Sunday, June 29, 2008

知的バランス

自分の立ち位置に謙虚であれ――とは私のモットー。中庸であれ、とか政治的判断を下すな、高みの安全地帯にいろ、という意味では全くない。それは、常に留保をつけること=語彙を異にする人を受け入れ、コミュニケーションが成立する余地を常に残しておくこと=できれば複数の世界を行き来しながらも、そういった「考える作法」についての揺るがない核は持ち合わせていること=己の限界を前提にその己が他者に常に開かれていること=つまり、常に悩みながら歩を進めること・・・。

今学期は、そういった思考法を実践されている(と私が勝手に思っている)S川先生のゼミをとったのだが、自分のことを棚に上げれば、穏やかなお人柄に何人かのゼミ生は甘えているように思えてならない。すでに2人が無断ドロップし、K部先生なら間違いなく「おそまつ」と一蹴するような程度の発表が少なくない。引用や参照の仕方もいい加減だったり、何よりも対象に対する真摯さに欠けている。今回の相手は干物ではなく、生の、しかも相当の血が流れた人間の出来事。自戒も込めて言えば、なぜ?どうして?を常に点灯させておくべき。「こうでした」「~である」と価値判断した際に、一体いかほどの感情や生命がそこから零れ落ちるのかという可能性を念頭に、何度も何度もできる限り再考し、多くの文献を当たるべきなのだと思う。疑いなく安易に断定する知的態度こそが争いを生む人間の本質につながる。もちろんその困難さを承知の上で。

最近の感触では、そういったバランスのとれた(とろうとする)態度を持つには、日本で生まれ育ちそこで考えるというのはそれほど悪くないように思われる。もちろん、「○○人」でひとくくりになどできないけれども、例えばアメリカ人はどうしても「アメリカ的」なる思考様式から自由に発言している人は多くない。アメリカの誇る理念などを他に適用する際に、かっこに入れることも少ない。フランスでは「自由」や「人権」「民主主義」の普遍性は疑うべき対象ではほとんどないし、文明をかつて開発したとか出会ったなどというあからさまなヨーロッパ中心主義を記述するのも、相当に信頼性の高い学術誌でもなくはなかったり。今の中国に人文社会科学の客観性や自由な議論などを求めるのはまだ尚早だろうし、他のアジアやアフリカ諸国で大学教育が整備されているのはほんのごく一部だろう。日本の論文や学術誌では、意外と多くの「」を使うのに対し、英語仏語では日本ほど見かけない。「正義」や「真実」に「」を付けないなんて、筆者にはにわかに信じがたくもある。どんなメンタリティーからそういった概念を発するのだろうか、と。ただ、(もちろん全員がとは決して言わないが)途上国からの人文社会系留学生はそういう慎重さを持ち合わせている人が、米仏etc出身者に比べると、(あくまでも筆者の見識の中では)数としては多いのではなかろうかという印象を拭い去れない。例えば最近感銘したのは、ブルガリアからの留学生が英仏独露日の文献を参照してきたこと。「辺境」とか「裏庭」出身の知識人は、ある意味「偏狭」になる人もいるのだけれど、恐ろしく「バランスのとれた」としか表現しようのない知性を持っている人も多い。

こんなことは、私の出自の正当化くらいにしか役立たないだろうけれど。

再会

木曜、金曜と推薦状を頂くために先端研に行く用があって、1月からほぼ半年ぶりに駒場を訪れた。先端研から駒場へ寄ったのは8時近くで、すでに真っ暗だったのだが、駒場の音や匂いや光がありありと身に沁みてきた。本郷の色が群青色だとしたら、駒場のそれは底抜けに明るい空色のような気がする。将来への不安を口にはするが、デッドラインは実感としてなく、皆が好きなことを好きなようにし、本郷との空間的距離が良い意味で駒場生を隔離、というか抱いてくれている。

思えば、本当に色々なことがここではあって、その中でもがきつつも、どこか地に足が付かずに、付けることの恐さ、付けないことの情けなさと常に戦いながら、陳腐な表現だけれども「模索」していたのだと。ライトの灯る銀杏並木を歩きながら、イルカの「なごり雪」が頭の中で流れてきて、春が来て、私は「きれいに」なったのだと、泣きそうなのをこらえるしかなかった。持病には程度の差こそあれこれからも苦しめられるだろうが、精神的には既に乗り越えたと言っていいと思う。"You should be stronger"と何度も励ましてくれたBosraのKaledに胸を張れるだろうか。私は強くなってきた、まだまだ強くなるよ、と。

せっかく来たついでに図書館で資料集めをし、コピーを。単純な使用経験もあるだろうが、本郷は私には身に余るほどの規模で、まだ勝手が悪い。なんだかんだ言って、駒場には2年いたのだという事実。司書のお姉さん2人も相変わらず綺麗(私のタイプだったのです)で、好きだった22時の閉館の音楽も懐かしくて切なくて、渋谷の湘南新宿ラインに向かう途中で60円のパンを買う習慣やその感覚が、ちょっと引き出しに仕舞われていただけの昔の日記帳をぱらぱらとめくるようで、ただのノスタルジーではなく、自分の基盤や積み重なってきたものを確認する営みとして、すごく私を勇気付けてくれたような気がする。モスクワの空港で膝を抱えていた私に、あの時また出会ったように。