Thursday, March 5, 2009

友よ、北の空へ

友は北の空の下にいる。たしか、そういう合唱曲があった。涙の出るようなこの愛おしさを如何せん。人は私を盲目と言うかも知れないが、砂上の楼閣(=ショッピングモール)を背に、緑潤う、果てしなく温かい人々の待つあの街へ、いざ旅立たんために目下奮闘中。詳細は状況確定後。

旅行から帰ってきただけで正体不明の微熱が数日間続き、故郷(=シリア)への恋慕も手伝って、何しろ色々な意味でエネルギーの要する国を回りましたから(イスラエルのスタンプ等。しかし問題なく別紙に押印可)頭も使って(これでも)知恵熱かも知れません。以下、火照った頭で書いたもの。

最近とみに歳をとったと感ずる。何を見聞きしても感受性の毛穴は緩みっぱなしで、大志も抱けず、つくのはため息と息切ればかり。人間が、小さい。無難に、無難に。世界とはこんなものだ、と。それでも肝心なところは大人(=社会人)に全くなれていないのだから困ったものなのだろうが、精神的に面倒なことは放置したい主義に拍車が掛かれば、もはや異なる者は周囲から姿を消し、不感症の瞳を彷徨わせて、のんべんだらりと無期限延長を重ねて。ああ、いじらしい。それでも涙は出てくる。子どもみたいだ、と笑いながら、もう少し、素直に葛藤できたら嬉しいと思う。・・・ふん、何を、偉そうに。

私は知っている。暗黒の始まり方を。部屋の片隅で膝を抱えて、闇がやって来るのを、あの足音に耳を欹てて。しかし私には何も怯えるものはない、と言い切ってみようか。successfulに生きようなんて考えなければ、怪物に、モンスターに、怪獣になっても、外部に理由を求めることなく、己の脚で立っていられる強さを、得る手がかりを、私はこの数年間でちっとは学んだはずなのよ。神が私に与えた試練に乗り越えられないものはない、と一神教の人々は理由付ける。まさか。試練を乗り越えているわけじゃないよ。ただただ、じっとそれに対峙して、耐えて、死んでいく人間のなんと多いことか。“乗り越える”人も中にはもちろんいるだろうが、大抵はただ受容して、自分の人生として、それらと付き合って生きていっているはずだ。その態度を「乗り越える」と呼ぶのだったら構わないが。神に理由付けて逃げることだけはできない。・・・なんて、臆病ものの戯言なんだろう。

4 comments:

Anonymous said...

haha :D - Kerim.

soissoimeme said...

You must have understood what he said in Japanese!

hnnvansier said...

Yep, i did. by the way is the standing guy 'him'?

-Kerim

soissoimeme said...

Yes, he is!