Sunday, April 26, 2009

応え切れなくて、ごめんね。

Dear readers, I'm flying to Syria on May 3rd, taking off the land of Kuwait at 10:30a.m. The coming article below is the one I submitted to the staff on the embassy to persuade him to allow me to stop the scholarship. I've changed all 「クウェート」to "Kuwait", taking it into consideration those who concern this scholarship and those who are really willing to apply for it this year or after and googling the name of this country in Japanese (It makes no sense when I've already written so many articles using "the term" until now, though)

Anyway, you will see how the things will be going in this last week I will spend. This is the way I've been struggling to get for these two months, but when it really comes to face "the time", I totally don't know what I should think. Wherever I go on the earth, those people will keep living here and there. そういう事実がただ私をひたすら哀しくさせて。方々で温かく見守ってくれた人々の顔を踏み躙って行くことだけはしたくないのに。その思いに応え切れなくて、本当に、ごめんなさい。


目次
1奨学金を中退することについて
 1-1お詫び
 1-2語学センターの現状を「想定内」とする抗弁への留保
   1-2-1グレーゾーンの線引き
   1-2-2予期可能性の限界
 1-3 前提条件に対する結論

2アラビア語の言語の学習自体について
 2-1学習環境の重要性 
   2-1-1語学学習の方法の簡便性の追求
 2-2シリアとKuwait
   2-2-1フスハーと方言(アンミーヤ)、それに関する予期不可能性
   2-2-2 フスハーをより良く学ぶ際の2条件
   2-2-3日本語を懸命に学ぶシリア人の友人の存在
   2-2-4 Kuwait人のリテラシーの低さ
   2-2-5 Kuwaitを始めとする湾岸諸国の教育レベルの低さ
   2-2-6男女間の差異
 2-3小結論

3 Kuwait社会のメンタリティーとの不一致



1.奨学金を中退することについて
1-1お詫び
 この広範囲をカバーするKuwait政府からの奨学金が長年の信頼関係に基づいた先人たちの様々な苦労や努力の結晶であり、自分から応募して、幸運にも選んでいただいた以上、期間半ばで中退を申し上げることは、出資先であるKuwait政府や大学ばかりでなく実際に選考作業に携わられた日本大使館のスタッフの方々への裏切り行為とでも言えるものであり、また過去の留学生の実績やイメージを汚すものでもあり、本来、病気や他の外因的な問題などの「やむを得ない」「合理的な」理由を除いては、甚だ許されることではないことは重々承知しております。

1-2語学センターの現状を「想定内」とする抗弁への留保 
 しかしながら、まず一例として挙げるならば、Kuwait大学ランゲージ・センターが発行している募集要項に添付されたカリキュラムやクラス分け、教員の質保証等には現実との絶対的な齟齬が生じているのは事実であり、いくら自己負担ゼロに近い奨学金が提供されているとはいえ、「タダなのだからある程度の質低下は当然予期されるべきであり、通常甘受すべき程度の損害に含まれる」と言い切ってしまうのには若干の留保があって然るべきと思われます。

1-2-1グレーゾーンの線引き
まず、①前述の通りであれば、「ここまでは許される(=現実とのギャップについて)」という境界線が常に曖昧で流動的であるために、グレーゾーンが存在します。全ての物事に「グレー」な部分は付き物であり、それが人間社会を成立させている一要素とも言えますが、だからこそ、「このグレーは行き過ぎである」という、多数の合意がより得られやすい地点での決着をみて、新たな線引き(=再定義)が常に更新されるものと思われます。今後の日本人留学生の利益等を考える(=私の中退が今後の日本人枠に影響することを危惧して等)のであればなおさら、一般的に考えられるKuwait文化において、再考されることのないに等しいこのグレーゾーンの「線引き」について、半年間在籍した一学生が声を上げ、声を上げるだけでなく実際に結果として明らかになることは、完全に無益なこととも言い難いと考えられます。

1-2-2予期可能性の限界
また、②「予期可能性」(=水掛け論としての、「それくらい予想or事前調査しなかったお前が悪い論」)についても、特に社会や世界を知らない一学生にとっては、一般社会人に通常期待されるそれより、どうしても限界性を帯びてしまいます。Kuwaitという国自体、インターネット等で得られる通り一遍の情報を超えて、アクセスすることが非常に難しく(少なくとも簡単であるとは言えないように思います)、本奨学金自体の内容についても、日本大使館のHP以上の詳細が明らかになるのは、合格後、前年度の奨学生と報告書を通じてでしかありません。スタッフの方に問い合わせることも、もちろん可能だったはずですが、大使館には届きにくい「現実」や「実際」が存在することはままあるように、大部分の学生が見聞き感じることを、メールなどの通信手段でお忙しいスタッフの方からどれだけ伝達可能かということを考えますと、あくまでも予想の域を出ませんが、簡単であっただろうとは申し上げにくいのが正直なところでございます。

1-3 前提条件に対する結論
以上の通り、「全課程を修了する強い意志を持った者の応募を望む」という文言の想定する対象の状態に限界が生じる可能性は少なくとも拭えないことが考えられます。

2アラビア語の言語の学習自体について
2-1学習環境の重要性 
外国語の学習一般について、通常どの言語も独学が可能と言われますし、また自学自習をベースにしなければならないのは言うまでもありません。しかし、だからと言って、これが学習環境の不備を正当化する理由となりうるとするのは早計のように思われます。なぜならば、そもそも語学留学一般の目的は、日本では簡単にはアクセスすることのできない語学環境(話し相手となるネイティヴスピーカーの存在やネイティヴの先生による授業など)に身をおき、学習に集中することこそが第一であり、奨学金によって自己負担が軽減されているとはいえ、自己努力とともに、さらなる学習環境を追求することは、留学生に求められるごく普通の心構えであるとも言えます。

2-1-1語学学習の方法の簡便性の追求
 より良い対象により簡単にアクセスできることで得られるものは、そうでない場合よりも、それ自体の価値が劣るとか、簡単であった分だけその後失われやすいという現象は、語学習得や文化宗教への接触のケースにどれほどあてはまるものでしょうか。確かに、山頂まで徒歩で到達した人とロープーウェイに甘んじた人では、苦労した分だけ当然山頂からの眺めは前者にとってのほうがより印象的であることは大体の場合において大きな間違いではないと言えそうです。しかし、例えば英語話者に囲まれて英語圏の国で思春期を過ごした日本人と、英語話者のほとんど訪れることのない日本の地方で100%近くの割合の日本人と生活した日本人では、後者が前者の英語力を上回るには相当の涙ぐましい努力が必要です。ごくまれに努力の天才、語学の天才と呼ばれるような人物が数万人に数人出現しますが、あくまでも一般的な人々を対象に考えた場合、前者が母語である日本語よりも快適な英語を忘れることのほうが、後者が身につけた英語を忘れることより簡単でその質も低いとは、なかなか言えるものではありません。したがって、語学学習自体の簡便性はむしろ推奨されるべきであり、非難されることは容易ではありません。

2-2シリアとKuwait
 以下、基本的に私が移動先として希望しているシリアのアレッポという都市とKuwaitを比較して参りますが、Kuwaitの人々や社会文化を否定するものでは全くなく、どんな国にも存在する正負の側面全てを受容しております。今回は、アラビア語という言語学習や宗教や社会文化への接触などの通常の「留学」生活において極めて重要な要素であると思われる事柄をそれぞれ照らし合わせることで、ご理解していただくための私の意図の明確化を試みるにすぎません。

2-2-1フスハーと方言(アンミーヤ)、それに関する予期不可能性
まず、言語的側面としてシリア・パレスチナ方言は正則アラビア語であるフスハーに最も近い発音と文法、文構造であると言われていますが、実際アラビア語を勉強し始めてからその重要性を痛感するようになりました。湾岸方言はエジプト方言と同様、フスハーとは全く異なり、外国人フスハー学習者にはほとんど理解することができません。過去に始めてシリア等を旅行した際は、発音の差異が認識できるほどアラビア語自体を勉強していたわけではないので、奨学金の応募の時点で予期することは不可能でした。

2-2-2 フスハーをより良く学ぶ際の2条件
また、フスハーとは、現在ではテレビのニュース番組や書物、一部の講演会などでのみ使用される言語で、これを完全に読み書き話すことができるのは教育をきちんと受けた知識人や教養人にとどまります。したがって、①外国人フスハー学習者がフスハーの会話を練習したい場合にはリテラシーの高いネイティヴスピーカーを相手にすることが第一の条件となります。②また、これは立場を置き換えてみれば容易に推測できることですが、ネイティヴスピーカーにとって、その外国人自身やその文化や言語に興味があるなどして、彼らに時間を割くことに利害の一致を見たりすることができなければ、継続的な交流は非常に困難となります。

2-2-3日本語を懸命に学ぶシリア人の友人の存在
そこで、約2年前にインターネットを通じて知り合い、その後連絡を絶やさず、2008年にも訪問したアレッポ国立大学学術交流日本センターで日本語を真剣に学ぶ(=多くは文部科学省の給費留学生制度に合格するため、必死に勉強していますが、なぜ必死かという点については、シリアの経済状況を鑑みれば分かります)友人らが常に誰かしら待機し、アラビア語と日本語の交換が「常時」行える日本センターは、アラビア語学習者にとってこれ以上ない天国のような環境であることは疑いありません。2009年は10日間ほど滞在した中で、文字通り朝から晩までいずれかの友人らと勉強することができ、充実した留学生活が送れるものと確信いたしました。何物にも代え難い確固たる友情と信頼関係に基づいた言語環境そのものが、今回の動機の最も重要なものです。これが上述の②に当たります。


2-2-4Kuwait人のリテラシーの低さ
しかし、これならば、Kuwait大学の日本語学習者とも交流が持てないわけではなく、それこそ努力次第ではないかと思われますが、ここに前段落に負けず劣らず重要な観点があります。日本語を学習しているKuwait人学生もフスハーを話すことができますし、もちろんニュースや新聞を読むことはできます。しかしながら、新出単語を訊いてノートに書き留めてもらうなどすると、きちんと正確な綴りが書けない人が少なくないのが現実です。上述の①にあてはめますと、リテラシーが低い、ということになります。もちろん、全ての人にあてはまるわけではありませんし、読み書きの正確にできる学生と交流すればよいとも思われますが、交流相手は多ければ多いほうが良いのは自明のことですし、いくら利害が一致しているとはいえ、機会を作って、「会いに」出掛けなければ会うこともままならないKuwaitにおいては(→モビリティーについては後述)、言い方は下世話になりますが、交流相手の「ストック」はある程度多く確保しておかなければ尽きてしまうからです。

2-2-5Kuwaitを始めとする湾岸諸国の教育レベルの低さ
Kuwait大学が大学として国際的に公式に認知されているのはわずかにいくつかの学部だけという現状を指摘するまでもなく、俗に言って「勉強しなくても食べていける」湾岸諸国の教育レベルは、他のアラブ諸国から軽蔑されるほどに低く、したがって、モラルや教養に欠けた言動を取る者は少なくありません。また、言語というものはhow to speak(どのように話すか)よりもwhat to speak(何を話すか)が重要なのは言うまでもありませんが、アカデミックな話題を、冷静に感情的にならず、できるだけ客観的な視点から共有することができるという、最低限教養人として求められる振る舞いを満足に行える学生と出会うのは非常に難しく、また彼らが私の下手なアラビア語に付き合うに足る利益を得られるかという二重三重のハードルをクリアするのは、途方もなく困難なことであります。

2-2-6男女間の差異
さらに、Kuwaitでは異性の友人を作ることが大変難しく、例えできたとしても、一対一や自分ひとり対複数のアラブ人男性、または自分+1人か2人の女の友人対複数のアラブ人男性という形で会うことは不可能に近いか、できるだけ避けるべきとされています。ところが、万国共通の性質として、①人間は異性に甘く同性に厳しいということが挙げられます。外国人の下手なアラビア語に辛抱強く付き合うことがより可能なのは、一般的にまた平均的に女に対しては男です。若干余談になりますが、女同士の人間関係のほうが、本来気にしなくてもよい事柄にまで神経を遣わなければならず非常に厄介であるとも言えます。②万国共通の2点目として、余談に関連しますが、センスィティヴな問題について(例えば政治や宗教の問題)語るとき、女はその問題に自分たちの人間関係を持ち込みがちです。言い換えれば、相手の顔色ばかり伺って、言いたいことが必ずしも言えるわけではないということです。③最後に、特にKuwaitでは、女子学生は両親の許可や庇護なしには外出することが困難で、また男子学生と比べても自動車を運転する者は少なく、必然的に会うことが大学以外では難しくなります。(シリアでは安価な公共交通機関が充実していることと、庶民にとって自動車は未だに高嶺の花であることから、この点については問題がありません=モビリティーが高いということです)①、②、③から、結果として、アラビア語の練習相手としても、その他の異文化理解を深める目的としても、実用的な観点からも、女子より男子のほうが(俗な言い方をすれば)「便利」ということになります。

2-3小結論
以上から、全ての要件を一挙に満たすことのできるアレッポの学生と、Kuwaitの学生を比較して、前者に旗を上げることは、アラビア語を熱心に勉強しようとし、また社会文化についてもより理解しようと努めるからこその、極めて自然な結果であり、決して安易な「心変わり」ではなく、むしろ、私が奨学金応募当初から求めているものは不変であることを、どうかご理解いただければと切に祈ります。

3 Kuwait社会のメンタリティーとの問題
曲がりなりにも半年間Kuwaitで生活し、この国の様々な面を含めて愛着さえ感じることさえできますが、郷に従いながら慣れてきていた中で1ヵ月半旅行に出て帰ってくると、本来あったはずの感受性や違和感が社会へのアタッチメントと引き換えに失われていたことに気づき、「郷に従う」ということは必ずしも無批判的に社会に埋没することを意味しないことを再確認するようになりました。KuwaitをKuwaitたらしめているものは、他の湾岸諸国との間でももちろん明確な差異として存在するほど、社会として多くの点で非常に「ユニーク」ではありますし、例えば研究材料としても色々な意味で話題を欠きませんが、そのひとつとして、外国人労働者とKUwait人との関係や政府のKuwait人に対する経済的法的な支援などの背景から醸成されるKuwait人のメンタリティーに、個人的な意見として、慣れきってしまうことの危険性を痛感して以降、多くのKuwait人の言動の端々に浮かび上がる事柄に対して精神衛生上の安寧が得られにくくなりました。個人の経済的観念は個人のすべての振る舞いを含めた人格形成や思考に強く影響を及ぼすことを考えると、お互いを尊敬、尊重し合うという深い友情成立の条件がどうしても乗り越えられないという壁にどうしても突き当たってしまいます。当然、彼らを通じて全てを学ぶなら、それはアラビア語と深く関わってくるイスラム教という宗教というものへの見方をも、他と比較するという意味で、非常に限定されてくるのは否めません。

国や社会文化、人々自体に優劣はもちろんありません。どちらの国が素晴らしくて、どちらがダメだという話をしているわけでもありません。それぞれに内在する多様性は無視してはならないもので、私がその多くを見逃しているどころか、まだ何物にも出会えていないという可能性は永遠に残ります。ただ、アラビア語という言語や、イスラム教という宗教により近づくためにどちらがより適しているか、という判断基準は多くのアラビア語学習者がシリアかエジプトに留学しているという現実を鑑みれば、存在してしかるべきと思われます。いくら事前に情報収集に勤しんでも、実際やってみないと見えてこないことは本当に数多くあります。

他の国を見てきて、そちらの方が良かったから、そちらに乗り替えるという単純な図式ではありません。例えば、過剰までの数の生気のない顔をした単純労働者なしには成り立たない社会生活を作り上げてしまった上でその上に胡坐をかく姿勢や、大量消費や“無駄遣い”がすべて文化やオイル収益によって正当化もしくは美名化される風潮の中で、外国人としてある一定の限界ラインを、精神衛生を損なうことなしに保持することは容易いことではありませんが、ならば放棄せよという命題は、異文化に接する者の精神性(対象に埋没せず、しかし愛を持って見つめる。親Kuwaitではなしに反Kuwaitでもなく知Kuwaitという姿勢)に欠きます。例えばシリアなどのアラブ諸国と比較して、「清貧」の思想などどこかへ行ってしまったKuwaitの社会の中で、異なるものものへの自らが理想とする「眼差し」を保持し続けられるほど、私自身が十分でなかった、至らなかった、という意味です。したがって浮世離れした豪勢な食事とシェラトンホテル4連泊は、私の身の丈には相応ではないし、趣旨としても相応しくないという意味で、この文脈において、また数人の日本語学習者との交流も、様々な点で今回の決意を新たにさせるのにかえって十分であったと言えます。

最後まで長文駄文をお読みくださったこと大変感謝いたします。どうかご理解くださることをお祈りして筆をおかせていただきます。

Monday, April 13, 2009

最近分かったこと




もともと内容がないようなこのブログも、私の脳機能の低下とともにすっからかんになってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

こんなにアラビア語に集中するつもりはなかったんです。日本から持ってきた本をもっと読まなければいけなかった。それでも、ふとたまに気がついて、こうして徒然しているのですが、それ以外(寝る食う移動する付き合う以外)はアラビア語のことしか考えていない。

最近わかったこと。私はそんなに賢いわけではないが、思っていたほど馬鹿でもないらしいということ。日本という国はどうしようもない国のひとつでもあるが、思っていたほど手がつけられないわけではないらしいということ。前者はおそらく日本に帰って総合図書館の机にでも座った瞬間訂正されそうではありますが、後者については、なんだかんだ言って日本はそこそこいい国で、私も嫌いではない、というか、やはり日本人ですから、好きというか、少なくとも、ハチャメチャに荒廃するのは見たくない、そのためには歯車でも何でもなりますよ(結果的にそれが他の国の他の人にとってマイナスだったとしても)という、とりあえずのパブリックマインドとかノブリスオブリージュみたいなものを持っていることをもう否定しなくてもいいかな、と。あとは、想定外に入れ込んでしまったアラビア語をどうにか何かに繋げられないかな、という自己利益の観点も踏まえて、いいところに落ち着くお仕事があればいいですね、という感じですね。

自分より勉強や仕事ができて性格も良くて綺麗な子はゴマンといる中で、己の存在価値なんてどう弁護してもないわけですが、今まではこれについてグジグジ言ってきたけれど、もういいや。価値ない。ええ、価値ない。でも、生きちゃってるから仕方ない。それなりに他人と交差して、飯食って生きていくしかない。そうです。

クウェートの新聞は、英字アラビア語ともにレベルが高くない。これは自明のものとなりました。ゆえに、面白い部分もあり。

(写真下)たとえば、外交辞令ですが、ベルギーとクウェートにそんな共通点があったら、日本とナイジェリアは似たようなもんですね、世界は皆同じですね、と言っているようなもので(まあ、極論言ってしまえばそうでしょうが)。

(写真上)ブッシュ夫人の隣にいる人。大多数の非イスラム圏の人間が見たら、間違いなく戦慄。慄きますわな。漸く慣れては来たけれど、この手の人とは会話無理。ニカーブが限度。この記事をデジカメで撮るときにも、ブッシュ夫人の顔しか、私のカメラは顔認識しなかった。当然ですが。「覆うこと」についての研究は仰山あって、私が云々するまでもないのだけれど、実感として、あれで一生送るのは正直しんどい。一億もらっても無理。会話も含めた社会生活が限られた枠内でしか成立しない。ムスリム女性は仕事での社会貢献とか自己実現なんて考えるまでもないだろうけれど、真っ黒の彼女がめっちゃデキる人間で、教授とかになっても、学生としてはあれで講義されてはたまらん。外交官になって外交できるのかいな。営業とかどうやってやるんでしょう。私から彼女へのベクトルが、すべてそこで遮断される。真っ黒に、彼女自身も社会からの存在を抹殺して欲しいと願っている(自発的に覆っているなら)。少なくとも、フィトナ的文脈では確かにそうだ。見られなくない。でも、確かに、彼女はそこに物理的に存在しているはずで、欠落はしていない。こそこそとアバヤ的人種の女性とのみ話して。それで絶望せずに生きていける彼女の精神性が余計に彼女を存在ならしめてしまう。閉じているはずなのに、強烈に猛烈に強固に主張して。私はここにいるのだぞ!お前ら見るでないぞ!

ちなみに、あれで周囲が見えるんだろうか、と多くの方は疑問を抱くでしょう。見えていません。少なくとも、我々の多くが見ているようには見えていません。ショッピングモールで、布を持ち上げながら服を選んでいる人を見ました。

パキスタン、アフガニスタンでは目の部分の布がメッシュになっているようですが。日焼け防止には最適ですわな。UV加工してあるのかどうか知らないけど。アンマンで買ったコピーDVDの「Osama」を鑑賞。クウェート人じゃなくて良かったと思うことも多々あれど、アフガンに生まれなくて本当に良かった・・・としか思えない。