Saturday, October 3, 2009

リハビリ

「誘う」という行為はかなり”崇高”だ。(1)相手が、「誘っている」という自分を誰だか認識しているという確信があり(2)特に久しぶりに会っていない人に対してならば、その相手の反応による自分への認識の仕方あるいは態度、評価、位置づけをまざまざと見せ付けられてもうろたえない自信もあり(3)その「誘い」がいかなる形であれ断られようが何だろうが、それから何の負の影響も受けない(4)もしくは受けてもそれを容易く超越もしくは克服できるという自信を、意識的・無意識的であれ持っていなければ「誘う」ことなどできたものではない。「誘い」は何も愛の告白に限ったことではない。同性異性に限らず、お茶やランチやお喋りの「誘い」、「帰ってきました」という報告をするという台詞が陰で要求する「だから、会いませんか」、もしくはそれさえも要らない。久しぶりに目にする人に対して発する一言目は身が切り刻まれるように痛い。外国人向けの日本語学習書以外に日本人の誰が「こんにちは」と一言目友達同士で言うだろう。そのマニュアルの無さに、困惑するのは、アラブの奴らがあまりにも楽しそうにالسلام عليكم. كيف حالك؟ ما هي أخبارك؟ أنا مشتاق إليك.(あなたの上に平安がありますように。あなたの状態はどうですか。何があなたのニュースですか。(久しぶりに会っていないので)懐かしい(もしくは恋しい、寂しい)です。(以上超直訳))の4点セットを電話でも何でも決まり文句として一気に吐き出す中で、自分もそれに甘んじできたからである。もちろん、人情味溢れ、ホスピタリティーとは斯くあるべき的な文化財指定のジェラルミンケースに誇らしげに展示することもは憚らなさそうな、と一般的に思われる彼らにも、実は日本人には逆立ちしても思いつかない発想に基礎付けられるある種の毒々しさや図々しさ、淡白さ(ビジネスライクな、商人的なと言えばいいだろうか)、単純な複雑さ(矛盾しているようだが、一般的な日本人的思考(というものが仮にあるとして)においては思いもつかないような、人間関係の込み入り方や出来事の進み方が、彼らのその他の面と比べるとやや一見複雑に見えるのだが、その複雑な状況を招いている思考自体は非常に単純なのである。もちろん、彼らの思考が何かと比較して相対的に単純だと言っているのではなく、その招かれた状況に比して、その原因となる思考方法が単純だとここでは言っているのである。)や面倒くささが同居しているので、一概にこちらがラクだというような話をするわけではないのだが、話の切り出し方としては非常に(特に私のようなこういう人間にとっては)ラクである。


シリアの友達とスカイプで会話するときに顔が変わる(家族曰く)らしく、少なくとも、アラビア語を始めとする外国語では(母語ほどの言語能力や言語や文化背景理解に欠けているからかも知れないが)いわゆる流行の「コミュニケーション能力」は、その言語を話す一般的集団構成員と比して、私にも備わっていると見ることができそうなものだが、さて、ここ日本となると、しかも自分の所属する大学学部生への(今まで散々書き散らしてきた)複雑にして単純な思いが(ここでもまた語義矛盾か。ここでは、自分で「複雑だ」と言うのは「自分は複雑な思考や悩みができる人間です」と豪語しているに等しいと私には思われて仕方ない(私流「複雑性至上主義」)ので)頭を擡げてくるので、どうか(私が)知っている人が私を知っていると認知しませんように、と視線を落として猫背でそそくさとその場をやり過ごすのにどうしても安堵してしまう。

こんなことではこれからの「シューカツ」で最も必要とされるであろう「コミュニケーション能力」とやらが育たない。いや、今更育つということはないのだが、にしてもそれ以前に日本語を流暢に話すことができないと大いに危惧されるので、恥さらしもいいところだが日本語の練習のために、(己の母語低下能力と母語における思考能力の低下を直視するのが嫌でずっと放置していた)この場を再開することとしたい。


最後にここにものを載せてから、本当に色々なことがあったが、それは機を見てお話することとして。


それにしても私が言うのも何だが、リクルート社の見事に先頭を切って作り上げた「シューカツ」文化に踊らされすぎである。ぶっちゃけかなりキモい。「特別な経験は要りません。重要なのはそこから何を学んだかです」とかと言う耳ダコなキャッチも、留学とかサークルのリーダーとかバイトでの責任者とかという「特別な経験」を「シューカツ文化」構成初期に祭り上げた同社の振り子を少し揺り戻しただけであって、ESに箇条書きで見出し付きで1,2,3と学んだことを列挙するのだ、ビジネスのセオリーであるPLAN→DO→・・・にあてはめるのだ、と言われると、「~~することができた」「~~ということに気づいた」「~~という自分を発見した(自分を発見するっていうのがまずキモい)」と、できたできたと割り切って言えないことの中にこそ、重要な部分があるのではないかとか、何をもって「成果」とするのか、「私は」「学んだ」「学んだ」と騒ぐのは高校生まででいいんじゃないかという穿った見方はシューカツ市場に、果てはこの「世の中」で「使えんよ」と言われるのがオチなのは重々承知の上で、1日から始まった(とされる)この「運動」に乗り遅れることを恐怖しながら、まあ、こんなことだから結局は乗り遅れそうなのであります。


日本語学習者は読んじゃいけない悪文ですな。いや、まずはリハビリです。いつも見に来て下さった方ありがとうございます。

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