Saturday, May 30, 2009

ブーメラン

5月30日
1ヶ月近くも放置してしまいました。見に来て下さった方、すみません。便りのないのが良い便り、ということで、お願いします。

さて、シリアですが、「理想郷」をできるなりに愉しんでいます。クウェートと比べるほうが間違いなのですが、全てが違いすぎて、で、何々が違います、これがこうです云々とだだ並べてもそれほど意味のあることのようには思えないので、全然違いますよ、本当にアレッポは素敵なところですよ、くらいに留めておきます。

日本は今どんな感じなんでしょうか。5月の終わりというと、授業も調子がでてきて、さすがにこの時期まで1回も出てないっていうのはまずいかしらという頃でしょうか。国Ⅰも終わって。就活も大体終わり、と。完全に浦島花子です。なんで最近街中で「コーリアシャマリーア!(=アラビア語で北朝鮮の意)」と呼ばれるようになったのかしらと思ったら、教養のない人でもその存在を知るくらいに北朝鮮のニュースがテレビで出ていると。あまりにも違う世界にいすぎて、ニュースをチェックする気概が起きない。クウェートはまだそういう意味で(情報マスメディアとか表現の自由とか、つまり、このブログがブロックされていないとか(笑))世界に組み込まれていましたが。まあ、4ヶ月くらいそういう生活が人生にあってもいいでしょう。

ああ、1年近く経とうとしていて(8ヶ月が終了)、さすがに現実に戻らなきゃな、戻りたいなという意識が。いい休養になりました。もう少しで22です。腹が据わってきた。「時間が解決する」という言い方はそんなに好きじゃないけど、時間の経過ってそこそこ大事なんですね。日本に帰ったら、ああこの1年私は何やってきたのかしら、日本で誰も喋らない言語が多少できるようになって、日本でほとんどいないアラブとかイスラームの文化に浸ってきて、頭腐らせて、歳だけ食って、皆進路決めて・・・あーあ、的気分になることはあると思うんだけれど(いや、もう本当に。自分の部屋に戻って、1年前と同じ(汚い)状況で本当に1年も経ったんだろうか、って絶対思うでしょう。本当に浦島ですよ、ああ恐い恐い)、兎にも角にも時間が必要だった。器用には生きられなかった。

帰国後即忘れるであろう言語。更に鈍った頭。食ったのは歳と、得たのは体重と。故郷は変わり果て、親祖父母は老い・・・最悪ですね。それでも1年経った。1年生きた。何かあるでしょう。少なくとも、そういうことにしておかないと。

はい、内容のないような文章をまた書いてしまいました。とりあえず近況報告ということで。

5月11日

アラブやイスラム(ここでは双方が重なる地域について)がかつての隆盛に比して没落(あるいは他地域と相対的に比較したときに測られ得る数値等で「低い」ことを「劣っている」と言えるとしたら)しているのはなぜか、方々で喧々諤々の議論がなされてきたから、別にもう付け加える必要もないのだが、今日やや久しぶりに頭に来た(怒りを覚えた、という一般的な意味はさておき、頭に「考え」が上った、呼び起こされたという意味で)のでストレス発散に書く。

本日、アラビア文字より日本語の文字のほうが簡単と言ってのけた、本当に「いい」友達。(皮肉でもなんでもなくて、彼が一番最初の「ゲート」だったこともあり)文法とか発音の話ではない。文字の話。もう2年か3年も日本語をやっていて、その奥深さを知らない。もしくは、異文化の奥深さへの敬意に欠ける。常に、イスラム・アラブ文化が一番で優越しているという意執はないのか。日本語をべらべらに操れて、自分のアラビア語能力を遥かに凌駕し、古代からの日本中国の書道の全分野を究めてしまったなら私にどうこう言う資格はもちろんない。どの言語も文化も一人の人間が一生の間で理解し愉しむには奥が深すぎる。人間の知の累積。この自分が世界を知っているなんて言う気は毛頭ない。自分だって死ぬまで永遠に井の中の蛙である。その自覚の程度に不足はあるだろう。しかし自覚をしようという自覚はある。ゼロでは、ない。・・・ああ、アラビア語の良い辞書がないのは、アラビア語を母語とする奴らの怠慢でしかない。和英英和辞書の編纂の指揮は、日本人が執る。仏英英仏でも独英英独でも中英英中でもなんでもいいが、今、世界で一番使われている言語が英語だとしたら、その英語という言語に対する各国語の辞書の整備を行うのは、それを母語話者程度に操る能力のある者の責任だ。


自文化の優越性なんて、よくも主張できたもんだ。何も知らないくせに、よくも(知らないからこそ、か)その無知をばら撒けるもんだ。イスラーム学以外の学問の貧困。自文化中心主義、エスノセントリズムとやらを、中学の社会で習ったときは、今時そんなんを地で行く奴らがおるものか、教科書的に説明しているだけだろうと高をくくっていたのは間違いだった。「日本人が外国語を話せないのは日本語が簡単だからですよね?」お前、日本語操ってからその言葉吐いてみろ。理由のひとつにそれはあるのかも知れない。私は言語学者ではないから知らない。内容の正誤を問うているのではない。なんだ、その傲慢な態度は?どこから出てくるんだ、その自信は?そんなんだから、お前らいつまで経っても空っぽなんだ。・・・ここまでの言葉、全部己に向けて書いています。ええ、もちろん、このブログの主旨ですから。通称、ブーメラン自虐。


アラブ人がよく言う言い方に、What do you know about ---?というのがある。---にはイスラームでもなんでも入れてくれて構わない。彼らは英語でもアラビア語でもなんでもこうやって聞く。イスラームについて何を知っていますか?と聞かれたら、何って・・・とりあえず、中級入門書に書かれてあるくらいのことは知識として頭に入っているつもりだけど・・・何、私はこれを知っています、あれを知っていますと挙げればいいのか?「知る」ことの重みに耐え切れずに逃避するような人間だから、私は、「知っているかと言われると・・・偉そうに何か知っているわけでは・・・まあ、何も知らないと言えば知らないうちに入るのかな。」と。知ってるよ、もちろん、彼らの基準の「知る」はこんなに高度なことじゃない。・・・それでも私は、私は母語である日本語でさえも満足に操れない、英語はおろか、ましてや仏語もアラビア語も凄惨たるものである、専門なんて言葉使えるほど知識はない・・・と言い続ける。


この異常なまでの謙遜はどこから?すべて、裏返し。最近日本とか日本語とか日本文化の「相対的な」魅力に(一度母国を長期間出た者に「よくありがち」な、従って、私もその「よくある」人々のうちのひとりでしかない、ええ、ええ)ため息をつかせる身の、内側の毒々しい獣。よく道徳の教科書にあるような「自分を大切に出来ない者は他者を大切にすることなどできない」という言葉は嘘であろうか。自分が大切で、大切で、可愛くてならないのだ。自分だけが一番なのだ。このどうしようもないプライドの塊が、本当に他者を見据えることなどできようか。おそらく、道徳の教科書の言う「自分を大切にする」ということの意味は、違うのであって、本当に私は自分を「大切」になどしていないのだろう。やはり、道徳の教科書は正しいのだ。ここでまた、私は「人間失格」と嘯くのだ。本当にそう思っているのならとっくに自殺しておるわ。「失格」だとわざわざ声に出しながらも、いけしゃあしゃあと生きる己のおぞましさにいちいち付き合わなければならないほど、アラブ人の話し方は(人間は社会的な動物だから、コミュニケーションが命)、熱っぽく、直球で、相手の存在を本当に認めているように思わせるほど熱いのだ。だから、アラブ国家のemptiness理論の実践現場に出会うほど、emptyであることに何の疑いも持たない彼らの人間的なつながり、人間力に、emptyでしかたがないと渦巻く己の嫌らしさに立ち会わなければならない。泣いてもいいかな、と思えるほど、このアレッポの街は本当に美しく、シリアは神によって守られている、というシリアによくある文句も、それを妨害するどころか、まるで逆の仕事をしてくれるのだ。

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