Friday, November 7, 2008

変化


クウェートに在留する人はおそらく誰でも血液検査とレントゲン検査を含む健康診断を受けることになっていて、サバーフ病院という(おそらく)その健康診断専用の、蝿さんがいっぱいいらっしゃったり、血液検査の針の跡が青くいつまでも残るようにしか刺せない看護婦がいたりする病院は、常にインド人やエジプト人で賑わっている。賑わっている、なんていうのはお祭りなんかだけに使いたいものだが、実際、賑わっている。それでも、家族連れも含めて、はるばる人生をかけてやってくるわけだから、何か鬼気迫るものを感じずにはいられない。

この国は、色々な場面で私や私の持つ価値観を概ね共有している人たちからすれば、到底考えられないような、もしくは唖然としてしまうようなルーズさやだらしなさや、「不合理さ」を「魅」せてくれるのだが、その一方で、それとはいかにもアンビバレントに、明らかに矛盾した、どうしても嵌りあうことのない「論理」のようなものが存在する。例えば、この国は証明写真が大好きで、ありとあらゆる書類に要求してくるのだが、その書類と一緒に写真をホチキスでガンガンと止めて穴を自分で開けておいて、次の機会に「この写真はダメだ」などと平気な顔をして言う。まるで意味が分からない。論理的にも客観的にも崩壊している。というか、むしろこれに「理解」とか「共感」した暁には日本を始めとする国々では生きていけないような気がするので、これ以上考えることは止めようと思うのだけれど・・・写真や書類に穴が開くことに注意しないcarelessnessと、次に穴の開いていない写真を要求する生真面目さ(?)がどうしても双方の間で嵌りあわない。もうひとつ分かりやすい例を挙げれば、女性が全身を覆う黒いアバーヤは(人によってだが)床や地面を引きずるようになっていて、先日クウェートでは稀有な雨が日本並みに降ったときにも気にせずに歩くものだから、裾どころか、かなりの部分が泥水に浸かっていて、バスに乗るときなぞ後ろの人にバシャバシャとかかるものなのに、(家にお手伝いさんがいて洗ってくれるからだからか)全く気にする様子がない。髪を長く見せるために頭に色々くっつけて本来の頭の1.5倍とか2倍近くまで膨れ上がっていて、化粧も(もちろん個人差あるが)舞台化粧と銘打っても問題ないくらいに濃いように、外見には負けず劣らず注意を払うのに、アバーヤの下の方がぐちゃぐちゃでも良いらしいのだ。全身を隠すなら靴まで隠せばいいものを(実際そういう人のほうが多い印象はある)、お姫様気分なのか、結婚式のウエディングドレスまではいかなくとも、ずるずると引き摺っている女の子の多いこと。年配の女性は?と訊きたい?移民労働者以外で40代以上のアバーヤを着るような女性は、スーパーとかモスクぐらいにしか出てこないから、そんなに汚れもしない気がする。

その写真を要求される過程で、日本人さえも驚く変貌をこの2年ほどで遂げてしまった私の顔写真と、私本体の顔が、外国人である彼らに照合できないのは、もはや致し方ないことで、怒りも驚きもしないし、この過去についても割り切りができているから、何か感慨を抱く必要すらないのだが、それでもやはり何か考えずにはいられない。写真の中の過去の私と、今ここにいる現在の実物の私が、客観的に一致しないということは、普通に一致してしまう他の人たちと比べて、存在というか、そういうものが揺らいでいるということも考えられる。一つに分かりやすく限定されるより、どこにいるか分からないが、「揺らぎ」の「幅」に可能性があるこちらのほうが、面倒ではあるけれど、「楽しい」かも知れない。

シリアもそうだったけれど、(全世界を調査したわけではないので分からないが)この地域(?)は、スピード出しすぎ防止のために、道路のところどころにストッパー的膨らみがあって、ドライバーはその直前まで(日本と比べると)猛スピードで走りこみ、ブレーキをかけ、よっこいしょと乗り越えると、また兆速で駆けていくのだが、そのためにはもちろん円滑な運転が妨げられるのは必至で、交通渋滞の一因でもないかと勘繰りたくなる。日本と比較しよう。なぜ日本人はストッパーがなくてもスピードを出しすぎないのか?なぜクウェートでの運転手はストッパーがあってもスピードを出しすぎ、交通事故を連発させるのか?なぜイスラム女性の身体を覆わないとイスラム男は性欲を抑えきれない(というか、抑えきれていないから性犯罪が絶えないのだが)のに、日本やその他の非イスラム諸国ではそうしなくても理性が働く(もちろん働かないから犯罪多し。しかしイスラム諸国でもその他の国でもこの手の犯罪の正確な統計を取ることは不可能だから比較はできないし、人間の理性の限界を謳っているのがイスラムでもあるのだけれど)のか?彼らは、死後の天国での暮らしを(比較の問題として)よりbetterなものにするために、この世での生活をあえて(「私たち」の観点から見て)「不合理」なものにしているのかも知れない、などと屁理屈を捏ねれば、意外と彼らはマゾなのか、それとも自分自身で苦しめるわけだから、サディスティックなのか、というただの彼らから見ればおそらく「非合理的な」thinking questionが生まれるだけ。そういう宗教なのだ、と言ったら思考停止だ。そう言うのは、信仰者だけで結構。疑うことと信じること、どちらも忘れてはならないと。人間は無力だ、神の足元にも及ばない、とも、人間は完全で理性的で最も高等な動物だ、とも、extremeに走ることなく、人間を信じたり、疑ったり、愛していくのがバランスが取れているんじゃないかと、アジアの、日本人の私は思うのだけれど。

だから、死んでもWe can changeなんて、イスラム教徒は思わないかというとそういう問題ではなくて、朝一で起きてつけたラジオ(2.75KD=約1000円)から、BBCの第一声がAs you knowで始まったオバマの勝利を伝えてから、私もなんだかそわそわしていたけれど、アフリカ留学生勢力も盛り上がっていた。 世界地図の中でもちっぽけな、石油を産出することくらいしか能のない(?)小さなこの国の寮の一室で、安いラジオから聞こえてくる歓声から、政治学的に難しいことを考えるではなしに、この人間の動きを、時代の変化を、21世紀初頭に感じられたということ。人間は、良くも悪くもちゃんと動いているんだ、という感慨に耽ると、放っておけば泣けそうな気がしてきた。難しいことは言えない。だけど、人間が営んでいる世界を、私はもう少し愛していけると、また思った。民主主義がベストなわけじゃない。人間がそんなに素晴らしいわけじゃない。だけど、こんな愛すべき、憎めない人間を、もう少し信じてもいいんじゃないかと、様々な人の肖像がでかでかと掲げられているこの中東で、どうしても思ってしまうのは誠実じゃないと、誰か言ってくれれば罪が償えるだろうに。


オバマは何も変えないかも知れない。しかし、オバマを選んだということが既に変化なのだ。

宿題で書いた比喩作文。添削済みなので合っているはず。私の使用可能な言語で表記。(This is one of my home works I've done, and I hope these are correct since a teacher has already checked them)

الكتاب مثل ابواب إلى الكون السرور و الحزين
本は喜びと悲しみの世界への扉である。
Books are doors to the world of pleasure and sadness.
Le livre est (comme) la porte au monde de le plaisir et tristesse.

الوطن كالام في تسوية الشخصية
郷土とは人格形成の母である。
The homeland is a mother for foundation of personality.
Le pay natal est la mème pour fondations de personnalité.


الحرب مثل قنبلة الغاضب و الغبي في لامنطفية.

戦争は、その不条理さにおいて、狂気と愚かさの爆発である。
The War is a bombing of madness and stupidity in its absurdity.
La guerre est l'explosion de le folie et l'imbécillité à son absurdité.

2 comments:

Anonymous said...

There is a black man with all-white secretaries and white crew in the White House; I fear, nothing is going to be changed. We'll see, hopefully. -Kerim.

soissoimeme said...

Let me praise your sense of humour as always. The man also wants to be whiter, according to his photo on his web site. It can't be helped.