Thursday, March 18, 2010

それだけこれだけあれだけどれだけ

個人的に日曜から今日に至る現実逃避スパイラルにこれ以上嵌って合理的なことはないので、そろそろこの辺で打ち切りたいと思っている。ESなんて私はこのブログをもう少し他人に伝わりやすく変調したテンポでやっているので、就活本のES例ごときものが本当にわんさか集まるのだとしたら、私のは人事も驚愕衝撃で切り捨てるか、ツボに嵌ってくれるか(こちらの可能性はビールのアルコール度数くらいか)で、とりあえず書類が通るというのは自分の所属している大学名に思いっきり感謝だ。私のように人間的魅力のないヤツほど、学歴とか権威にはぶら下がっていたほうが身のため。

何をスパイラルの要素としていたかというと、12年前のドラマ「ガラスの仮面」で、紫のバラの人が所謂おかずかね。人間は他者からの存在承認があったほうが楽に生きられるわけで、昨今のブログとかtwitterめいたものは、言うまでもないがそういう欲求の表出的な要素が多分にあるわけだ。紫のバラの花束に「いつもあなたを見ています あなたのファンより」というカード付きで、折々にグッドタイミングで手元に届いいたら生きる意欲も湧くというもの(ただし、イケメンに限る?)。でもmixiとかtwitterで他人に強制的に雨よ霰よと「つぶやき」を浴びせることに慣れると、私みたいな孤独な人間は「もうひとつの非正規の(容易でない)ルート」をまた探すことになり、かえって居場所を失う。紫のバラの人は、「不可視でオルタナティブの存在を示唆し続ける+only meの全肯定」だから魅惑的なのだ。facebookも含めて利点はあるからある程度は利用するが、そこにあるのは繋がりを求める掃出しの欲求の渦の絡まりと言い切るのは第一段階で、第二段階は既述のようにそこからの「次」を求めざるを得ない人種、あるいはそこから消極的にはみ出て「次」さえも求める気力を失った人種が肝だ。

140字というのは、言葉を際立たせ鋭敏にするか、惰性となるかのどちらかで、「わかりやすさ」とか「手軽さ」、「合理性」だの「だだ流し」を活性化させる要素が、生き馬の目をかえって抜きにくくするのだろう。一方で限定性というものが、無限の可能性を生む逆説も健在で、就活の話に戻せば、私はその可能性に賭けているのだとも言える。

要は、私にも紫のバラの人いないかなーという俗な少女漫画根性でしかない。脱線だけど、無料の婚活サイトに登録したら40過ぎの(しかも低スペック)おっさんばっかり申し込んで来て、やっぱりな感満載。40過ぎて今22の知らない子にアプローチって哀しすぎる。

昨今、非常に健康状態が良好で、申し訳なささえ覚える。何の苦労も挫折もなしにここまでのんべんだらりと人生を延長し続けてきて、客観的な困難の一つや二つ常時抱えていなきゃ、ミネルヴァの梟も飛び立てないっていうか、お仕事ないってとこだ。理不尽で不条理な苦難や不幸こそが人間を鍛える。電車の席には限りがあって、自分には座る資格がないと思って席を立てば、他の誰かが自分の代わりに幸せになれる。ただ、幸せという概念は非常に個人的だけれども、エゴと表裏一体の自己犠牲の精神で、幸福の席に限りがあるという前提で席を譲ることで救われる人種も確かにいる。悲劇のヒーローないしヒロインを気取るまでもなく、その他の自己努力が正当化されるならば、席の一つや二つ金を払ってでも譲りたいところだ。幸福から学ぶものは少ない。特に、頭の悪い者にとっては、ね。

要は・・・、たなせいがかっこいいし、頭いいし、寧々もまた別の意味で頭良かったなあ、という。それだけです。