カラジッチがセルビア当局に「やっと」18日に拘束された。複雑な思い。『カルラのリスト』(La Liste de Carla,2007)も見たし、ICTYの存在意義の重々承知しているけれど、とかく戦犯処理に関して「正義」の問題は私には手に負えないほど重い。重すぎる。多谷千香子氏が『民族浄化を裁く』(岩波新書、2005)のあとがきで言っていたな。ICTYへの日本人学生の見学者が複雑な表情をしていた、と。割り切れない様子だったが・・・と文面ではたしなめるような書き方をしていた。法を司る、(今変換して思ったけど)それが司法だから、そういう人たちがいないとこの世は機能しないから頑張って欲しいと思うけど、そこに違和感を感じたり、「?」を常に投じる人の役割も捨てがたいんじゃないかと思う。ま、大体こういう人種は世間から疎まれるし、よっぽどのキレ者じゃないと飯も食っていけないんだけど。Restorative Justice(回復的or修復的司法)とか色々あるみたいですが、なかなか難しい。一筋縄じゃいかないところに魅力を感じつつも、いずれは思考停止する己に嫌気が差しておしまいなんだ。

ああ、タイトルのこと。青島くんをわざわざ出さなくても、現場の大切さは強調するまでもない。具体性の重要性の先般書いた通り。でも、どっちかに固定したり偏るのが一番まずいこと。往復活動が大事。もしくは、思考が硬直化しちゃって、特定の具体性に直結させようとするとか、ね。今日、日曜の朝日の書評で、香山リカが、また彼女らしい結論なんだわな。4月くらいに出た岩波のスピヴァクとバトラーなんだけど。気が向いたらレヴューします。

抽象から具体へ

蝉が鳴いている。確かに暑いけれど、穏やかな風が入ってくる。子どもたちは夏休みに入ったばかり。まどろみながら読みたい学術書を読む。なんて幸せな七月の午後。



拝見している同じ大学の1つ上の経済の先輩(しかし見ず知らず)のblogからのincentiveで。就職活動の過程で、「仕事とは社会貢献で自己実現だ」という"naive"な学生の信念がいかに現実社会から乖離したもので非現実的か気づき、「仕事は食うため。他の目的は他の手段によって(例えば趣味や余暇を通じて)行うべき」という方向性に舵を切るパターンがある。どういうポリシーも一理あって、否定するつもりは毛頭ないし、自分も人生経験を積む過程で考え方が変わるというのは大いにあり得ることで、このテーマはむしろどちらか一方ではなく、balancingの問題だろう。妥協とか折り合いをつけつつ、それでも守っていくものがあるのだと思う。

100%理想を仕事に求めたら見えなくなるものはあるし、官僚たちの夏ではあるまいし、情熱とか熱意で押し切れる時代でもない。しかし、whiteでもblueでも、何かしらその仕事(人生の大半をかける)に、自己存在とか遣り甲斐を見いだせなかったら、生きていけない。非正規雇用とか格差社会だなどという喧しい議論に近似したくはないけど、それは根本的で基本的な極めてfundamentalなことと言うほかない。

それは違うだろうと思ったのは、そのblogerが「社会貢献、自己実現としての仕事→生存手段としての仕事」という直線的な発展過程を前提にし、自分はもはやnaiveな学生ではないと匂わせ、「どちらも認めるけれどやはり守るべき方向として前者は捨てられないね」と半ば自嘲気味にしかし足取りは強くコメントする院進学の友人に対して、「それでもいいのか良く考えてね」的な物言いをしたこと。就活もまだで、specificなキャリアプランも描けていない私が言うのもなんだけれど、何かの出来事ですぐにall or nothing的に、右か左かと振れるのは誠実じゃない。ミクロとマクロを往復してにちゃんと観察できずに浮き足立っている、それこそnaiveな若者ではないか・・・なんて厳しいかな。

そのblogerはまた、①自分のコミュニケーション能力の欠如を問題にして、②学生時代の勉強、議論、読書だけじゃだめなんだ、もっと抽象的なことではなく実践的で具体的なことを的なことを言う。

①について。巷の就活how to本を眺めていてもよく感じるのだけれど、社会が求めているコミュニケーション能力って、空気が読めるとか社会人として必要な営業とか接客とか会議とかでの文字通りの表面的なコミュニケーション能力だけなのだろうか。そんなの必要なのは、必要必要と叫ぶまでもなく自明のことで、ESを飾り立てていわゆるプレゼン方式のようなPR力と「わかりやすさ」を追求することが全てではなくて、骨太の本物の、authenticな思考力に裏打ちされた、共感能力とか、理解の限界を弁えた上での「思いやり」とか、本質を見抜く、私が使う文脈でのcommunication能力をかなりの程度含むべきなんじゃないか。古典文献の読み方、みたいに。

①に関連して、②も「だけじゃだめ」だろうけど、じゃothers(そうでないことe.g.「コミュニケーション能力」を育成する場として最適だとよく挙げられるサークル活動とかバイトとか)を本分としたら、つまり具体から抽象へ、というのはより困難じゃないか。抽象から具体・・・は私もあまり経験がないし苦手とするところだけど、やる気になればいつでもできるはず。そういうpotentialを重視して採用してくれる懐の深い企業はないんでしょうかね。internが通らず、夏の予定が勉強しかない私が言うことでもないか。


世知辛い世の中

補講期間終了で、この3連休は「何もしない、を、する」をしよう。読もうと思っていた試験や就職には「uselessな」本を読む。有益にsurfer sur le net。擦り切れるほど(?)見て台詞まで覚えてしまったDVDをば。Talmudのゼミに参加していると言ったら怪訝な顔したテキサス君に放った己の言葉を反芻してみる。....Well, I know it's useless, but I like to do something useless. 無益なことと開き直って、それがジェネラリストか。結局何者にもなれぬ、中途半端な愚か者め。

将来が理由もなく不安になるのは、現在(いま)に思い煩わされることがないからか。ある意味幸せで、ある意味不幸。苦労していないということになるし。かと言って、ずっと苦しいままでは快く生きていくこともできやしない。人生の休暇か、(実際に!)試験勉強という名の。

高校のときに片思いしていたひとから、いきなり就職活動情報を求めるメールが。利用されているだけだって、当時から知っていたけれど、不覚にもときめいてしまうのは、まだまだ若いということか。あの頃のピュアな気持ちにはもう戻れないのに。歳を取ると、「純粋に」何かをするのはほぼ不可能になってくる。策略ではないけど、計算でも打算でもないけど、自分の将来に保険をかけて、守るものができて。失うものがない強さなんて持っているのは天才肌の芸術家くらいなものかしら。

いいじゃないの、私には今、(可能性として)失うものがある。学歴を手放したら?財産は?家族は?・・・今までの、今までの私の時間(じんせい)は?たかが20年ちょっとと笑われてもいい。保身に走るつもりはない。私の中の失えやしないものものは担保にだってならないかも知れないけど、少しの芯と歴史があれば、最終的には生きていけるだろうから。

結論:確かに守るものは多いけど、それが何よりの生きている証。でも仮にそれらを失っても、私の中の失えやしないものものらが、きっと手助けしてくれる。パウロ・コエーリョが言うように、世界中ではないかも知れないけど、私の見てきたものが、考えてきたものが。

こんなことを考えてしまうのは、気温の下がった夏の夜だからか、世の中が単に世知辛いからか。結論;大学に残るのは得策ではない・・・!

Monday, July 14, 2008

imagination と communication

最近確立、定着している私のモットーとして、人生で大事なものは想像力(imagination)とcommunication。想像力さえあれば解決あるいは改善可能な物事や問題のそれはそれは多いこと。他者への、過去への、未来への想像力。そこから配慮や焦燥や後悔や共感や理解が生じると、世の中や人生はもっと豊かになる。しかしその常なる限界が人間を人間たらしめているともいえる。それによる失敗やすれ違いや誤解や排除、被害妄想もあればそれがもとでこの世から去る人も。汚い、醜い、拙い、永遠に完全にmaturedな状態になることがないからこそ、人間はかくも魅力的で美しいのだと。限界は必ずどんな人にもある。「それ」や「これ」が全てでないこと。ある意味、物事や自分を俯瞰して客観相対視しつつ、そのひとつひとつに忠実に誠実に真摯に対応できること。何百何千何万もの感情に様々な角度から接すること。一山も二山も越えて繰り返したときに、そのひとはずっと魅力的で繊細で強いのだと。確かにc'est la vie、しかしla vieを、人間を、こよなく愛する、決して突き放したりしない。そんな人間に私はなりたい。 深く、深く、深く、大きく。

昨日サンプロにはからずも出演(?)、コメントまでし、初のテレビ(生)放送に心躍った田舎者は、ねずみ講式に広がった同じ観覧者でもあるfriendsと初スタバ@六本木。girlish talkを繰り広げ、not経験but知識豊富な私は分かった風な格言をば。なかなかどうしてそこまで愛せるかな。内田樹の名言で、結婚とは相手が相手自身を発見していくプロセスを共有し、隣で見守ること、というのがあって。それはまさしくcommunicationなしでは不可能。しかも、純粋に以心伝心とか、こころだけで会話するというのは理想的だけれど、なかなか難しい。それこそ、imaginationの限界があるから。だからこの2つは両輪で、どちらも欠けてはダメ。そんな結論に達するとY子は「imaginationはオナニーで、communicationがセックス」と。かなり言い得て妙な喩え。両方ないとダメ。生殖活動が人間の根本である、(再生産ということまで言わなくとも)ところからしても。シリアで私が描いてみせた絵を思い出す。女に挿入している男。その男の足にしがみつく女。その女の乳房に吸い付く男。その男のモノを口にする女。その女に挿入する男。その男とキスする女・・・みたいに人間が絡み合って連関している。love&peaceなんて叫ばなくても、そこに人間がいたら、そうなる。human nature。愛は愛で、生きるために。この世で、人間と共に。

無印で自分で月日を書き込むタイプの手帳を購入。どうしてこうも落ち着くかな。モノに記憶を託すことよ。

お父さんのためのワイドショー講座じゃないけど、まとめて1週間。7/7 mon アラビア語のレッスンがないと夜がかなりラク。しかも自分でやって結構頭に入るようになってきた。7/8tue どん底にやる気のない日がある。四谷の紀尾井ホールでkuss qartetを学生価格で。本物ですな、癒されますな、とかしか言えないですけど。その後「調子に乗ってる」上智の街で洋食をば。ランチの女王的な雰囲気に、食べること、人と話すことの尊さと重要性を再痛感。7/9wed 前日2,3時間しか寝てないのにちゃんと授業を聴けるのは驚異的。それでも最後までゆるゆるたらたらなゼミでは撃沈。次回は濃いのをば。来週までには一ノ瀬先生レポを。それにしても、切れ者学者が熱く語ると私なんぞはイチコロであります。あ、私のタイプは、抽象論を熱く語れる田舎者。決して自己肯定でもないですが、え?7/10thu 今回の民基礎はこれと決まった解決策のない隣人訴訟。imaginationとcommunicationとか言っておいてなんですが、隣人はいやですね。大変です。授業後に立ち話する習慣がなぜかついた子と喋り続け、気づいたら夜だったもので、学食で第2ラウンド、それでもなぜか止まず、生協前のATM隣のベンチで第3ラウンド。衝撃の事実が次々と明らかに。気づいたら終電を逃し、お泊りさせていただくことになって第4ラウンド、continued till morning・・・勝手にこちらが苦手だと思い込んでいた子だったので、話が合ったというより、ある程度、思ったよりもかなりの程度で共有できましたね、という程度ではあるものの、とてもよいcommunicationでした。そうして7/13sun、テレビ朝日。東大生が未来に希望を持っていることに対して、ワーキングプアの現実が温室育ちの秀才たちには分からんのだろう。どうせそのままエリート街道を突っ走って甘い汁を吸ってくれたまえ的な結論の付け方は、多分誤っていて、国のリーダー層が本当に希望を失ったらその国は終わりということ。東大生って昨今の官僚と同一視される部分が否めず、医者や教師などの専門職に対するルサンチマン的なものもひとつの要因なのだろうけど、一般人(語弊あるが)や私が思う以上に優秀で熱意や情熱を持って国のことを理論的客観的に考えているし、いまどき官僚になる奴なんてそうでもないと務まらない。希望がない、希望がない、金がない、どうしてくれるんだと不当に嘆いても始まらないのをよく分かっていて、それを改善する能力を持って生まれたノブレスオブリージュとして、変なエリート意識を持っている奴もいるけど、現状を認識して決して悲観的にならず、いろいろ問題はあるがという留保付きでの「希望」であることを分かって欲しいと切に願う。もちろん、何の苦労も社会の底辺も知らないがゆえに、という要素は捨てきれないのだが。

p.s.日本語のブログなのに、英語やその他外国語を混ぜるのは単にスノッブだからではなくて、その言語のほうが概念やfeelingsを的確に簡潔に表現できるからということで。あと、固有名詞とかカタカナで打つのが面倒というのも。

Sunday, July 6, 2008

志と幸福

前投稿テーマのようなことを西洋法制史の後に立ち話したのは、1つ上の先輩だが、彼女は実に物腰が柔らかで、おそらく誰にでも優しく朗らかに接するのだろう。しかし決して「当たり障りなく」という意味ではなく、誰がしかに何らかのインパクトを必ず与えるような。かなりefficientな、という形容がぴったりである。帰国なのに(というのは語弊があるが)too aggressiveではなく。



そんな先輩に、私は上野樹里似だと言われた・・・初。高校時代は仲間由紀恵と結構言われていて(自慢では全くない)個人的にも努力していた。上野樹里か・・・ラストフレンズは当方全く見ていないが、のだめ以降のマンネリを打破したとかで結構評価されているよう。うーん、しばらく様子見とするか。



その後のアラビア語教室はワンクール最終回で、終了後都庁近くのレバノン料理に。さすがに受講料を払い続ける余裕は学生にはないので、これでお別れだが、自分で勉強を継続する自信がついた。約1ヶ月後、クウェート政府奨学金に通れば良いが、通らなければ、それなりに進路計画の微修正が迫られることになる。教室に関しては、滅多に交流を持つことのない社会人の方や主婦の方とお話する機会が持てたこともgood。学生、特にこの大学の学生はなかなか閉じこもりがちで変なエリート意識(必要だけど)に固執することもあるから、こういうのは貴重。

驚いたのは、その帰り、新宿駅の小田急側に立っていた「私の志集 300円」の女性。気になり検索してみれば、約25年近くも立ち続けているという。占い師が軒並み連ねるエリアだから、そもそも異空間な雰囲気がばっちり漂っているものの、その人はその異空間の中のさらなる異空間で。質素で慎ましやかな服装も古風なおかっぱの髪形も時がそこで止まっているというのは言うに及ばず、その人の放つ眼力がこの世のものでない、というか表現を放棄してしまえば、「イっちゃってる」感じなのだが、なにやらかなりの直球で何かを信奉(信じてる、とか信仰してるとかというレヴェルではなく)しているよう。話してみたら面白いだろうけれど。あれは、すごい、としか言えない自分の語彙力を呪いたい。

火曜には、行政法をサボって、おそらくclosest friendsと呼んでさしつかえなかろうY子とI本とカラオケ。70~90年代初頭までが我等の守備範囲。まったく、本当にいい奴ら。捻くれてみたり、突っ張ってみたりするのに、本当はどこまでもまっすぐなんだな。寝言で将来の幸福を祈られたときには涙が出そうなものだったけど。他人の幸福を本気で祈るってなかなか純粋にできることではない。そういう仲間に恵まれた幸福のほうが噛み締めるには身近な現在。この瞬間を大事に。ずっと飲み会える関係でいられれば。

そういえばモンゴルのBちゃんのカレーは絶品だった。

修行

苦労は買ってでもしろ、とは本当に良く言ったもの。最近つとそう思う。若さとか勢いでどうにか見せられるのは20歳そこそこまでだろう。10代の頃は歳をとるのが単純に嫌だったけれど、今21になって、美しく歳を重ねたいと、30や40の自分が楽しみだと素直に心からそう思える。もちろんそれは、アンチエイジングとか、30や40の自分がどんな「キャリア」を積んでいるかとか、どんな人と結婚しているのかしていないのかという自分を覆っている外部の性質ではなく、そういう人生から何を感じ取ってどういうふうに物事を見ているのか、言い換えれば、どういうふうに他者と向き合い、コミュニケーションしているのか、ということ。自分勝手で傲慢な響きもするけれど、自分の行く末に興味がある。これは決して自分大好きなのではなくで、醜い部分や汚い部分とどう折り合いをつけて日々を営んでいくのか、生を紡いでいくのか、という人間としての興味。その点で他人の人生にも興味は尽きないけど、「経験できる」という点では、自分の人生しかないから。イマジネーションには限界があるから。

20歳を過ぎると人間もだんだん細分化されてきてしまって、少し喋れば、もっと言えば外見だけでも、どういう種類の人なのか見当がつくようになってしまう。「引き出しの多い人」とは使い古された表現で、それが使われるのはいささかbusiness-likeな文脈が少なくない気がする。私は、それよりも、マジックにあるような、色とりどりのスカーフが結んでできている長い紐が、いくら手繰り寄せても尽きない、そんな人になりたいと思う。種類もそうだけど、深さと長さと多様さ。悲しみも苦しみも喜びも、幾千万もの感情を経験し、しかし決して売りつけない。するすると引っ張ってみたらどこまでも続いている。

お金があるわけじゃない。肌が綺麗なわけじゃない。世渡りがうまいわけじゃない。人からちやほやされるわけでもない。人生の機微をよく弁えて、穏やかに、かつ燃えるような問題意識を。全てを包むような笑みを湛えながら、鋭い眼光を真摯に投げかけるような。

若者よ、修行である。

Saturday, July 5, 2008

モノと記憶と大地

私は元来・・・というか、いつからなのだろう、よくネジが外れていると言われるようになったのは。先日は、家庭教師の帰りにGSに立ち寄り、財布を持ってきていないのに「レギュラー満タン」でなどと微笑み、メーターが回り始めたころ、ようやく事の重大さに気づき、車で15~20分ほどの自宅に運よくいた母に電話し、お金を持ってきてもらったという愚をやらかした。スーパーなら、よく主婦がやるように「あら足りないわ」なんてとぼけて品物を戻してもらうということもよくある話なのだが、これが飲食店とか美容院、病院などの消費系だと、戻してもらうなんてことは不可能なわけで。しかも100円足りないとか1000円足りないとかという話ではなくて、一文なしなのである。クレジットカードもキャッシュカードもなくて、仮にあったとしてもここはド田舎。都会のように下ろせるという発想はありえなく、しかも田舎だからといってGSまで顔なじみでツケが効くわけでもなく。

こういうことは私は平気で海外でもやってしまう。行くのは途上国がほとんどで、買うものも食糧とかで金額としても向こうの人にとっても大したものではないのだが・・・。シリアとかだと周りの人が払ってくれてしまったり、トルコの後払い長距離バスでは結局免除してくれてしまったり。地球の人々には本当にお世話になりっぱなしであります。

過ぎた話をくどくどと並べるのは他でもない、またやらかしたゆえにである。大学内で電子辞書を置き忘れ、四方手を尽くしたが戻って来なかったという前科2犯の私は(一台目は2006年10月、初めて買った電子辞書とのたった半年での別れ。二台目は半年耐えたものの、電子辞書なしの生活に耐えられずに2007年4月に大枚はたいた相棒とのまたまた10月での別れ)、以来電子辞書は買わない、紙で生きていくと決心し、今に至るが、今回亡くした(”失くした”ではなく!)のは赤いほぼ日手帳である。中身は新潮文庫の無地の文庫手帳で、カバーのほぼ日も相当手垢で汚い。1月始まりのそれには、2、3月の旅にまつわる思索も詰まっていたし、must to readな書籍名のリストや、次にカラオケで歌いたい曲とか、スケジューリングというより、日記or雑記帳としての役目を存分に果たしていた。まだ教務課等に問い合わせていないから絶対に戻って来ないと決まったわけでもないのだが。

いただいた名刺とか旅で出会った人々の連絡先とか、かけがえのなさすぎるものまでぎっちり。考えたことや書き留めた感情なんかは私に血肉となっているだろうから良いとしても、実に、実に、実に・・・形あるものの儚さよ。全部大事なことだけ記憶して、自分の中に留めて、天国でも地獄でも行くしかないのか。こうしてblogを始めたのも(blogに関しては色々と議論ができるけれども、今回あえて踏み切ったのには今は触れずに。)何かの縁というか。ネット媒体ほど脆いものはなさそうなものだけれど。やはり、石に刻まなきゃいけないのかしらん。中国の先人たちのように、石に。おお、大地に。私が書き込めるような余地はもうないのに。

(うちの大学に通う人たちの名誉のために付け加えれば、ICレコーダーを置き忘れたときはきちんと戻ってきたのである。それにしても、もはやモノは持てないのだろうか、私は。)