Monday, September 22, 2008

自分教へ

私の宗教入門 (ちくま文庫 し 32-1)私の宗教入門 (ちくま文庫 し 32-1)
島田 裕巳

筑摩書房 2008-08-06
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8月10日発行。さんざんこの手の話はしているから耳たこでしょう。島田氏はオウム関連で相当ご苦労なさった方で、色々あってわれらがM先生が先端研へどうぞした・・・んだったと思う。M先生様々みたいなことをどこかで仰っていて、やっぱりさすがだなぁと感銘したものでした。

それはさておき。本書は基本的に著者の山岸会におけるイニシエーションとしての実体験を中心に描かれ、内容はとにもかくにも、かなり「入門的」で、はっきり言って得るところはほとんど(?)ないのだけれど、「こういう」分野が好きで、カタルシスを味わいたい人とか、原点に戻って足場を確かめたい人には、電車の中で読むのに良いのではないでしょうか。

251頁より。「その宗教を信仰する信者たちは。聖なるものの価値を疑うことはないが、宗教学者はそういった信仰者の立場や発言を真に受けてはならない」「聖なるものの"暗号解読"が必要」

結局、平たく言ってしまえば、世の中みんな宗教だよね、の一言に尽きるわけだ。だけど、それでシニカルになれるのは結構簡単で、本当に難しいのは、著者の言うイニシエーションを本気で通過した人だけなんじゃないかと思う。まあ、みんながみんな、宗教やら学生運動やらやっていたら疲れてしまうからいいのだけれどね。

橋爪大三郎氏の宗教の定義は「ある事柄を真実と前提してふるまうこと」。デュルケームは「神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連携的な体系、協会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である」。柳川宗教学は何でも対象としますよ、ということ。

イスラム教国で生活すると、ムスリムらから、必ずと言っていいほど、(彼らの信念に基づいて)勧誘を受けるらしい。実際、過去に入信してしまった(イターい、と言ってはいけないのだろうけれど)日本人留学生も何名かいる。私はこの世に「聖なるもの」は存在すると思うけれど、神は神の存在を信じている者(たち)の中に存在するだけなのであると思う。間違っても、アッラーを信仰できない人間を「かわいそうに」などと卑下してはいけないし、ましてやイスラム教が一番だぜなんて・・・と、まぁ、イスラム教については追々。

というわけで、今後一年間、私にオルグしようとする輩が山ほど出てくるだろうから、無宗教の信念が折り曲がらないように最後に引用しておこう。

「宗教学が宗教を対象としなければならないのは、宗教にとらわれることが最も自由を阻害する危険性を持っているからである。宗教学は制度や組織、あるいは観念としての宗教に対するとらわれからの解放を実現することによって、人間の精神性を深化させていくことを目指しているのだ」(p263)

まぁ、宗教あってこその自由だ、とかいう議論は置いておいて(汗)

「宗教学は客観性を強調する。そこで言われる客観性とは、対象のかかわりを断って、傍観者の立場に立つことを意味しない。ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要となる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくことが、宗教学には求められている。その意味で、宗教学は自分という存在のすべてが試される学問なのである」(p265)

姜尚中が、(文脈を特定しないと語弊はありそうだけど)「自分教」というのを薦めている。私はしばらく、それで行こうと思う。

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