Saturday, November 22, 2008

天皇誕生日パーティー

ビーーーーーール!!!どういう経路で輸入されているのか。



















天皇誕生日パーティーを大使公邸でやるから手伝えと言われたときにゃ、度肝を抜かれたけれど、天皇誕生日はただのパーティーをやる口実にしかすぎないのだと実感。天皇、利用されてる。










VIP専用パーティーゆえ、各国大使とその妻など。「社交界」なるものを生まれてこの方初めて目前で目撃しやした。気品漂う、というのはこういうことかと。クウェート大使館勤務はどこの国でもずば抜けた出世組ではないはずだけれど、国へ帰ればただの人、はこうなるのだと、私なんぞはお呼びでないだろうけれど、外務省も素敵なところですね。


500万のビエラ。レンタル料一日8万。血税はこのように使われております。文化外交。小雪を気どって。

大使館の浴衣を相方が見事に着せてくれました。ヘアも彼女で。こういう能力がつぐづくないので(略



ご覧の通り、とっても元気&健康になりました。هل أنا جميلة؟(私、綺麗?=口裂け女)
















Friday, November 21, 2008

教育制度

This is literal translations of Japanese, English, French and German from Arabic, which I originally wrote as a H.W., so all of the translations (even Japanese) seem to be weird and unnatural, but French and German were already checked by native speakers and they make senses.
مراحل التعليم في اليابان
مراحل التعليم في اليابان هي الابتدائية مِن ستة إلى اشنتا عشرة و الإعدادية من ثلاثة عشرة إلى خمسة عشرة و الثانوية من ستة عشرة إلى ثمانية عشرة الجامعية. هناك تقريبا ست مئة جامعات قي اليابان. معظم الجامعات قي اليابان خاصة, ولكن هي غالية. تكلف الفان و خمس مئة دينارا. للسنة بعكس الجامعات الحكومية نصف جامعات الخاصة.

日本の教育制度
日本の教育制度、それは6歳から12歳までの小学校と13歳から15歳までの中学校と16歳から18歳までの高校と大学である。おおよそ600の大学が日本にはある。大部分の日本の大学は私立だが、費用が高い。年に2500KD($10.000)かかるが、その一方で、国公立はその半分で済む。

Educational system in Japan
Educational system in Japan; an elementary school from the age of 6 to 12, a junior high school from 13 to 15, a high school from 16 to 18 and a university. There are nearly 600 universities in Japan. The most of them is private, but they are expensive. They cost us 2500KD ($10.000) for a year, on the other hand, national or public universities cost us a half of it.

Le système éducatif au Japon
Le système éducatif au Japon; l’école primaire de six ans à douze ans, le collège de treize ans à quinze ans, le lycée de seize à dix-huit ans et l’université. Il y a presque 600 universités au Japon. Presque toutes les universités sont privées, mais elles sont cheres. Elles coûtent $10.000 tous les ans, d’un autre côte, les universités nationales ou publiques coûtent la moitié des universités privées.

Das Erziehungswesen
Das Erziehungswesen in Japan ; die Grundschule von sechs Jahre bis zwölf Jahre, die Mittelschule von dreizehn Jahre bis fünfzehn Jahre, höhere Schule von sechzehn Jahre bis achtzehn Jahre und die Hochschule. In Japan gibt es 600 Hochschulen. Die meisten von den Hochschulen sind Privatuniversitäten, aber sie sind teuer. Sie kosten $10.000 pro Jahr staatliche Universitäten kosten halb so viel.

Wednesday, November 19, 2008

コスプレ



上は日本で言うチマ・チョゴリ。本当はそれは下の部分しか指さないらしい。下はアバヤ。コスプレにしかすぎないが、それでもされどコスプレ。

愚か者めが



日本は寒いらしい。ストーブも焚いているらしい。巷ではクリスマス商戦もじわりらしい。あの神経が研ぎ澄まされるような張り詰めた冷たい空気。日の昇らないうちに駅へと急ぐサラリーマン。袢纏に身を包み、首を竦めて悴む手を袂に突っ込みながら、机上の明かりだけを照らして勉強する日本の冬の夜を思うと、気候によってメンタリティーが異なるのは当然で、こうして打っているワードフォントも、明朝体にしてみたりゴシックにしてみたり、なんだか感傷的になって教科書体にしてみたりしながら、何かに規定・限定されることの喜びや快感を浸ることにしてみる。それだけでしかない、しかしそれだけでもある私を愛する作業。

10月は週に一度、フランス語に浸る日を設けていたのに、11月に入ってアラビア語でいよいよ手一杯になり、そんな悠長なことは言っていられなくなった。2週間のブランクを経て、先日突然アフリカ系の仏語話者に話しかけられ、以前のように会話しようとしてもなかなか言葉が出てこない。先にアラビア語のほうが脳裏に浮かぶようになってしまった。抽象的な文を読むのは仏語のほうが数千倍ラクだけれど、日常会話で、例えば、先生の車があるから、もう彼はここに来ていると思う・・・なんてのはこんなpoorなアラビア語のほうが早いだなんて。愕然。唖然。呆然。の日本語も使わないと、ただただ廃れていくだけで、2時間くらい会話しないと弾丸トークは戻って来ない。

私たちは数え切れないものものに雁字搦めに拘束されていて、己の意識がどこにあるとか、難しいことを言わんでも、環境や外部と私自身とのベクトルのぶつかり具合は考えないと見えなくて、呆けているほうが幸せかどうかはさておき、人間らしいという点では満ち足りた気分にもなれるから、それほど悲観しなくても良い気はする。「適応」という、恐ろしくも心地よい単語はどうでも良いから、どの地面に立っても、スッと背を伸ばして両足で踏みしめていられる、大人になりたいと思う次第。

日本でクリスマスがあんなふうに受け取られていることを批判する人は多いけれど、別に大したことではないと。クリスマスというイベントが毎年やってくる。同じようにやってきて過ぎていく。クリスマスという単語は何に置き換えても結構で、ただそうしてしっかり時が流れ、動いていることを認識できるということが最も大事なことなのだと。また冬が来た、とか、また春が来たとか、大統領選が4年に1度あるとか、祝祭や「遊び」というのは伊達にあるものじゃないと。

祝祭、といえば、アラビア語でعيد(イード)ですが、イード・アル・アドハー(عيد الاضحى)という、イスラム暦(ヒジュラ暦)12月のメッカ巡礼の最終日の10日に行われる動物犠牲の儀礼があるそうで、(私はこれ以上の知識は、今はなく何とも。)語学センターは5日から13日まで休みになるので、6日から15の早朝というスケジュールでインドに行って来ることに。シーズン中なので、航空券は通常より高いけれど、帰りはシーズンを外して来るので、税抜きで片道7KD(=2800円)という驚愕の価格。インドは一度行かねばというお国だし、しかし日本に帰ればもう行けるチャンスはないわけで、まだアラビア語力も十分でないし、たまにはアラブから逃亡するのも悪くないということで。1月中旬から2月末までの冬休みは、カイロのArab West FoundationというシンクタンクっぽいNPOでインターンしたいというお願いをしているところ。通らなければ、また友人を訪ねるアラブ旅行。旅行の許されず、1ヶ月半も軟禁状態に置かれる中国人学生を尻目に手を振るのは、さすがに良心の痛むところではあるけれど、中国に、イスラム圏に、生まれなくて良かったなんて、本音を言ったら、偽悪者を名乗る偽善者から脱出できるとでも?

疎外、なんて聞くと鳥肌の立つ人もいるのかな。でも、その言葉がリアルに聞こえるのは、非正規雇用とかワーキングプアなんていう日本国内のお話ではなくて、ここクウェートに集まるスリランカ人やインド人やフィリピン人にとってのリアリティーなのだと最近特に思う。働けど、働けど、もらえる給料は微々たるもので、母国や母国周辺国よりはましだとしても、果てしなくやりきれない彼らの生活に、多少なりとも救いがあればという傲慢という情け心が、私を挨拶の道化師にするのだろうか。一日で彼らの月給を軽く稼ぐような日本人の「生きる力」のない女が、どんなに笑顔を作っても、その空虚さは彼らにこそ見抜かれるもので、彼らに疎外なんていう古びた単語を宛がうのは、失礼も甚だしいところかも知れない。世の中不公平なのは知っているつもりでも、その「不公平」だとか「不平等」を口にする者の口に、毎食、脂ぎった食い物が入って排出されているならば、それほど滑稽なことはないと、重々承知していても。

写真は、部屋の窓から見える、ちょっと欠けた月と、満月という意味を持つ私の名前、バッドリーヤのキーホルダー。日本の観光地にもよく子供向けにあるような、「まりちゃん」「ようすけくん」というスタンプとかの類です。最近は万葉暴走仮名的名づけも流行って(?)、そろそろそういうのは姿を消すのかも知れませんが、名前の種類がどう考えても、漢字で付ける日本語以上にはならないアラビア語名では、数も少なくてよろしいこと。

インドのロンリープラネットを相方と折半して買ったのだが、2005年版で4800円もした。日本でも最新版は3000円くらいするけれど、中古なら1500円くらいで買えるときもある。日本の歩き方は1800円に大体抑えていて一通りの情報が網羅されているから大したものだと思う。ステレオタイプな日本の迷信を信じるほかない「途上国」の人たちのイメージに反せず日本の住居費食費等(それでもヨーロッパに比べたら)は「高い」と言えるけれど、電化製品も書籍も衣服も、ちゃんとしたものや世界最高水準のものが一番お手ごろな値段で買える国ではないかと思う。

単語帳を作る際に、訳を英語や日本語ではなく、仏語でやったら一石二鳥だ、ついでに独語も・・・と調子に乗って書いてみたら、途方にくれてしまい、よくありがちなことだけれども、全てがどうでもよくなるような、バベルの塔よクソ食らえ、みたいな投げやりやる気沈没。それでも、逃避して、一晩日本語でゲーテの格言集を読んだら翌日には復活した。(・・・という話をアラビア語で書いたので後日up。今先生の添削待ち)偉大だよ、さすがに。

いくつか痺れた格言をば。()内は駄文コメント。

考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。
(静かに、静かに・・・ね。)

人間のあやまちこそ人間を本当に愛すべきものにする。

空気と光と
そして友だちの愛
これだけ残っていたら、
弱りきってしまうな。
(私が弱ってしまうよ、ゲーテ先生。)

生き且つ愛さなければいけない。命も愛も終わりがある。
運命の女神よ、この両者の糸を同時に切ってください。

少年のころは、打ち解けず、反抗的で、
青年のころは、高慢で、御しにくく、
おとなとなっては、実行にはげみ、
老人となっては、気がるで、気まぐれ!
君の墓標にこう記されるであろう。
たしかにそれは人間であったのだ。

人類ですって?そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。

人間であることが許されないことほど腹立たしいことはない。

ほんとにたくさんの矛盾のうなっているところを
私は何よりも好んでさすらう。

ああごくの知ることは、だれでも知りうるのだ。----ぼくの心(ハート)はぼくだけが持っている。

頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!

あけぼのの薄暗いうちにいち早く起き出して、太陽を待ちこがれていたくせに、太陽が上ってくると、目がくらんでしまう人のような気持ちを私は、学問において味わった。
(はい。もう、どうしてって。目を輝かせて研究者になりたい、なんて言える人は別次元の人なの。)

仮説は、建築する前に設けられ、建物が出来上がると取り払われる足場である。足場は作業する人にはなくてはならない。ただ作業する人は足場を建物だと思ってはいけない。
(ゲーテ先生。ありがとう。)

すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。

自分自身をなくしさえせねば
どんな生活を送るもよい。
すべてを失ってもいい、
自分のあるところのものでいつもあれば。

われわれは結局何を目指すべきか。
世の中を知り、これを軽蔑しないことだ。

人は努めている間は迷うものだ。
(生涯、迷い人でありたいです。)

思索なんかする奴は、
枯野原で悪霊にぐるぐる引きまわされている
動物みたいなものです。
そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。

・・・・ここまで。
最後に3回叫んで終わりにしよう。
愚かものめ!愚かものめ!愚かものめ!
・・・・はい、スッキリ。

Wednesday, November 12, 2008

朝焼け
















































この国では滅多に降らないとされている雨がしとしとと降り注ぐ早朝に、ここに来てから一番の朝焼けがお目見えしたので、連写してしまった。先日の授業で、比喩作文の際に、先生が「空が泣いている」なんて、小学校2年生が国語の授業で書いた陳腐な詩のような一文を書いたのだけれど、それでも
さまになってしまうのは、この言語の持つ力か、それとも私がただの学習者だからか。それとも。

この地球に住む60億人(今これで合ってるのかな)で、たったひとつのおてんとさんを使いまわしているわけで、本当に同じおたんとさんなのに、見え方が違うと言う人がいるが、私には同じに見える。違うように見ようとすれば何だって違ってみえるし、その逆もそうなのだと。
石油の炎がね、この湾岸の小国で昼夜問わず燃え続けているときに、そんなのもろともしないようなお日様が、同じ速度で同じ角度で、地球上の人みーんなに降り注ぐんだ。彼(彼女?)はどう思っているんだろうね。

Saturday, November 8, 2008

腐敗







アメリカ大統領選で何が感動的だったかと言えば、変化の「兆し」でもなく、「変化」というよりは、「躍動」なのだと思いついた。それで、私は何に感動したかと言うと、人間が動いていることに、つまりは生きていることに、だったのだと思う。

クウェート人は「お金持ち」だから、クウェートにいるクウェート人男子学生は、(家庭に)お金がないか頭がないかのどちらかである。ずば抜けてお金があればOxbridgeもHarvardも余裕なわけで、それができないということは、残る可能性は余程のおバカだけ。女子は当然(お金があるにも関わらず)親元を離れて異国一人暮らしなどありえないから、当然この、「歴史」も「文化」もない、あるのは石油だけじゃないかと言われたら反論するには相当の論説人が必要であろうこの国で、大事に大事に育てられることとなる。結果、クウェート人男子学生は驚愕的に壊滅的に英語もできず、知性の欠片も感じさせないことに成功するが、女子学生は(比較の問題として)多少は優秀なのが残り、流暢な英語を使い、フスハーでも話せる者も少なくない。

考えてみれば、自分の母国に残っている異性がボンビーかおバカかと相場が決まっているとしたら、これほど悲劇的なことはないわけで、海外留学の好きな韓国を見てみても、外に出たがらない日本人でも何でもいいから、国が潰れるような事態にはまだならないようで、変なところで安心してみたくもなる。

海外旅行や留学中は、日本では絶対に付き合うことのなかったであろうお頭の方々とともに時間を過ごすことになる。私は常に上を見上げて我が脳みその出来の悪さに絶望していたことからも分かるように、自分が賢いだなんて一分一秒たりとも思ったことはない。人間の頭というのは、ほぼ生誕時からその質が決まっていて、その後の人生で申し訳程度でも、頭をcultivate(耕す)したかで程度が決まる。愚かであることは悪いことではなく、その人なりにその人なりの人生を生きれば良いだけで、賢いからと言ってそのこと自体が善であるわけではない。その一分や身分、身の丈を認識し、甘受し、消化して歩んでいけばよい話である。東大にいるときは、周りに比べて、自分が生きるに値しないと思えるくらいに、能無しで、穴がなくても掘って逃亡したいくらい、色々恥をかいてきたが、それがいかに恵まれた環境であったか、思い知らされると、精神衛生上楽しくない。ただでさえ腐っていた自分の頭の腐敗が超速度で進行していくのに立ち会わないといけないし、「頭の程度」で付き合いをセレクトしたがる自分の欲求に、啓蒙的な理性が立ちはだかるのに、いちいち付き合わないといけないからだ。

一目見れば、その人がどの程度のことを普段考えている人か大体想像がつくし、3分話せば、それは確信へと変わる。一日居れば辟易するか、素直に楽しめるか、平伏しているかの大まかには3通りである。しかもこれは、言語は根本的な問題ではない。外国人大学院生が日本語で書いた日本政治思想の論文を、すべての日本人が添削できるわけがないのと同様に、私が表現したいことは英語でもアラビア語でも仏語でも、文法が完全に合っていてもそのそれぞれの全ての話者に理解され、やり取りができるわけではない。そういう目的で外国語を学ぶときは、適切な指導者や練習相手の確保に苦労するし、その内容を把握して欲しいと思えば、戻るところは、一番簡単なのは、今在籍している大学なのだな、と、傍から見れば、かなり意地悪く、性悪発言をしてしまう。もちろん、私が恵まれていたのは、私が在籍している大学の威光と制度によってであって、それを着ぐるみはがされたら、何も残らないどころか、マイナスにさえなる、「ただの人」を凌駕した「社会的害悪」にすらなりかねないのだから、己の問題を棚に挙げるつもりは毛頭ないが、クウェート男1とイラン男3とロシア男女それぞれ1とブルガリア女2と台湾女2と半日BBQにビーチに行ってみた日には、やっぱりそんなあほらしいアクティビティーは実際あほで、それに参加した自分ももっとあほだった、と半ば誇張気味かつ自嘲気味に嘆くしかすることがないのである。

アメリカに1年留学した先輩に、どうでしたか?と訊いて返ってきた答えが、「皆考えていることが高校生みたいで話にならず、ずっと部屋で本を読んでいたよ」に、ものすごく今共感し、ならばアカデメイアに残らない限り、就活でどうせ入ることになる「負け組」的な組織や会社で、こういうフラストレーションを抱えながら生きていかねばならんのかと、それはあんた自意識過剰というものだと突っ込んでみるしか「脳がない」。(「能」と「脳」を同じ音にしたのは神のなせる業か。「能無し」より「脳なし」のほうがすっと響きがいい)

I’m not socialistic, I’m not on the mood, I’m not a out-going person, I’m always at home even in Japan unless I have anything I have to do…なんていちいち嘆く自分が嘘臭くてたまらない。この国にはバカしかおらん、と捨て台詞を吐いて、数本論文を書いちゃうような人がいたら、その人の匂いだけでもかがせてくれたら嬉しいと思う。

留学生の中でも院生を名乗る複数の人に食いつきやすそうな話題を振るのだけれど、悉く釣果は微々たるもので、①彼らに能力・気力がない②私に能力がない③彼らに私と意思疎通可能な、共有言語がない④その逆・・・のどれかが原因。

院に行って研究者になるのは、ずば抜けて煌く頭脳と根気強い粘着力を兼ね備える人だけだと思っていたし、今も思っているのに比べると、海外(特に欧米)では、日本よりもカジュアルに院に行ってしまうのから、という勘繰りはこの辺で。

Nazihの言う’empty state’がこの国家の文化的表層にあてはめていいものか分からないが、日本人は召使いを雇うほどの金銭的余裕があっても、「お手伝いさん」や家政婦は見た!的市原悦子のような「家政婦」を、ごく一部の超越的ハイソな上流家庭が雇うだけで、同国人にとどまり、奴隷的扱い(食事を与えないとか性的虐待をするとか休みを与えないとか)は皆無に近いと(信じたいし)思う。人を奴隷的に使用することに慣れきり、車と家と使用人の数でしか社会的地位を誇示できず、知識や教養や「中身」の重要性は「重要でない」という形容詞が霞んで見えるほど、力を持たない。ステレオタイプ的見方をすれば、日本人は資源のないところに、頭脳労働肉体労働双方を(大まかに言って)自らの手で持って進め、経済発展を遂げたとすれば、ここクウェートは突然降って沸いた石油で、何の努力もなしに、短期間で「近代化」され、その後の社会保障の完全丸抱え状況は(北欧諸国は税金をペイしている分見返りがあるが、ここではone-way(一方通行)にgiven(与えられる)だけである)国家社会主義なんていう生暖かい表現では足りないくらいの、「お世話ぶりであるから、頭が腐るのも致し方ないのかも知れない。

しかし、問題は、中身がないempty stateの中身のなさemptinessの価値判断を、どこまで相対的に踏みとどまるべきか、ということである。私たちはいつまでどこまで相対的にあるべきなのか。それはそれ、これはこれ、と言った瞬間、思考停止。相対主義は生産的ではない?

How much should we be relative? Is it guilty just to state the affairs without any value judgments? The coming of thought to a standstill could be said ‘unproductive’? To begin with, it seems to be prohibited to pursue the rationality or productivity here in this ‘culture’. According to an Islamic culture lecture I have heard in a mosque, a lecturer seemed to criticize its modernization or consumption culture, which can collapse the beliefs of Muslims; however, they seem to remain as mere superficial causes, not as fundamental ones. It is too naïve only to mention and criticize the products and results brought by ‘others’. Why cannot they come up with ideas to force the vector to the inside of them and ‘cultivate’ themselves?

(Warning! This is my mere monologue which is not ready or matured enough in English to be criticized and it still needs a long explanation and backgrounds, hence, please keep your opinions in your mind)


単純労働の人員の過剰さ、外観と体裁第一主義、歪んだ男女関係と宗教的「恥」の観念がもたらす数々の悲劇・・・。この国やこの国に似た(UAEやバーレーンやカタールなどの石油新興国)国の「中身」や「質」の将来を、現地国籍人に代わって憂慮してあげるこの日本人の態度を、厚かましいとも傲慢だとも指摘する能力も気力も態度のなさそうな彼らに対して、留保をつける必要も、謝る必要も、当分は、少なくとも数十年はないかも知れない、と、1ドルが98円とか、1ユーロが125円とかという、旅行する身分にとっては夢のようなレートをたたき出してしまう世相で思うのは、世間知らずもいいところ、ということにしたい。

それにしても、empty stateに比べれば、日本は何だかんだ言って、「骨太の国家」なのだなあとしんみりするのも世間知らず、ということにしよう。

もうひとつ付け加えれば、クウェート大学の学術的、つまり、学生の全体的で平均的な学問レベルは、想像を超えて、死ぬほど低く、易しい。イスラム法とか、イスラムに特化した部分は、他国と比較しようがないから、別として、例えば、英語は、私が中3とか高1にすらすら読んでいたものを、たらたらと読んでいる感じで、理系に至っては私が高1で覚えさせられた周期表をやっとこさやっているといった有様である。政治学を見ても、有斐閣アルマの一番下のランクでさえもびっくりな、高校の倫理政経レベルを超えなさそうな教科書の勢いだし、そもそも図書館はスカスカで(湾岸戦争で全部焼かれた、という言い訳は他への投資を考えたら説得的でないのは明らかである)、資料のコピーは8時~13時にこれまた「使用人」に頼まないとできないという方式で、キャンパスからは16時を過ぎると人はまばらになり、17時を過ぎるとほとんどいないと言っていい。アラブ人は図書館で勉強しないだけだ、家で勉強している、と言う人もいるけれど、ゼミやらないの?資料要らないの?コピーしたいときにしなくて済むほど資料集めしないの?君たちは家でそんなに数多くの種類の各国の新聞や雑誌を採っているの?・・・・・なんでもっと勉強しようと思わないの――――?!

私があの威容で異様で偉容な本郷図書館と比べすぎているのか。日本の普通の大学はクウェート大と大差ないのか?でも、この大学は中東で5本の指に入るという。東アジアで5つ大学をセレクトしてみようよ。東京?京都?北京?精華?ソウル?香港?シンガポール?チュラロンコーン?他にもまだまだアメリカやイギリスの作る大学ランキングに上位に来にくいが、質の高い大学はいっぱいあるよ。

経済的な側面ではもはや説明不可能であるくらいに、クウェートはお金を持っている。大学教育に投資して、有名な教授をお金で呼んで、有名な世界の各大学から奨学金をどっさり出して学生を呼ぶくらいの資金は朝飯前で、emptyな図書館を本で満たすことだって、可能なはずだ。(クウェート国籍を持つ人は勉強しなくても働かなくても享楽的に生きていけるから、その必要がないという理由はひとつあるけれど、私が聞きたいのは、そういう物理的側面ではなしに、メンタリティーの問題として、なぜ?なぜ?ということである)

なんで勉強しないの?という問いは、なぜmore(もっと)やbetter(より良く)を目指さないのか?やはりこの世と比較して、人間は神に比べて無力だから天国を充実して見せるためにも、あ・え・て、この程度にしているとしたら、がむしゃらに頑張る我らより、よっぽど高度で哲学的なテクニックだと思う。

私は訊きたい。勉強に限って訊きたい。勉強しないで得られる「いいこと」(メリット、アドバンテージ)と勉強して得られる「いいこと」を比較することは許されないのか?もっと考えたい、もっと知りたいという欲求は、神の怒りに触れるのだろうか?だから、日本人やアメリカ人(とりあえずアメリカ人としておく。これはイギリス人でも何人でもいい)に天罰が下ったと、あなた方は批判するのか?(昨今の金融危機は神からの天罰だ、みたいな論調は新聞にも少なくない)

在留外国人すべてに課される健康診断で、B型肝炎ウイルスが検出された台湾からの留学生が強制送還された。彼女はもう二度と戻ってこないだろう。fierceだがstrongではない、emptyなstateと言えば、以前見た、ウガンダのアミン大統領の暴政を描いた映画を思い出す。なんとなく面白そうだからという軽薄な動機でスコットランドからやってきたこれまた軽薄な青年が、ずるずるとアミンの手に堕ちていく様子が、かなりfierceに、おどろおどろしく迫ってくるし、今ではよく思い出せないが、植民地主義とかアフリカの暗い部分とか、かなり見る人を選ぶけれども、人によっては相当程度深い考察が導ける秀作だった気がする。その中で、主人公の青年は大統領の第二夫人と通じてしまい、第二夫人は手足首を斬殺されて、惨たらしい死体となって発見されたシーンがあって、これはもちろんアミンがやらせたものだが、ここから言えるのは、いくらfierceと言えども、fierceなことをやっているのは人間であって、巨大で、一人の普通の人間の力ではどうにもすることのできないほどの国家であっても、それは個々の人間の集合なのである。ただ、まだウガンダのほうが、アミンの独裁ということで、意思決定の過程は透明でクリアーだけれど、アラブの論理や、この国インシャアッラーは、どこまで人間の所業を覆い隠すのだろうか、とも憂慮できる。日本はすべての外国人在留者に健康診断を課しているのだろうか?アメリカは例えば移民大国で、そんなことは捌ききれないような気がするのだが。誰か教えてください。

Friday, November 7, 2008

変化


クウェートに在留する人はおそらく誰でも血液検査とレントゲン検査を含む健康診断を受けることになっていて、サバーフ病院という(おそらく)その健康診断専用の、蝿さんがいっぱいいらっしゃったり、血液検査の針の跡が青くいつまでも残るようにしか刺せない看護婦がいたりする病院は、常にインド人やエジプト人で賑わっている。賑わっている、なんていうのはお祭りなんかだけに使いたいものだが、実際、賑わっている。それでも、家族連れも含めて、はるばる人生をかけてやってくるわけだから、何か鬼気迫るものを感じずにはいられない。

この国は、色々な場面で私や私の持つ価値観を概ね共有している人たちからすれば、到底考えられないような、もしくは唖然としてしまうようなルーズさやだらしなさや、「不合理さ」を「魅」せてくれるのだが、その一方で、それとはいかにもアンビバレントに、明らかに矛盾した、どうしても嵌りあうことのない「論理」のようなものが存在する。例えば、この国は証明写真が大好きで、ありとあらゆる書類に要求してくるのだが、その書類と一緒に写真をホチキスでガンガンと止めて穴を自分で開けておいて、次の機会に「この写真はダメだ」などと平気な顔をして言う。まるで意味が分からない。論理的にも客観的にも崩壊している。というか、むしろこれに「理解」とか「共感」した暁には日本を始めとする国々では生きていけないような気がするので、これ以上考えることは止めようと思うのだけれど・・・写真や書類に穴が開くことに注意しないcarelessnessと、次に穴の開いていない写真を要求する生真面目さ(?)がどうしても双方の間で嵌りあわない。もうひとつ分かりやすい例を挙げれば、女性が全身を覆う黒いアバーヤは(人によってだが)床や地面を引きずるようになっていて、先日クウェートでは稀有な雨が日本並みに降ったときにも気にせずに歩くものだから、裾どころか、かなりの部分が泥水に浸かっていて、バスに乗るときなぞ後ろの人にバシャバシャとかかるものなのに、(家にお手伝いさんがいて洗ってくれるからだからか)全く気にする様子がない。髪を長く見せるために頭に色々くっつけて本来の頭の1.5倍とか2倍近くまで膨れ上がっていて、化粧も(もちろん個人差あるが)舞台化粧と銘打っても問題ないくらいに濃いように、外見には負けず劣らず注意を払うのに、アバーヤの下の方がぐちゃぐちゃでも良いらしいのだ。全身を隠すなら靴まで隠せばいいものを(実際そういう人のほうが多い印象はある)、お姫様気分なのか、結婚式のウエディングドレスまではいかなくとも、ずるずると引き摺っている女の子の多いこと。年配の女性は?と訊きたい?移民労働者以外で40代以上のアバーヤを着るような女性は、スーパーとかモスクぐらいにしか出てこないから、そんなに汚れもしない気がする。

その写真を要求される過程で、日本人さえも驚く変貌をこの2年ほどで遂げてしまった私の顔写真と、私本体の顔が、外国人である彼らに照合できないのは、もはや致し方ないことで、怒りも驚きもしないし、この過去についても割り切りができているから、何か感慨を抱く必要すらないのだが、それでもやはり何か考えずにはいられない。写真の中の過去の私と、今ここにいる現在の実物の私が、客観的に一致しないということは、普通に一致してしまう他の人たちと比べて、存在というか、そういうものが揺らいでいるということも考えられる。一つに分かりやすく限定されるより、どこにいるか分からないが、「揺らぎ」の「幅」に可能性があるこちらのほうが、面倒ではあるけれど、「楽しい」かも知れない。

シリアもそうだったけれど、(全世界を調査したわけではないので分からないが)この地域(?)は、スピード出しすぎ防止のために、道路のところどころにストッパー的膨らみがあって、ドライバーはその直前まで(日本と比べると)猛スピードで走りこみ、ブレーキをかけ、よっこいしょと乗り越えると、また兆速で駆けていくのだが、そのためにはもちろん円滑な運転が妨げられるのは必至で、交通渋滞の一因でもないかと勘繰りたくなる。日本と比較しよう。なぜ日本人はストッパーがなくてもスピードを出しすぎないのか?なぜクウェートでの運転手はストッパーがあってもスピードを出しすぎ、交通事故を連発させるのか?なぜイスラム女性の身体を覆わないとイスラム男は性欲を抑えきれない(というか、抑えきれていないから性犯罪が絶えないのだが)のに、日本やその他の非イスラム諸国ではそうしなくても理性が働く(もちろん働かないから犯罪多し。しかしイスラム諸国でもその他の国でもこの手の犯罪の正確な統計を取ることは不可能だから比較はできないし、人間の理性の限界を謳っているのがイスラムでもあるのだけれど)のか?彼らは、死後の天国での暮らしを(比較の問題として)よりbetterなものにするために、この世での生活をあえて(「私たち」の観点から見て)「不合理」なものにしているのかも知れない、などと屁理屈を捏ねれば、意外と彼らはマゾなのか、それとも自分自身で苦しめるわけだから、サディスティックなのか、というただの彼らから見ればおそらく「非合理的な」thinking questionが生まれるだけ。そういう宗教なのだ、と言ったら思考停止だ。そう言うのは、信仰者だけで結構。疑うことと信じること、どちらも忘れてはならないと。人間は無力だ、神の足元にも及ばない、とも、人間は完全で理性的で最も高等な動物だ、とも、extremeに走ることなく、人間を信じたり、疑ったり、愛していくのがバランスが取れているんじゃないかと、アジアの、日本人の私は思うのだけれど。

だから、死んでもWe can changeなんて、イスラム教徒は思わないかというとそういう問題ではなくて、朝一で起きてつけたラジオ(2.75KD=約1000円)から、BBCの第一声がAs you knowで始まったオバマの勝利を伝えてから、私もなんだかそわそわしていたけれど、アフリカ留学生勢力も盛り上がっていた。 世界地図の中でもちっぽけな、石油を産出することくらいしか能のない(?)小さなこの国の寮の一室で、安いラジオから聞こえてくる歓声から、政治学的に難しいことを考えるではなしに、この人間の動きを、時代の変化を、21世紀初頭に感じられたということ。人間は、良くも悪くもちゃんと動いているんだ、という感慨に耽ると、放っておけば泣けそうな気がしてきた。難しいことは言えない。だけど、人間が営んでいる世界を、私はもう少し愛していけると、また思った。民主主義がベストなわけじゃない。人間がそんなに素晴らしいわけじゃない。だけど、こんな愛すべき、憎めない人間を、もう少し信じてもいいんじゃないかと、様々な人の肖像がでかでかと掲げられているこの中東で、どうしても思ってしまうのは誠実じゃないと、誰か言ってくれれば罪が償えるだろうに。


オバマは何も変えないかも知れない。しかし、オバマを選んだということが既に変化なのだ。

宿題で書いた比喩作文。添削済みなので合っているはず。私の使用可能な言語で表記。(This is one of my home works I've done, and I hope these are correct since a teacher has already checked them)

الكتاب مثل ابواب إلى الكون السرور و الحزين
本は喜びと悲しみの世界への扉である。
Books are doors to the world of pleasure and sadness.
Le livre est (comme) la porte au monde de le plaisir et tristesse.

الوطن كالام في تسوية الشخصية
郷土とは人格形成の母である。
The homeland is a mother for foundation of personality.
Le pay natal est la mème pour fondations de personnalité.


الحرب مثل قنبلة الغاضب و الغبي في لامنطفية.

戦争は、その不条理さにおいて、狂気と愚かさの爆発である。
The War is a bombing of madness and stupidity in its absurdity.
La guerre est l'explosion de le folie et l'imbécillité à son absurdité.

Monday, November 3, 2008

Souq Mubarakiya(市場)












クウェートでは、物価は高いか安いかのどちらかで、買い物も高級ショッピングモールか伝統的な昔ながらの市場に(おそらく)限られ、中間というものが存在しないように思う。すっからかんの国家とはここにも言える、などというのは飛躍だろうが。日本の思想界だったら、骨抜き状態に警告、的な議論も出そうな土壌があるけれど、こちらではそうでもないように思えてならないのは傲慢、ということにしておく。
昨日、寮は一人のサウジの女の子の婚約を祝う奇声に包まれた。一度だけのお見合いで決められた相手との結婚に承諾したらしい。結婚したら最後、男側の理由でなければ離婚はほとんど不可能に近い。腐った多くのクウェート男性は風俗にも行くし、浮気もする。「弱くて」「守られるべき」女性は文字通り、「守られた」存在となる。しかし、これが当たり前だと思うから、不幸だとは思わない。「これしかない」「当たり前のこと」からだ。
ほとんどのムスリム女性にとって、家族に守られないでの旅行なぞありえない話。すべてをアバーヤで覆い、目だけ出している人はかなり多く、たまに目さえも隠して、それこそ「すべて」を隠した、確認不能物体と化している女性も多い。人に「見られない」で、どうやって自分を保っていけるのか。一人旅をして色とりどりの感情に渦巻く可能性をどうして見過ごせるだろうか。男性と付き合うということは常に結婚を直に意味する中で、どうやってお互いの人格をかき乱しながら深めることができるだろうか。
書物を通じた知識で共感とか「理解」(というものがあるとすれば)が困難だとしても、現実に彼女らと仲を深めても、ただ「そこにいる・ある」彼女たちを’認める’だけにしかならないような気がする今日この頃。