Saturday, August 30, 2008
different lines
何かで読んだか見たか、NYの地下鉄で、「僕と彼女はdifferent linesを使っている」という表現が。まさしく。「じゃあね」の後に、嬉々として仲良く「本三」や「東大前」に向かう彼らと、独りホームレスを眺めながら上野公園をただひたすら歩き、15分前にスタンバって始発の椅子取りゲームに闘志を燃やし、貨物や特急の待ち合わせや運転見合わせは日常茶飯事で、愛車に乗り込んでやっと一息つくような私とでは、文化的階層や生活スタイルはおろか、物の考え方見方にも相当程度影響するほどの、different linesなのである。
ローカルトークになるが、宇都宮線で言えば、メンタリティーに影響を及ぼす分水嶺は(個人的には)、①大宮以南②蓮田③久喜④古河で、それ以北は利用がないので分からないが、小金井が必ず境界になると思われる。要するに、私がディテールにこだわったシンパシーを感じるとすれば③④エリアの人間のみだということ。
日本人だと細部の、しかし断絶的な差異が気になるからいっそのこと国際結婚・・・という動機の人は意外といるらしい。たしかに。今夜の東急東横線とか目黒線が止まっているというニュースに、止まれ、止まってしまえ!タクシーで帰ればいいじゃないか、なんて腹黒い反応しかできないのは私だけじゃないはず。あのエリアでリッチでない人には申し訳ないけど。
道路が冠水して用水路に気づかず足を踏み外して死ぬのは新聞配達員。工事現場の(豪雨による)事故で亡くなるのは作業員。弱者がどうこう言うつもりはないぜ。「連帯」なんてまっぴらだ。でも、ルサンチマンが溜まるのは少しは理解できるつもりなんだ。あまりにもlineが違いすぎて、相互乗り換えもできず、異なるlineがあることさえも知らなくなったら(例:「宇都宮線?なにそれ?アタシ丸の内線ユーザーだから☆」)、見えないものがいっぱいあると思うんだ。
一日7本レベルの「いい」田舎になると話は若干別だけれども。「悪い」田舎のほうが問題かもね。
Friday, August 29, 2008
慟哭せよ
アフガンで日本人が殺害された件。例えば朝日は「青年の志を無にしない」と題して、秋野豊氏や中田厚仁氏をも挙げて、最後は「悲しみを乗り越え、出来る範囲で粘り強く活動を続ける。それが伊藤さんたちの志を生かす道だ」なんて締めくくっている。社説なんて大体どこもいつもこんな感じだが、今日のには腸が煮えくり返った。
日本人の顔を見せる、とか、金だけじゃダメだ、とか、血を流さないと、なんて使い古された台詞だけど、人が死ぬっていうのはこういうことだ。日本は自衛隊を「非戦闘地域」に派遣せずに、大きな犠牲もないからこんなに能天気でいられるんだろう。ルワンダやサラエボの映画で、戦況が悪化し、援助関係者や報道関係者の身の安全も危うくなって、現地の人に袖を引かれながら、泣く泣く引き上げるシーンはいくらだってある。最後は、己の命が惜しいか、ヒューマニズムを貫けるか、という究極の瀬戸際の選択で、それは結局利己的にしか生きられない(まれにそうでない人もいるわけだけれど大多数は違うだろう)人間のおぞましさや儚さや情けなさやらの詰まった、慟哭の瞬間なわけだ。
「志を無にしない」なんて出来もしないのに言うな。私たちは安全で清潔で快適な机上で物を考えるだけで勝手なことをこうして書き綴り、何もしないし何もする気がないし、現実問題、何もできない。できないならできないで、できないなりに、何かのきっかけくらいにはしようとか、そういう地に足の着いた物言いをするほうが誠実だし謙虚だと思うんだ。建前や綺麗ごとを言い放って思考停止に陥るよりよっぽどマシだ。NGOの役割とか、国際協力、援助って結局はどういうことなのかとか、憲法上の問題は置いておいて、実質上、NGOの活動と自衛隊の「人道支援活動」にどれほどの差異があるのかもしくはないのか、アフガンがどうして30年以上の混乱の中になきゃいけないのか、テロリズムの本質について・・・etc。
人間の命そのものは理念上は平等だけど、現実としては決して平等なんかじゃない。タイで生きたまま臓器摘出される子どもと、試験前なのにこうして試験勉強から逃げて、挙句の果てに知ったようなことを偉そうに書いている私の生の状況が平等であるわけがない。アフリカの最貧国に生まれればすぐに死ぬ命、アフガンの貧しい家庭に生まれて教育も受けず、タリバーンに回収されて戦士として落とす命、日本の中流家庭に生まれればこういう有様。この厳然たる事実にどうやって向き合うのか、誰もが伊藤さんになれるわけじゃないし、なる必要もない。募金すればいい話じゃない。お前の食っているものが何でできて、誰によって作られて、どこを通って、誰の稼いだ金(その金はどこから?)で購入されて、お前の血肉や脂肪となり、排泄されるのか、身をきりきりと震わせるように考えるんだ。「無にしない」なんて、四方八方手を尽くした先に吊るされているキャッチフレーズだよ。(もちろん社説担当者は既に四方八方手を尽くしたのかも知れない。しかし、日本の社説の役割が大衆の代弁者だとしたら、の話)
本当の「現実」を知っている人からは、借りてきたような正論や建前や綺麗ごとは出てこないはずなんだ。世の中ほとんどのことが綺麗になんか割り切れない。「難しいですね・・・」で口ごもったっていいじゃないか。この私みたいに、分かった風な口を聞く奴が一番厄介なんだ。
Thursday, August 28, 2008
絶望するでないぞ
己の脚を見てみろ、
どんなに醜くとも地面に着いているじゃないか。
胸に手を当ててみろ、
あの美しい子と私の心音には何の違いもない。
苦労や苦悩は絶対的なものであって
決して相対的なものではないけれど、
では、一番彼女が美しかったときに
原爆の閃光を浴びて
焼け爛れた少女の苦しみを何と呼べばいい。
たまには人間の強さを過信しても
そうそう罰は当たるまい。
心臓はなかなか容易に止まるものでもない。
動いている間、
何か大切なことがひとつ見つかれば。
それだけで生きていけるほど、
人間はきっと単純で複雑で愚かで愛すべき生き物なのだと。
人間の弱さに絶望するでないぞ。
決して、絶望するでないぞ。
Wednesday, August 27, 2008
拉致に見るNGO論
学者にせよ、ジャーナリストにせよ、コラムニストにせよ、globalizationを論じる際に必ずと言っていいほどNGOやNPOの存在をあたかも逃げ口上のようにして、それで締めればまとまるかのように錯覚しているのではないかと、私は常々疑問が拭えないでいる。一般人も、「ペシャワールの会」のように“良いNGO”と初期のイラクで拉致された人の“悪いNGO”とまるで区別しているかのようだが、(イラクとアフガンでは状況や条件が異なるという側面は置いておく)実にNGOと言っても様々。
おそらく、NGOの活動内容に価値判断はしない、そういう「結社」や「団体」が活動するスペースが確保されているという状況が重要視されるべきものなのだ、というスタンスがやはり無難なのだと私自身も思う。ただ、それでも、存在を認めながらも、自らに都合の悪い(己の信条に反する)movementsを遂行するNGOに対して、分かったかのような顔をして、「そういうNGOも必要ですからね」と知ったようなことを言って目を背け、「何がなされているのか」という一種の危うさを直視しないのは、逃げだし、ずるいと思う。・・・これは私のこと。いちいち直視なんてしていたら身が持たない。何でもそうだけど、movementとかactivityというのは特に色合いが微妙で、「非政府」とか「非営利」なんていう美名がますます判断を難しくする。集団というのは容易にセクト化するし、初めからそうであるのもある。globalizationを補完する、なんて綺麗には言い切れないはずなんだ。
私の女友達を紹介します
私は日本でも世界でも本当に良き友人に恵まれるけれど、海外に滞在したこともないのに、色々語れる友を持つというのは実にネット時代の贈り物という感じ。今回は私が女性としても憧れる3人をご紹介。(彼女らは日本語を介さないので問題なし)
北アイルランドのエマ(31)さんは、高校時代のALTで、今はハリーポッターが出てきそうな学校で、第一外国語としてのフランス語の教師をしている。大学時代にグランゼコールで1年間磨いたフランス語はかなり美しい。(私のフランス語学習動機、はい単純。)1年間彼女とはjournal交換をして、私の英語力も相当伸びたはずだけれど、それこそ日常のすべて(恋バナ含め)からIRAの問題とかまで語ったので、物腰穏やかで洗練されたsophiticatedな、このお姉さまは私の高校時代(の最も重要な時期)をそっくり知っている。そのハリーポッターが出てきそうな学校は待遇も良くて、夏には3ヶ月丸まるバカンスが与えられ、精神的にも人生を謳歌するにはもってこい。人生のパートナーが早く見つかるといいな、なんて言いながらも、まるで必死さはなく、本当にindependentで、私もアイルランドに移住すればそんな達観した境地に落ち着けるのかしらん。行く行くと言いながら€も£も鰻上りで、イギリスの院にでも行けたら・・・という感じでせうか。
ブラジルのレイン(23)は、法哲学で特に文学と法、という日本ではあまりメジャーではない分野で院に進学する覚悟を決めた、フラメンコの衣装が本当に似合うブラジル(白人系)美人。家族は違うのに、敬虔なカトリック信者で、教会の活動で出会った25歳のフィアンセがいる。この御時世に、いやこの御時世だからこそ、メールじゃなくて手紙だ、と専ら私たちはsnail mailで。民法なんか刑法なんかくそ食らえだよねなんて乙なところで共感しつつ、彼女が勧めてくれる論文はかなりツボなのが多く(そのうちレヴューします)、どこの国にもMゼミクオリティーというか、3類的人間はおるものよのう、とひたすら安堵するばかり。ただ、彼女が院に行けるのは旦那となるであろう彼氏が弁護士だからなのですね。とはいえ、経済的にたとえ依存することになっても、彼女も本当に精神的にindependentな女性。
ポーランドのマグダ(24)はクラクフから少し奥まった田舎に住む医学部の学生。彼女とはメールのやり取りの頻度が最も少ない(私のせいで)から情報量としては比較的貧弱なのだが、実際に会って話したというのは本当に大きく。私の惚れ具合も決して劣らない。赤縁の細いフレームの眼鏡がまた似合う知的品格美人で、私がクラクフのYHで、傲慢なフランス人の高校生修学旅行団に怒り心頭で呆れていたときに、ロビーでナンパした。彼女のお父さんは英語が話せなかったけれど、「中曽根康弘」の発音が、難解さで知られるそのポーランド語で、道の真ん中がどうこう・・・というギャグになるらしく、日本政治にかなりの興味をお持ちで、私は感心しきりだった。妹(22)は日本で言うリハビリ臨床なんとか士に当たる資格を取る学生で、お姉さんに比べると自由闊達放漫な感じで愛くるしかった。その男友達(23)がクラクフ大学の「観光地理学」の学生で、男前だし本当にいいやつで。
ネットの世界でもリアルな世界でも、知的上品オーラってのは出るもので、こういうふうにナンパしたりされたりして出会った彼女らとは長く関係が続くし、日本人からは得がたい視点で物事を見られるので、是非とも大切にしたいなと、「人」の「縁」を考えるときに彼女らの顔が浮かぶのです。また、会いに行こう。
今度、気が向いたら男友達ver.を。
Monday, August 25, 2008
バベルの塔
中国の建てる建物のほとんどに「国家」が冠されるのに今更どうこう言うこともないが、ひとつひっかかることが。中国語と日本語は漢字を共有するから、中国語の「国家」が日本語の「国家」と訳されることに違和感はないのだが、ヨーロッパ諸言語に訳されるとき、「国家」はすべてnationalに還元されてしまう。日本語や中国語での「国家」がヨーロッパ諸言語のnationに収まりきらないのも言うまでもなく、逆もまた、nationやnation-stateやcountry・・・が「国」や「くに」や「お上」や「国家」・・・に符号しないのもまた然りである。ここでは、スタジアムやその他の競技場の名の「国家」の持つ禍々しさや毒々しさがnationalに回収されてしまうのではない方法はないものか、wonderしてしまう。【国立guoli】と【国家guojia】という概念の差が存在する中で、敢えて後者を選んでいる雰囲気。ベトナムとかタイとかシリアみたいに(私の訪れた経験のある中だけで恐縮だが)、国家元首や大統領や王や英雄の肖像画が街中に溢れているようなおどろおどろしさ、そんあ雰囲気がnationalでは伝わりきらないと思うのだが。
エトニの重要性は言うまでもなく、また国家も退場したと言われながら、リベラルの言うようにうまくは行かず、なんだかんだ言っても国家は厳然としてそこにある状況で、国家を断罪するような単純な思考によってではなく、しかし「国立」か「国家」か、その小さくとも大きすぎる差異が他言語に翻訳される際に消え去ってしまうのだとしたら、やはり、そのように今も消えて見えなくなっている概念や叫び声がこんなものに限らず、この世界に溢れているのだろう。
バベルの塔はかくも残酷であったか。
下ネタと毛にみる人格
ちなみに私は若干毛フェチ感があるけれど、そういう人って隠れているだけで意外と多くいるのではないかと思う。しかしながらアラブ系の毛深さは生理的に受け付けられないから、石油王がいくら私に惚れ込んで一生勉強だけして暮らせるパトロンになってくれると言っても、結婚生活はきっと難あり、だな。・・・ここ、笑うところです。
米原万里が敬愛する「シモネッタ」というあだ名の通訳がいるのだそうな。いくら下ネタをぶちまけても嫌な感じがしない、サバけた女に憧れる。日本の典型的な女の子みたいに、いやだーそんなこと言えな~い、なんてぶりっ子するような柄でもないしね。こういうのを扱えない典型的日本男子は嫌いではないけど、器が小さいと思う。いざ、独身街道まっしぐら!・・・ここも笑うところです。
たまにはくだらない話題もいいでしょう。(え?いつもくだらない?・・・ここも笑うところです)
Sunday, August 24, 2008
"moving"な五輪
オリンピックに関して。選手流出などは今に始まったことではないが、中国の選手が各国の卓球代表として活躍していたり、シンクロの日本人指導者が中国チームを育て上げてしまったり、冬に目を向ければフィギュアのロシア人コーチは世界中の一流選手を育てている(ような枚挙に暇が無い事例)ことを考えると、表彰式での国旗国歌掲揚はかなり馬鹿げた話になってくる。1年生のとき、ナショナリズム研究がマイブームで、一通りの文献を読み、果ては韓国のチョアンにある民族博物館まで出かけていったけれど、ナショナリズムというのは、明確に定義したり何かわかりやすい結論を出せるような代物ではなく、結局は相互(個人)承認の問題に帰してしまう。リベラルな人間は、オリンピックに国家を持ち出すべきでない、純粋に個人の闘いにすべきだ・・・という主張に対して賛同するだろう。50年後はどうか分からないけれども、例えば選手のウエアのデザインに国家を反映するような色や柄を採用しないとか、試合後に国旗をシンボルに場内を回らないとかというルールを設定して、完全に国家色を排除することも可能だろうとは思う。ただ、そうすると、オリンピックは世界選手権的な扱いに限りなく近づき、今ほどの注目は浴びなくなるとも予想できる。それがナショナリズムの魔力、魅力によるものなのだが、そう考えると、政治的に大いに利用され、開催国内の国内政治やそれを取り巻く国際関係が一定期間クローズアップされ、各国が視聴率稼ぎに有利な時間帯に多額を支払い試合時程を誘導し、程度の差こそあれ一定期間各国のメディアを賑わし、人々が何らかの形で(泣いたり笑ったり感動したり)感情を露にする、少なくとも「オリンピックが開催されているのだ」という意識が頭の片隅に共通事項として上るというのは、何もないよりはよほど"moving"な(動く、蠢く、感動させる、という意味で)出来事だと思う。オリンピックをきっかけに、良かれ悪しかれ何かが動く。ギリシアの時代から続く、この「厄介な」イベントをもう少し評価いいかな、と「成熟」していく(はずの)この国で思ってみたりする。
かつて五輪を国威発揚、経済勃興の契機として利用した日本。五輪賞賛から、五輪不要論を超えて、今、そこにある五輪をあるがままに認めたい、そう思う。
私という人間の引き受け方
Saturday, August 23, 2008
Only one or No.1
GIFT
一番きれいな色ってなんだろう?
一番ひかってるものってなんだろう?
僕は探してた 最高のGIFTを
君が喜んだ姿を イメージしながら
「本当の自分」を見つけたいって言うけど
「生まれた意味」を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな
受け取ってくれるかな
長い間君に渡したくて
強く握り締めていたからもうグジャグジャになって
色は変わり果てお世辞にもきれいとは言えないけど
「白か黒で答えろ」という 難題を突き付けられ
ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている
迷ってるけど白と黒のその間に
無限の色が広がってる君に似合う色探して
やさしい名前を付けたならほら一番きれいな色
今君に贈るよ地平線の先に辿り着いても
新しい地平線が広がるだけ「もうやめにしようか?」
自分の胸に聞くと「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ
知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから君の分まで持つよ
だからそばにいてよそれだけで心は軽くなる
果てしない旅路の果てに
「選ばれる者」とは誰?たとえ僕じゃなくたって
それでもまだ走ってゆく
走ってゆくよ降り注ぐ日差しがあって
だからこそ日陰もあってその全てが意味を持って
互いを讃えているのならもうどんな場所にいても
光を感じれるよ今君に贈るよ
気に入るかな?
受け取ってよ
君とだから探せたよ
僕の方こそありがとう
一番きれいな色ってなんだろう?
一番ひかってるものってなんだろう?僕は抱きしめる
君がくれたGIFTをいつまでも胸の奥で
ほらひかってるんだよひかり続けんだよ
・・・だそうです。NHKのオリンピックのテーマ曲になっているもんだから、自然と耳に入る今日この頃です。私はミスチルのファンでもなんでもないし、この曲も超感動というわけではないのだけれど、まぁいいかな、と。言っていることはいいことです。ただ、違和感を感じるのは、この曲を聴いた人が「自分で」「自分のことを」肯定すること。GIFTを与えられるということは相手が存在するということで、既にその人は存在承認を得ているわけで、人生に悩む必要もないわけで、それでonly oneなのだと勇気付けられるのも結構なのだが、私個人の意見としては、私は一生自分が「どんなメダルにも負けない輝き」を持っているなんて自分で思ってはいけないと思っているし、思ったらそこで試合終了(その程度)のような気がする。皆さんは持っているんですよ、とあくまでも他者に対して言えばいい。皆さんがそう思うのも全く否定しない。しかしながら、なかなかそういう人とお友達には私はなりにくいだろうな。
ゆとり教育の延長でしょうか、不景気だとonly one論が流行るんでしょうか。それとも、この曲で涙の出ない自分は終わっちゃってるんでしょうかね。
それにしても、自分でonly oneだなんて公言するとか、慰められて涙するって・・・。ついていけないな。自分はonly oneでもNo.1でもなんでもない。そんな大それた立派な人間じゃない。あなたはそうだろうけど。私は凡人。というスタンスは崩せないかな。存在論と一緒ですが。
追記:桜井さんの言葉を表面通りに受け取ると、金、銀、銅の勝者<一般人という図式になる。これは近年の医者、弁護士、教師、官僚といった、人生の「勝者」に対する、無慈悲なまでものバッシングに象徴されるルサンチマンにも通ずるのではないかと思う。only oneの人は大体No.1であって、No.1である人もほとんどOnly oneである事実。もう一度強調するけど、他者に対して肯定することはいいんだ。自分でOnly oneだって慰めちゃってるのがイタいんだ。
少し話は逸れるが、この過剰なまでの個性礼賛が暴走万葉仮名系のDQNネームの増産等につながっていくのだな。個性なんてものはどんなに枠に嵌めても、溢れ出るもののはずだが。私は自分の子供に「美」なんて付けない・・・。
酷さ
Wednesday, August 20, 2008
背伸びしないで
Tuesday, August 19, 2008
無限ループ
私がなぜ就活から逃げるか、逃避の理由付けを何に押し付けていたか思い出した。容姿だ。①日本において容姿や見てくれは諸外国に比べてもかなり重要視される。入念に化粧を施し、elaboratedな衣装に身を包まないと「ダサくて」「イケてない」として白い目で見られる(=異質なものに対して排除的であることにつながりやすい)のは特に日本と韓国ではないかと思う。もちろん例外はあるが(ロシア人のイケイケ系のスタイルのいい女の子は日韓と同じだと思ったけれど)、気張ったファッションに身を包んでいるのは大体、日韓の女の子と言っても問題にはならないはず。アメリカ人女性の多くはパンストを日常的には履かないらしいし、薄化粧の人もかなり多いし、日本人から見れば服装はかなり適当である。キャミ1枚で大学とか、お腹の肉がベルトに乗ってるとかは余裕。この緩さに慣れると日本に帰って来られない日本人女性は少なくない。something different に対して、移民大国アメリカはやはり日本とは段違いに寛容だということなのか。具体的に言おう、It doesn't matter how my skin condition is there. だろうということ。 もちろん、実際のところはどうだか知らないが、あくまで印象論として。比較の問題として。②日本人女性の場合、有能な人は容姿も美しい場合が多い。その逆は必ずしも真とは言えないが、少なくともかなりの肥満体系でバリバリのキャリアウーマンという人を見かけるのは困難だ。(もちろん、醜いものは悪としての社会的圧力から表に出ていないだけという可能性は大いにあるが)反対に、例えばアメリカやヨーロッパ系で、お世辞にも日本的基準では美しいとは言えない人がその能力を認められてバリバリ働いているというケースはよく見聞きする。有能→美人という図式は真か、それは日本人にあてはまるのか、そうでないのか。ただの社会的風習や文化の問題か。後者ならば私のこのエントリーはただの僻みや愚痴や文句になってしまうし、前者ならば諦めと妥協にしかならない。
思いつくままに書いて来たが(なんだかあまりいい文章が書けない)、要は同じ就活中の女の子たちを見ると、優秀な人ほど美しい人が多くて、とてもとても隣には並べないと痛感するのだ。就活用の写真、就活用メイク・・・。写真を撮ればお化けでしかないし、メイクはできない。メイクは教養だ、とはかつてゼミで同じだった素晴らしく美しい子がその煌く笑顔で訴えたことだ。メイクは社会人の最低限のマナーとは、巷の就活本が挙ってフィーチャーすること。私には教養もマナーもないけれど、ぐだぐだと書き綴って来て、結局問題にしたいのは、その教養やマナーの無さをも凌駕しカヴァーする能力がないという厳然たる事実なのだ。何もない!je n'ai rien!
外見でも能力でもundeserved to be employed in a market.(※)なら、「小生は自ら顧みてどうしても学問に趣く可きものと存じ候」(北岡伸一『清沢洌:外交評論の運命』(増補版、中公新書)p10)なんて本気で言えたらどれだけ格好いいか。「私はイズムと公定式によつて生きうるものの気楽さを羨んでゐる」(同、p42)。可愛い顔をしていれば、イズムに染まっても染まっていなくてもどちらでも許される。イズムの醜悪さは容姿の醜悪さに誘導されないか。イズムがないことの喪失感や欠如も、容姿が醜悪ゆえの喪失感や欠如に由来しないか。
とはいえ、性質(たち)が悪いのは、問題は中身だということを認識していると言いながら、それでも外見の要素を捨て切れないでいる醜い者の入れ子構造だ。もしかしたら、もっと性質(たち)が悪いのは、肌の状態によって多少醜悪さの程度を行き来し、外見と中身の相関関係(心が美しい人は外見も美しい、能力のある人は外見も美しいetc)を肯定してみたり、否定してみたり、はたまた肯定と否定の入れ子構造になっているのいないだのと、無理に客観視したつもりになって公的なブログの場でわざわざ披露し、しかもそれを認識している・・・という無限ループに嵌っていることを認識しつつ・・・というto be continuedな私のような人間であることは、髪を隠しても十分美しくいられる中東の姫たちには想像もつかないことかも知れない。髪は隠されるべきものではなく、私にとって顔や首を隠すorフォローするべきものでしかないのだから。 (フォローになってないぜという突っ込みはさておき)
(※)Oops, it is needless to say that this blog is not worthy of existence. It depends on the way I live my life whether this extent spreads to "my" existence. Of course, the meanings of all the people's existences other than me are always unconditionally guaranteed by "me"!・・・You can take this as my dark joke, but this may not be a kind of too-much-humility-is-pride.
下っ端の特典
近代国家の基礎:国境画定
シリアと言えば、最近レバノンとの国交樹立に向けて国境画定進行中。周辺国と自国との境界を確定するということは近代国家の基礎としてまず第一義に重要視されるわけだ。日本が最初に取り掛かったのは1875年の樺太千島交換条約(Treaty of Saint Petersburg, Traité de Saint-Pétersbourg)。隣国と公式に国交を正常化できずに何十年も係争中というのは、どんな背景があろうと、日本では外交政策の失敗と間違いなく非難されるだろうが、それにしてもシリアの場合、(未調査かつ知識不足ゆえに何とも言えないが)国内で現実主義路線とナショナリスティック拡大路線との対立とか、国内世論の触れ幅とか、多様なオピニオン形成がどの程度なされているのか等、暇になったら要調査。
嘯けているうちが花
法律なんて嫌だ、I hate Laws!とトルコ人のメル友の法学生に言ったら、曰く、法律が本当に好きな法学部生なんてごくわずかじゃないの?と。まあ、それを言ったらお終いのような気がしないでもないけれど。トルコで法曹になるには、ただ法学部を出ればいいだけらしい。なんとまあ。
もう少し自分の価値観や感性に正直に生きてみてもいいのかも知れない。一回きりの人生なんて力むと碌なことがない気がする。景品で当たった商店街のone more tryくじ引きのように、当たっちゃったんだから、儲けものだし的に本当の意味で「楽しめ」れば、死ぬときに「まあ良かったかな」と一瞬思えればそれでいいのかも。この人生を「成功」させなきゃいけない道理はない。他人が何と言おうと、他の誰のものでもない人生なのだし。flexibleに。・・・なんて嘯けているうちが花かな。
Monday, August 18, 2008
The Real Reason
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どうでもいい息抜きニュース記事(J-CAST)から。
「女性があこがれる「イケメン30歳前後の男性」が「避けたい」と思う女性は次のような人だと分析している。
(1)毎回豪華デートを期待。勘定は「男持ち」だと思っている女性(2)すぐに体を許す女性(3)思い込みが激しく、ネガティヴな心配をする女性(4)悪いところを指摘するとスネたり、キレたりする女性(5)嫉妬心が強く拘束しすぎる女性(6)トラブル、悪口を言うことが多い女性(7)話が長くて結論が落とせない女性(8)女性的魅力磨きをあきらめている女性(9)社交的じゃなく、友達の少ない女性
いくつもこれに当てはまると、女性もいわゆる「売れ残り」になってしまう可能性がありそうだ。」だって。私は(3)~(9)まであてはまるんですが。どうしろと?
反知性主義の行く末
読んでいないけれど、暇になったらそのうち。Rick Shenkman, Just How Stupid Are We?: Facing the Truth about the American Voter, Basic Books,2008
これに対して内田樹がhttp://blog.tatsuru.com/2008/07/17_1107.phpと。
日本で同じようにやってみても大差ないだろうと思う。「教養」とやらからは程遠いうちの母親なども、イラクの場所なんて、ましてや私がこれから行くクウェートの場所だって知らない。知らなくてもなんの問題もないのである。問題は、それが日本の一市民なのか、アメリカの有権者なのかということ。世界に大きな影響を与えるアメリカの大統領を選ぶ有権者がstupidで良いのか、アメリカ市民でない自分が関わることのできないアメリカの大統領選挙で選出された大統領によって、自分の頭上に爆弾が落ちて来るという民主主義の構造的欠陥にいかに対処できるのか。まさしくdemo-cracyであるゆえんの真髄。
内田氏は「今の日本社会では「知性的にならない」ことに若者たちは知的エネルギーを集中している。無知は情報の欠如のことではなく、(放っておくと入ってきてしまう)情報を網羅的に排除する間断なき努力の成果である。「知性的になってはならない」という努力を80年代から日本は国策として遂行してきたわけであるから、これはスペクタキュラーな「成功」なのである。だから、私たちが学生に与えるべきなのは知識や情報ではなく、「知性的な人間になっても決してそれで罰を受けることはないんだよ」という保証の言葉なのである。」と。
「おバカキャラ」がウケる今日この頃。アメリカとはまた違う「反知性主義」?Richard Hofstadter, Anti-intellectualism in American Life,1963 あたりも。
知ること、理解することに努めている(と自覚している、認識している)人よりも、その不可能性に挑むこともなく放棄している彼らのほうが、知に対して傲慢ではないのかも知れない・・・と、ここでもmodestを気取って言ってみても、やはり「次アメリカが攻撃すべき国は?」という問いに対して、笑顔で「あのー、よく分からないけど、頭にターバン巻いているような人たちの?」「フランスだ、フランスとアメリカの関係は最近よくない」などとはしゃげるのには、また別の細胞が必要になるのかも知れないと思ってしまう。
知の海に溺れまいと、ああだこうだと並べ立て、泳ぐにも独自の泳法を編み出したいんだ、クロールは確かに速いけど、それじゃあ嫌なんだと、がむしゃらなのは実に格好悪いことかな。浮いていればいいのかもしれない。浮いたこともないくせに、泳いでいこうなんて、あさましいのはどちらだろう。・・・とまた、どこに結局帰ってくるか分かりやすいような問いを立てて、自己満足に浸るのもいい加減にしたほうがいいだろうに。
(やや脱線的補足:educatedな人かどうかを外国人で見極めるのは難しいといつも思う。)
Sunday, August 17, 2008
「~バカ」
簡単に言えば、自分のやっている仕事が良いことなのか、悪いことなのか、どこの誰にどんな影響を与えているのか与える可能性があるのか、見当も付かないような仕事は私にはできないだろう、ましてや、わからないはずのその仕事の性質を、分かった気になって「遣り甲斐」を感じるなんていうことは、言語道断なのだ。青臭いのは分かっているけれど、これだけは30になっても40になっても捨てたくないと、そう思う。
「救命バカ」な彼らのように。愚直に誠実に真摯にまっすぐに。所詮ドラマの中の話だけれど、「~バカ」という言葉は現に存在しているわけだから。私はどんなバカになろうかと暗中模索。
生きにくても、島耕作。
(http://www.economist.com/opinion/displaystory.cfm?story_id=11885715)
Aug 7th 2008From The Economist print edition
Japanese bosses can learn from the country’s favourite businessman—even if he does not exist
YAMATO, the ancient name of Japan, essentially means “big harmony”. To achieve such balance, Japanese society has refined a plethora of cultural traits: humility, loyalty, respect and consensus. In the field of business, however, this often results in a lack of leaders who are willing to stand out from the crowd, promote themselves and act decisively. “The nail that sticks up gets hammered down” is a common Japanese refrain; “the hawk with talent hides his talons” is another. Whereas American and European bosses like to appear on the covers of global business magazines, their Japanese counterparts are comfortable in their obscurity. Business in Japan is generally run as a group endeavour.
Such democratic virtues served the country well in the post-war period. But today they hold too many Japanese firms back. Japan boasts some of the best companies in the world: Toyota, Canon and Nintendo are the envy of their industries. But they operate on a global scale and have tentatively embraced some unconsensual American methods. In much of the Japanese economy—especially its huge domestic services sector—managers are in something of a funk. Firms do not give promising youngsters responsibility early on, but allocate jobs by age. Unnecessarily long working hours are the norm, sapping productivity. And there are few women and foreigners in senior roles, which narrows the talent pool.
So how pleasing it is to be able to report the success of a business leader who breaks the mould. Young, dynamic and clever, he is not afraid to push aside old, conservative know-nothings. He disdains corporate politics and promotes people based on merit rather than seniority. He can make mistakes (he got involved in a questionable takeover-defence scheme), but he is wildly popular with salarymen: his every move is chronicled weekly. In June he was given the top job at one of Japan’s biggest firms. Kosaku Shima of Hatsushiba Goyo Holdings has only one serious shortcoming: he is not a real person, but a manga, or cartoon, character.
For many critics of Japan, that says it all: Mr Shima could exist only in fiction. In fact there is room for the country’s managers and even its politicians to learn from him.
Most of the lessons are for Japan’s managers. At present, bosses rarely say what they think because it might disrupt the harmony, or be seen as immodest. Their subordinates are reluctant to challenge ideas because that would cause the boss to lose face. So daft strategies fester rather than getting culled quickly. There is little risk-taking or initiative. The crux of the problem is Japanese companies’ culture of consensus-based decision-making. Called nemawashi (literally, “going around the roots”) or ringi (bottom-up decisions), it helped to establish an egalitarian workplace. In the 1980s Western management consultants cooed that it was the source of Japan’s competitive strength. Sometimes it can be, as in periods of crisis when an entire firm needs to accept new marching orders quickly. But most of the time it strangles a company.
Relying on consensus means that decisions are made slowly, if at all. With so many people to please, the result is often a mediocre morass of compromises. And with so many hands involved, there is no accountability; no reason for individuals to excel; no sanction against bad decisions so that there are fewer of them in future. Of course, sometimes the consensus of the Japanese workplace is just a veneer and decisions are still made from on high. But then why persist with the pretence, particularly if it drains a company’s efficiency?
Time to turn the page
If the onus is on Japanese managers to change, then it is fair to say that the government does not make it very easy for them to do so. The biggest problems lie in the labour market. Change jobs in mid-career and you risk losing your pension. The rigid seniority system also discriminates against women: if they get off the ladder to have children, they cannot get back on. And although there is no law against closing down loss-making businesses, most bosses and politicians act as if there were. If Japan’s leaders decide their country needs more people like Mr Shima—and it surely does—then they might reflect on all the ways that they prevent him from becoming a reality.
Saturday, August 16, 2008
政治思潮?
中国語の出来ない、英語や仏語や独語のネイティヴではない私が言えることでもないけれど、言語の壁というのはどうしても大きく、例えば「靖国神社」をwar shrineと理解していては、かの場所を巡る複雑性は永遠に咀嚼できない。そうは言っても、短い人生、足りない脳、全ての言語を学べるわけじゃないから、やはり無知の知という態度は常に持っていないとまずいわけだ。アラ語の窓が開いたら、何か見えればいいのだけれど。
(ちょっと今きづいたけれど、私は他の言語でものを書くときも、「~なんだけど(ね)」で終わらせることが結構多い。例えば~,though.のように。「~なのだけれど」の後に続く空間が許されているという点で、逃げ口上のようでもあるけれど。私は出来る限り、「逃げて」いたいと思うのだ)
窒息
どのようにでも名前をつける自由がある中で、「名前のない音楽団」と名づけるのは自由だ。どのように名づけても名づけなくてもそれは名前になってしまう。この世に生を受け、与えられた名前に生まれてずっと違和感を持ち続けていられるのも、その名に名づけられたという単なる偶有性、他でもありえたかも知れないという可能性が確保されてきたからに他ならない。私は私でなかったかも知れないと、常にどこか頭の隅におかなければ、私は私にしかなりえないという、可能性に実は満ち溢れた現実さえも受け入れたくなくて、私はきっと窒息してしまうだろうから。誰かに異なる名前で呼ばれたら、目が醒めるのだろうけれど。Please, please call me in another way. お願いです、他の方法で呼んでください。otherではなく、きっとどこかにあるはずのanother。私の、another。・・・青いな。
8.15
あと何十年のことだろうか。
「対話」とか「理解」とか「平和」というタームを
平然と口にして涼しい顔でいられる人間がこんなにも多くいられるのは
あとどれくらいのことだろうか。
8月がこんなに疲れるのは
暑さゆえ、試験勉強ゆえだと言い切るには
あまりにも暑く、蝉は五月蝿い。
先祖は還っていった。
Thursday, August 14, 2008
この違和感、コーカサス
コーカサス国際関係の十字路 (集英社新書 452A) (集英社新書 452A) 廣瀬 陽子 集英社 2008-07-17 売り上げランキング : 1881 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
amazonのレヴューで誰かが、計ったようなタイミングでの出版、と。奇しくも。停戦が合意に至りそうで終結の見通しが立ったようで。図版も表も大変に痒いところに手がとどく作りになっていて、新書としては申し分ないのだと思う。が、 おそらく夏学期のゼミのS川先生なら数多くのダメ出しをするのだろうな、と一介のただの(この地域を専門にも何にもしていない)学生は思う。本当は自分で検証して、ここが違うのあーだのこーだの論うのが筋だが、そういう時間も力もないので、ここでは1点だけ。
この著者については何も存じ上げないのだが、いかんせん、表現がナイーヴ過ぎて突っ込みどころが少なくないように思われて仕方ない。「国際的に」とか、何?その「国際」って?・・・や、いかにもな断定、言い切り・・・客観的な分析とは思えない。(客観的な分析なんていうものはそもそも不可能なのは百も承知で、「心がけているかどうか」という点で)極めつけに、最後のあとがきで「そのような(日本人の・筆者注)「無関心」がコーカサスの混沌を助長しているとはいえないだろうか」と来たら、ちょっと眩暈がする。日本人がこの地域に無頓着なのは百も承知。もっと関心も持って、出来れば声を上げて欲しいという著者の願いはよく分かる。しかし、「助長」はないだろう。イラクやルワンダとは性質が違う。せめて、「遠い国で起こっている、私たちと一見関係のないことのように思えるけれど、私たちの視線が何らかの形でかの地の出来事に大いに影響する可能性が常にあるということを心に留めて欲しい」とかこの程度にして欲しい。この違和感、どなたか共有可能でしょうか?
ニッチな分野であるがゆえに、入門的新書としては画期的でかなりの程度一般人向けに有用であることは付け加えておく。
Wednesday, August 13, 2008
逃げずに向き合う
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本日読了。阿刀田高も偉大だ。ちゃんと原典を読もう。今度は挫折しないように。聖書が読み通せるかどうかは、知的能力の問題なのだろうか。「西洋」の人は「勉強」や「教養」としてではなく、子供の頃から「自然と」親しめるわけだ。羨ましいなんて口では言いながらも、もちろん他人の信仰は他者の自由を脅かさない程度においておおよそ尊重するけれども、いざ自分の身となると、お断りである。何かを無批判的に信奉することほど恐ろしいことはない・・・と言ってはいけないだろうか。You're missing something important! What do you do when you're free without believing in something? とシリアのムスリムのメル友に言われ、ついでにその子はIslam can make a perfect society.とまで言ってのけてしまう。日本の神道には八百万の神がいると言えば、トルコの友達はHow can they make a harmony? シリアの友達はYou have to choose correct one.だと。perfect だの、correctだの、実に禍々しくて相手にしていられないと言いたくもなるけど、信仰と友情は分けて考えないとてんで話にならないのだ。彼らはすごくいいやつなんだけれど。「教養」あるムスリムはさすがにそこまでは言わないはずなんだけれど、いわゆる「普通の」人はそうなんだろうか。
かつて私が左翼サークルに居たとき、そのサークルから見れば敵である民青の人にこう聞いた。民青に入ることで見えるものと、入らないで見えるもの、どっちが大きくて深い?彼は断言した。民青に入らなきゃ何も見えない、と。アッラーを、イエスを心に抱かなければ見えないものと、そうでないもの。新興宗教と古くからある宗教の境目。アジる、オルグする。
冷静に現実を見たいといつも心がけているつもりなんだけれど、たまにこういう暴言も吐いてみたくなってしまう私はそんなにいけない人間だらうか。・・・でも、ボスニアのサラエボで、私は立ったまま一時間も大聖堂の入り口で泣いていた。隣にモスクが、その隣にシナゴーグが立ち並んでいる、小さな寒い街で。中東はシリアから辿った道が、アウシュヴィッツまで行き着いたその道が、人間らしくて人間らしくて、私はちっとも憎めなかったけれど。今度の春は必ず、パレスチナに行こう。可能ならば、イスラエルにも入ろう。色々な人にきっとまた出会って、色々な話をして、きっとまた私はどこかで泣くのかも知れない。こんなに色とりどりの地球が、醜いのに、すごく愛すべき存在なのだと。しっかり逃げずに向き合わなければ。
愛してるのは
上野駅内のドトールで5時間民法とやっとこさ格闘。こうでもしないと民法なんて開きたくもない。ああ、さすがに切羽詰まってきた。何もしなかったツケ。受験生の頃、平気で6時間ノンストップで集中力持続させていたのが今となっては幻の奇跡。今じゃ30分ごとにため息ついてる。たまには面白いところもないわけじゃないけど。
♪ねぇどうして、すごくすごく法律嫌いなこと、ただ考えようとするだけで、ルルルルル、涙が出ちゃうんだろう。あの日刑法と出会った日が、少しずつ思い出になっても・・・ルルルル・・・・愛してる(政治学を)・・・fin.
高校のとき、死刑の問題とか刑法39条に打ち震えたもんだけどな。それは哲学だったのだな。それは趣味にとどめましょう。学問を職業にできるような人間にあらず。はよう気づけ、おのれ。
集中が切れると、これからお盆で上野駅から帰省する家族連れや夫婦が織り成す夏の会話が耳に入ってくる。みんなが故郷に帰ってゆく。都会の子は田舎の親戚の子にバカにされながらも、野山を駆け回るんだろう。嫁は姑に気を遣いながらも、旦那は縁側にもう20年も生きているような猫と大の字になって昼寝するんだろう。賑やかな人の声が静まったら、風鈴の寂しげな音だけが夕暮れの赤とんぼと歌を歌って、また秋がやってくるんだろう。ご先祖も、親戚も帰ってゆく。田舎の子の非日常が終わりを告げる。甲子園も終わり、ぬるくなったカルピスが一人で汗をかいている。
なんだかんだ言って、日本もまだまだお盆をやるのだ。みんな一斉に顔を綻ばせながら原点に戻っていくこの営みが、なんだかものすごく愛おしくて、5時間もたせたアイスコーヒーが苦くて、『内民』が滲んで見える。どうして8月15日が終戦の日なんだろう。誰かのいたずらにしては痛々しすぎやしないかい。
これがいいのだ
「地頭」だか「Google化」するだとか、いわゆる勝間系の人種が一番苦手なのだけれど、「効率」(を追い求める部分も人生においてもちろん必要だけれども)良くなんかなくていいのです。大切なことを見落とさなければ。一番大事なことが分かっていれば、それでいいのです。それでいいのだ!これがいいのだ!
形而上学への寄り添い方
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頑張って一度レヴューを書いたのに消えたのであっさり行きます・・・。
Religionalizing Contemporary Thoughts, Nakamasa Masaki, May 2008 とでも英訳できるのかしら。 仲正氏は、ご自身語られるように色々な方面から色々言われる人である。私の属する「東大法学部」系からウケることも今までもこれからもないと思う。要するに、こういう新書モノではなくて、氏の真面目な本でも、ゼミの発表で参考文献に載せるのが憚られるということ。教授には絶対良い顔されない。・・・それでも、私はこの人はかなり面白いと思っているし、この面白さ(氏の愚痴も含めて)が分かるのはある種の体験をした人でないと若干厳しいかもという部分はある。いずれにしても、文章はかなり上手いし(中身のもっと薄い新書でも文章が下手であるゆえにもっと時間のかかるケースはいくらだってある)、ブリリアントな学者であることは間違いない。
ちょっと引用。
「宗教共同体の「内部」にいる本人たちにとっては、霊的な生命を与えてくれる生きた言葉(パロール)に触れた体験の証であっても、「外部」の者にとっては、教義というエクリチュールに従ってパターン化された言動にしか見えない。(略)「内部」にいる間は、霊的な体験は生き生きと私の前に現れているリアリティであって疑いの余地はないが、いったんその「外部」に出ると、教義の「文字」に対する機械的な服従としか見えなくなる」(p.219)
素敵な解釈その一。アーレントのコミュニケーションの形而上学が、解放の形而上学にある程度の歯止めとなっているという点。その二。「『マルクスの亡霊たち』で肝心なのは、あらゆる反形而上学の言説が、不可避的に対抗形而上学に依拠しており、いかなる立場にある人も、自らが「真理の霊」を背負っていることを証明できない、ということ。(略)敢えてマルクスの「妖怪」の「再来revenant」に見える「亡霊」にコミットする立場を表明した」(p.268) 「亡霊たち」クウェートに持っていかなきゃ。
過去にゼミで書いたペーパーを参考までにコピペ。
①仲正昌樹『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画、2006)
②仲正昌樹『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』(双風舎、2005)
今までの人生の中で最も印象に残った本というよりは、最近一年間の筆者の思考的・人間的変遷が顕著に表出して(しまって)いたこのゼミの場での新年度のネタとして最適で、自己紹介を兼ねたあくまでも現時点での筆者の立ち位置を他人が想像するのにオモシロイだろうという安易かつ浅薄な選択の理由によることをご了承いただきたい。
著者の仲正昌樹氏は1963年生まれ。81年に東大理一への入学とともに、統一教会に入信し、84年に教育学部に進学、89年に卒業。その後世界日報社で二年間勤め、92年の退社と同時に統一教会を脱会。駒場の院で学術博士号を取得後、現在は金沢大学で主に政治思想史等を担当している。上記のようなカンタン系から各種総合雑誌、御茶ノ水書房のまじめ論文や翻訳まで幅広く活動している若手の部類に入る研究者といえるだろう。
しかし他の研究者・「知識人」と一線を画しているのはその経歴であり、その経験に裏打ちされたサヨク・左翼・ウヨク・右翼批判は悲愴感さえ帯び、思わずうなずいてしまう議論も少なくない。
筆者がまだ受験生であった2006年2月の『諸君!』で、氏は「北田暁大に告ぐ 『諸君!』に出て何が悪い」という主張を掲載していた。これは、氏が2005年12月の同誌で行った八木秀次、小谷野敦との鼎談「この世の嫌われモノをどうする!タバコ・フェミニスト・監視カメラ・人権擁護法案・・・」を受けて発生した、氏の「裏工作をする偽装脱会信者」疑惑に対して、北田氏が仲正氏と予定されていたトークセッションを中止したことなどを批判するものであった。筆者は当時それらをオモシロがって読んでいたが、氏の意図する本質的な部分については全く無頓着であった。
筆者は昨年の夏まで(正式には11月頃まで)、ポストモダン左派というか、新左翼や現代思想を混ぜたようなサークルに所属していた。(彼らは革マルや民青等との差異を強調していたが、類似点もないわけではなく、筆者自身まだ定義しきれず、相対化の最中である。)様々な運動にかり出され、サヨク・左翼の世界を嫌というほど味わったことに気づいた筆者は、学問一般や世の中に対する姿勢を考える上で、氏の議論は比較的有効であった。①のように「サヨクの害毒からしばし解放され、カタルシスを味わいたいというマイナーな欲求を覚えているごく少数の読者向け」の著書でも、「ラディカル」とは何かなどについて考えるには良い契機となりうるし、①の布石となっている②も「私」と「世界」の関係を考える上でひとつの議論として「使える」のではないかと思う。
常に自己の諸々に対する姿勢を点検することほど難しいことはなく、真摯に誠実に「読み破る」こともまた非常に、極めて難しい。読む瞬間瞬間によってつかまえられるエクリチュールの表情は変化する。それにいかに意識的・自省的であるかが、人が生きていく知の領域で本当に重要なのだ、ということに気づくまで、このゼミを始めさまざまなゼミやその他を経由しながら、一年近くかかったことを恥じながら、しかし未来に希望を持って、新年度第一回目の自己紹介を兼ねたペーパーとしたい。ご高評を仰ぎます。
8/14追記:もしかしたら、私のこの稚拙な理解を、稚拙だと一番分かってしまうようなお方にご覧頂いてしまっているかも知れないのですが、その方の「ファン」(一般的に「ファン」という語句から受け取られるような没入的なイメージでの「心酔」とか「陶酔」というのを、そのthe被対象者一番望んでいらっしゃらないはずなので、私はそういう意味での「ファン」ではないということ。)はというのは全国に一定数いて、どういうわけか著書が出ると買ってしまう筆者もそのうちの一人でないわけでもなくて、ただ、その中の果たしてどれくらいの人がこの方の議論をどの程度「理解」(文字通りの「理解」という意味にとどめます)しているのかということになれば、これはかなり疑わしいのではないかと、自分も含めて思います。
“人種主義的”CMが含意する多くのこと
ロバート・キャンベルは「普段から新聞や本を読んでいれば差別と分かる。厳しく言えば教養がない」と。確かにそうとも言える。日本人のいわゆる「均質性」や「閉鎖性」は、特に海外から帰ってきたときには眩暈がするくらいでもある。良くも悪くも「人種」ということに関しては、世界の中でもかなり無頓着で無関心でいられたし、今もある程度はかなりそうであると言える。これは紛れもない事実。
ただ、このCM製作者や担当者も視聴者の大部分もこのサルがオバマ氏に喩え(られ)ているとは、努々思わなかったのではないか。softbankは白い犬をお父さんにして人気を博したくらいだし、人種差別という意図でないゆえに、これがサルである必然性もほとんどなく、単に、愛すべき小動物がマスコットとして“アメリカ大統領選挙の”真似を、“CHANGE”というキャッチフレーズを使っていれば本当にそれで良かったのだろう。大して意味のないCMで揚げ足を取られてしまった感が拭えない。
もうひとつは、日本人は、その「“西洋”に対する自虐的な劣等感」(かつてイエローモンキーとして揶揄、差別された経緯などを含め)から、“被害者”だからこそ、サルを擬人的に使用することに抵抗感が薄いのではないかという仮説。差別される/された側として、いわゆる白人よりも黒人にシンパシーを感じるがゆえに、サルを使用する日常性を彼らにあてはめることに「鈍感」であった・・・ちょっと無理があるか。でも白人/黒人&黄色人種という区切り方(があったとして)に安堵するというか、ホッとする人(本来はあってはならないはずのこの既存の枠組みを受容してもいいのではないかと思う人)はいないわけではないのではないかと思う。特に、プライオリティーやアドバンテージがこの「国際社会」において与えられていないという点において、簡単に言えば、痛みや弱みが分かち合えるという点において。
白人と黒人当事者には日本人には分からないような凄まじく生々しい歴史を背負っていて、今でもcontroversial issueであることには変わりなく、それでもなぜか学生同士でもコミュニティーが人種で分かれることが少なくないように、頭では理解していてもやはり・・・という人はいるのだろう。言ってみれば、完全に身体化され、内面化された「(被)差別(問題に対する)意識」がアレルギー反応を起こすように感じられてしまうのではないか、と。日本人にはそういう意識が稀有なために、かえってその「問題」にも気づかない。だから、今回の「問題」を「問題」だと感じるということは、「良いこと」だとも必ずしも言い切れないのでは。
キャンベルが言う「教養」はそういう意味では西洋近代的なものを多分に含んでいるのかも知れないし、やはり日本人や日本が「国際的」でないという証左にしかならないのかも知れない。今回、日本人は黒人に対して差別感情を白人が一般的に抱くよりも持っていない、ということを前提に考えてみた。
Monday, August 11, 2008
あの頃分かっていたこと
・・・柔道と関係なくてごめんなさい。でも、夫の谷選手がすごくいいことを言っていた。「僕には金に見える」。この夫婦は上手くやっていきそうだな。金メダルより、生涯のパートナーと愛する子供のほうが、よっぽど手に入れる(という言い方は嫌だけど)のは難しい。田村亮子は偉大だ。
Sunday, August 10, 2008
リアルなものを大切に
映画「となり町戦争」(2007,角川フィルムパートナーズ)
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/official/tonarimachi/ より
・・・という偶然のタイミングでたまたま(江口洋介が出ているから、映画として駄作でも江口洋介のPVとして堪能できるだろうから(!)というだけの理由で)観た本作。原作が評判だったらしいが手にはしていなかった。(原作は読んでいないし、今後も読まない前提で書く。)第17回「小説すばる新人賞」受賞作の同名小説だったらしい。選考委員の言葉【私はこの本が傑作であるという考えは変らない。(五木寛之)】 【このすばらしさを伝えるのは百万言費やしても不可能。(井上ひさし)】に激しく同意。確かに、井上ひさしが気に入りそうな話だとか(この方の文学的才能と政治的思想は分けて考えるべきだろう)、朝日新聞の熱心な読者が手放しで喜びそうな話だとかという批評があるけれども、それははっきり言って誤読だろう。映画のレビューには「意味が分からない」という類の理由で☆2つ程度の辛口採点が並ぶのだが、もう一度はっきり言うと、この映画(私には文学作品を評価する能力は持ち合わせていないので、専ら映画について語りたい。映画はそうであっても小説自体はそうでないという可能性は大いにあるので悪しからず。どの程度modifyされているかは把握していないという前提で。)は、観る人の世界観の矮小さを如実に反映させてしまう類の作品であるということ。さらにはっきり言えば、映画や小説としての完成度は問題じゃない。それを契機にどこまで想像力を働かせられるか、日ごろの問題意識がどれだけ鋭敏か、直球で(観る人によってはそうは受け止められないらしいけど)心臓にバンバン刺さってくるかどうかが試されている。1度観た後、心拍数が上がり、高揚感に打ちひしがれて2回目を観てしまった。映画自体は大したことはないかも知れない。しかし、それが分かる人に提示する世界の広がりと慎重なバランス感覚と、蒼く誠実に真摯にありたいが、その平均台の上でバランスを保つのが辛くなってしまう(この「辛い」という桎梏に対する葛藤がなければ、これはただの「戦争反対」映画なのだとイデオロギーを押し付けるしかないだろう。「悩み」を捨て去っていないということが観客の条件かも知れない。悩みのないただのサヨクシンパにはネオリベだ!とかしか叫べないかも。)人たちに贈る、かなり強力な、ギリギリのところで踏ん張ってくれている応援歌なのである。
以下、箇条書き。
・作者が公務員だったとあって、“お役所”らしさ全開。運転中の携帯電話禁止とか路上喫煙禁止とか住基ネットが極端な形で描かれ、さすがにファシズムだと言いたくなるのも無理からぬ感じがする。「広報まいさか」(舞台は舞坂市という設定)という柔らかなひらがなとのコントラスト。費用対効果と言いながら、ばかばかしい几帳面さ律儀さ。
・拒否権が形式上認められていても、拒否手続きの非現実性。「よくわからないのでそれでいいです」と言わしめる作法。
・「お役所コトバ」=「政治のコトバ」の美しいまでものレトリック。「正しい戦争」としての「業務」。「業務」をそのまま「政策」に置き換えればいい。「様々な選択肢の中から」決めたのだ。「失業とか、合併とか理由はいろいろあるんだろ。」「理由は複雑多岐に渡ります。」理由は多様だけれど、よく分からないけれど(実際専門家も政治家も誰一人把握していないことだってある。)と言いながらその内容を検討しない。わかりやすい戦争。「議会に決まったことですから」の「議会」を「国会」に置き換えればいい。「対森見町戦争説明会」とただの「下水道工事説明会」の近接性。民主主義の永遠の陥穽に対峙せざるをえない、選挙を拒否しても棄権しても投票しても「責任」が圧し掛かる。誰も逃れられない残酷さ。しかし、始まってしまったら誰にも止められない。戦争は殺し合いではない。結果として死者が出るだけ。その手を直接汚していないだけ。
・町のためになると思って役場に入った。「国のためを考えて」国Ⅰを目指す同輩たちにとやかく言う資格は私にはないけれど。行政や「公」や「国」や「役所」が悪だというわけでは全くない。それらが機能してこその市民生活。昨今の不当な官僚バッシングはよろしくない。ただ、問題はそこに構造的に孕む危うさをどの程度痛々しく自覚しているか、あとは本能的な部分かも知れない。 それでも国のことを考えたいんだ、という人種は好きだけれど。
・「闘争心育成樹」なんて分かりやすい名前で存在してくれないから難しいのだ。江口の台詞「ただのデカい杉。くだらない名前。そんなものなくても、どっしりと揺るぎなく存在しているじゃないか」。
・自称戦場カメラマンが江口を追い詰めて。「なんのために戦争するの?正義のため?愛する人のため?・・・どうしたの?思考停止!戦争はNOだと言った?じゃ、YESとはっきり言えるか?」
・原田知世「弟は誰かに殺されたわけじゃない。戦争という業務で死んでいった。」江口「業務なら戦争も許されるのか?」「嘘やでたらめで固められたもの・・・僕は戦争で色んな感情を失いました。」
・江口「リアルだったのは香西さんのことだけだった。」「戦争という業務が人の感情を奪うなら、そんな業務しちゃいけない。あきらめちゃいけないことはあるはずだ。」
・で、DVDを止めるとポニョのCMで宮崎駿が「半径3m以内に大事なものは全部ある」とね。目の前に大切なものはある。ああ、血縁以外で「大切なひと」が20代のうちくらいには現れて欲しいです、余談。
・http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060329で、原田演じる「香西さん」が私的なコトバと公的なコトバで揺れる様子、非アイヒマン的公務員の議論はいいと思う。アレントもっと読もう、クウェートで。
なかなかまとまって書けないけれども、妥協してこの辺で。色々議論を膨らませられるポイントが凝縮されているという意味でいい映画でした。江口洋介、演技力が特にあるわけじゃないんですけど、まじイイ男です。仕事の選び方が上手い。あ、別にファンだから映画に誘導されているわけではないので、念のため。
Friday, August 8, 2008
悼む
一昨日、急な豪雨で工事作業中にマンホールから流され亡くなった数人の男性たち。松本サリン事件の被害者、河野澄子さん。「我が家にとって松本サリン事件は、妻が元通りになるかどうかという戦いだった。戦いが終わる時は、妻が治るか、亡くなる時。今日は我が家にとっての事件が終わった日になった」(義行さん)・・・歴史の区切れ目。
機が熟す
結論が出なくても、それを延期するところがあっていい。「わかった!」というカタルシスを求めてしまうと問題設定も答えも歪む。討論や調整に時間や手間がかかるのを省き、「民意」に沿ったように見せかけるのは政治の自殺。「思考には溜めがいる」。「わからないことに耐えられない。すべてが説明できるとは限らないという苦痛をヒリヒリと感じ、息を詰めていないといけないということもある。わからないことへの感受性ををどう持ち続けるか。今、「時を駆る」時代。あらかじめやっておくとか、先を読むとか。答えを急いで出さず、問いを最後まで引き受ける。じっくり考えたり寝かせたり。機が熟すのを待つ。言葉をたどりながら、自分のなかに流れている時がじっくりと熟して、内容を腹の底から納得できるようになる。
鷲田さんは阪大総長になってしまって、一時はどうしたのかしらとも思ったけど、やっぱり偉大であります。じっくり、ゆっくり・・・そう言っていただけると助かります。
不幸よ、来い!
さらに現実逃避を続け、再放送のドラマ「アットホームダッド」につかまる。阿部寛演じる主人公の主夫が、33年連れ添った夫に、作った餃子の文句を今更言われ、娘宅に来た姑に対して「お義母さんは33年間餃子を作った。お義父さんはそれを33年間食べた。それでいいじゃないですか。」すごい、いい言葉だ。
愛だの恋だの
On passe souvent de l'amour a l'ambition, mais on ne revient guere de l'ambition a l'amour.
人はしばしば恋から野心に移行するが、野心から恋に戻ることはめったにない。
恋を治す薬はいくつかあるが、必ず効く薬は少しもない
Il y a plusieurs remedes qui guerissent de l'amour, mais il n'y en a point d'infaillibles.
もはや愛しあわなくなった時に、愛し合ったことを恥じない人はほとんどいない
Il n'y a guere de gens qui ne soient honteux de s'etre aimes quand
ils ne s'aiment plus.
テロリズム
On Suicide Bombing (Wellek Library Lectures) | |
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自爆テロ かり田 真司 青土社 2008-07-18 売り上げランキング : 182836 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
タラル・アサド、茢田真司訳、磯前順一解説『自爆テロ』(青土社、2008.8.11)頑張って発行日の前までに読もう。発行日の前に読むって結構いい感じである。おい、試験勉強はどうした・・・。
On Suicide Bombing, Talal Asad, Columbia University Press, Apr.13 2007
第一章「テロリズム」
・テロに対する組織的な暴力の行使=戦争?警察活動?・・・かつてヨーロッパでの「テロリズム」の行為者と異なり、現在のそれらは「現実にはリベラル・デモクラシー国家の市民であったり、その支配領域の住民であるとしても、外的存在とみなされている」(p.23)
・「イスラーム組織の暴力は(略)「正当な」意味での歴史に位置づけられていないために多くの人々には理解不能」(p.24)
・キリスト教徒対ムスリムの戦いは当初から善vs.悪の戦いと捉えられていたわけではないという歴史(p.25)
・ムスリムにとって「ジハード」≠「聖戦」だったこと。宗教的コンセンサスの欠如。(p.27)
・時にはキリスト教徒と連合したムスリムはムスリムと戦った。(p.27)
・ジハード教義の転換。ジハードの法的前提条件にはイスラームに対する真正の危機の存在と同時に、それに対する抵抗の成功可能性が含まれていなければならなかった(p.28)
→固定した文明的な価値を伝える自己充足的な社会などは存在しない。
→文明の衝突はありえない。(p.29)
・ローティ(Richard Rorty)への批判
ローティは「テロリストが西洋社会に対してもう一度大規模な攻撃を行うことによって、歴史的に発展して来た西洋デモクラシーの終焉がもたらされること」(p.31)を危惧していたが、「そこにあるのは、昨日まで自国における自由を促進して来た暴力が、今日では自由を密やかに抑圧しつつあるという変化」(p.32)。行為主体モデルから、暴力の循環、歴史的な空間の観念を用いる。
・ウォルツァー(Michael Walzer)への批判
・リベラルな政治の前提は暴力の問題と切り離し、政治の領域から暴力を排除し、戦争の領域に閉じ込めることが国家の第一の任務という前提。(p.35)
・「道徳的犯罪者」?(p.35)
・「繰り返しの技術」?(an art of repetition)(p.37)
←テロリスト自身も比例制の原則、軍事的必要、人道性で行動を語る(p.39)
←ウォルツァーの感覚:反映するリベラル・デモクラシーという政治的共同体とその経済的・軍事的成功に対する誇りを伴った自己同一化(p.42)
「テロリストの良心や弁明の誠実さは、彼らの行動を分析する際には、何の意味も持たない。他方で、軍事指令指揮官の誠実な良心は、不幸にして必要であった非人道的行為と戦争犯罪との区別にとって決定的」(p.46)
「テロリズム」・・・国家法の下での有責性+脆弱性の感覚を表象。(p.47)
特定の法的カテゴリーとして定義は難しい。創設された国家の権威の限界や、国家の権威に対して超背運する大衆運動の権利に関する、複雑な政治的な選択がなされなくてはならないから。
違いは、用いられる暴力の程度であって、その性質ではない(p.48)
テロリストと戦時の軍隊の区別で問題なのは、残酷さではなく、生活様式(a way of life)全体に対する脅威でもない。問題はその文明的な地位。リベラルな言説が非人道的行為を人道的行為に変換する工夫、これは野蛮な言説では不可能だが。(p.61)
第六感
今晩NHKで特集していたジョー・オダネル(Joe O'Donnell)は高校の英語の教科書に出てくるほど有名だけれど、彼が50回もの手術を重ねた老体に鞭打ち、全米からの非難を受け、奥さんと離婚してまで(のち、日本人と再婚)、原爆後数十年経ってから開けたトランクの写真に向き合った経緯は知らなかった。現在は、息子は遺志を受け継いでいる。今でもおそらく、アメリカで原爆についてアメリカの教科書の主張以外のことを言うのは本当に難しいだろう。映画『靖国』が右翼その他の妨害で多くの映画館が上映を取りやめた際に、日本にはデモクラシーがないのかと嘆いた論調が多かったが、その意味でアメリカにそのデモクラシーがあるかというと、あるとはなかなか言い切れない面が拭えないはずだ。まだ退役軍人(veterans)が存命であるうちは、特に。それほど、63年前の出来事は、血の通った生々しい近しいものなのに。
原爆に翻弄されたアメリカ人がここにもいたということ。反戦でも、非戦でも、サヨクでも左翼でもなんでもない。正しい戦争があるかどうか難しい議論じゃない。ただ単に、これはまずいだろうという感情。何かが違うという第六感。人を突き動かすのは結局そこなのだと。研ぎ澄ませ、己の第六感。
Wednesday, August 6, 2008
周辺の非日常
女の矜持
己を貫く核
ある価値観にもとづく効率からはみ出る時間を生きることが大切。(同、p.435)
問題の前で、これが問題だとわからない、という生き方は嫌だと思う。(大江健三郎、p.449)
多産的な悲しみ
ある永遠の序奏 青春の反逆と死 (角川文庫 お 58-1) | |
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大宅歩『ある永遠の序奏ー青春の反逆と死』(角川文庫、2008.7.25)
昭和48年出版の本書、先月再版。重松清が推していたので購入。表紙は舟越桂。最近の文庫は体裁が素晴らしいね。裏返せば商売上手。大宅は『二十歳のエチュード』の原口統三ほどは怪人ではないと思う。夭逝の詩人。一般人にも近づきやすい。この若さと蒼さがたまらない。いくつかご紹介。
「なすこともなく・・・」(p.6)
いうこと 一つ一つが嘘になる
なすこと一つ一つが罪になる
他人が なにであるかも
じぶんが 誰であるかも
とんとわからず
ただ喚きのたうちまわる
ただ夢見 眠りつづける
「冬の夜更けに」(p.12)
(略)
たちこめた
強くまるい力を
何ものの上に吐き出そうかと
(何ものの上にもない
何ものの上にも正しくない)
(略)
「沈黙!・・・」(p.74)
沈黙!
今の僕は 僕の人生は
そこから 出発しなければならない
そこで僕は反省する
己は如何にあるかを・・・
我々は決して
醜くない
周りに生きている人たちも
決して汚れてはいない
だが僕は考える
否 だからこそ僕は思うのだ
僕は沈黙に還元しなければならないと
(これ以上 人々を汚さないために
これ以上 人々をだまさないために)
「此の土地で・・・」(p.80)
此の土地で働くことの
いやになった人間は
何処か 桃色の世界を
夢みている
”そんな子供のような”という
幻想を誰もが抱くものだ
他人がみたら笑うだろう
だが
他人に笑われない人生を送った
人は
笑われ通して送った人生よりも
何層倍か不幸だということを
笑われない人は知らない
――此の土地で傷付いた俺は
その人々を笑ってやろう
だが それは自嘲だった 自嘲だった
俺には桃色の国がないのだ
~~~~~~~~~~~~~~~~
箴言集
未来も過去も現在さえも考えることができず、盲目と同じでありながら、もっと悪いことに、苦痛を背負っている(p.170)
イマジネーションの飽和は必ずしも実行を意味しない(p.170)
真理を真摯に求めることは所詮嘘をつくことである(p.171)
「何故に」「何ういう目的で」という函数で人生を微分する難しさ。人生の夥しい実根、虚根。それらにふさわしい対数計算はないだろうか。(p.175)
人間は常に学問に支配されている。さもなくば完全に学問と離反している。丁度若い男女のように”好きだ、嫌いだ”の両端に我々はいる。(p.185)
僕が生きることを考えすぎる人間でありすぎて、生き抜く人間ではなかったということ(p.188)
僕の文章――けばけばしく粧(よそお)った醜い淑女。それでも、時によって僕は彼女に惚れることがあるのだ。(p.200)
ぼくの弁証法。
否定。肯定。そして大いなる否定。(p.208)
(略)現代においては、信じるということは全て狂気であり、疑うという消極的な思惟だけが、正常なものといわれるのだ。はたして、このような世の中で、狂気でない人間が存在するだろうか。(略)(p.247)
社会革命家は、その必然的な真理のために行動するという美名の下に、ヒロイズムと自己陶酔を持っているのだ。これに反し、文学者はそのような真理を信じることが出来ずにも、自己の人生の幸福を捨てきらなければならない。(p.250)
反倫理的な倫理。非倫理的な倫理(p.267)
神を信じるということでさえもが、荒れ果てた僕の心にとっては、精神の虚栄のように思われるのです(p.280)
La tristesse seule est féconde en grandes choses. (悲しみだけがなによりも多産的だ)(p.281)
~~~~~~~~~~~~~~~~
はぁ。こういうの、大好きです。
「おしどり」夫婦
「最近、感動したこと」(800字)
鬱屈して見える、変化のない退屈で単調な日常ほど貴重なものはなく、その存在自体は奇跡なのだと気づくときには、大体「遅すぎた」というため息がついて出ることが多いもの。しかし、そんな試行錯誤もなければ、反抗もせずに、じっと「そこにいる」尊さをよく知っているのは人間以外のものであるといえるかも知れない。しかも、自分は生きているのではなく、誰かや何かに生かされてすぎないと自覚しているものは。
通学路として毎日通る上野公園では、様々な動植物が現代人の目を楽しませている。ある朝、重苦しい雲から、しとしとと冷たい雨がこぼれている午前八時のこと。めがね橋のたもとで、二羽のカモが身を寄せ合っていた。彼らの仲間ははるか彼方にいる。間違いなく二羽同士異なった種類で、大きさも違う。私は立ち止まって立ち止まって目を凝らした。寒さにぶるぶる震えながら、まるで夫婦か恋人のように完全にお互いを信頼し、身を寄せ合っている。
種類は違っても、鳥は鳥だからと言えるだろうか。国籍や民族が違っても人間は人間だ、というスローガンの正当性に誰もがうなずいても、職業や生い立ち、経済状況の違いを乗り越えて、お互いを理解し心から信頼しあうことの難しさには、実感を伴うがゆえに押し黙る人は多いはずだ。人は一人では生きていけない。しかし、だからこそそこに可能性がある。日々に忙殺されていると見失いがちな当たり前のこの事実に気づかされたら、もっと周囲の人を大切にできるはずなのに。
次の朝、なんとほぼ同じところにまだ二羽がいた。けがをして動けないわけではない。晴れ上がった空の下で付かず離れず一緒にいる。there isよりもil y aとして、「そこにいる」というよりはもはや「存在を持って」いる。変わらぬ日常の中でこそどっしりと自分の存在を持ちこたえられなければ、不満をかこっても明るい未来が来るわけではない。できなければ誰かに助けてもらえばいい。私はそこに立ち尽くしていた。
Tuesday, August 5, 2008
自己に向き合えば
「大学でがんばったこと」という判で押したようなお題に対してどうして皆一様に、サークル、ボランティア、バイトの3拍子になるのか。「自己分析」なんていう、鳥肌が立つような、身の毛のよだつような、如何わしい語句の取り合わせになぜ誰も何も言わないのだ。「自己分析」は大事です、「自己分析」をするにはまず「自分史」を作って、自分にとって何が大事で大事でないのか考えましょう・・・etc、確かに言いたいことは分かるが、「自己」が「分析」可能な対象であると前提にしてかかっているところで何ともあさましい、傲慢である。「自己」は向き合うもの。それ以上でもそれ以下でもない。
就活のプロセスにおける様々な出来事は「大人」になるためには極めて有効だと確かに思う。勉強になる。しかし、まぁ、就活言説に汚染されすぎではないかとも思える今日この頃。規格外の人間を雇う余裕のある企業はおらんかね。
プログラムの過程で、相手を褒めあう時間が設定されていたりする。人間、褒めようと思えば誰でも褒められる。これくらい生きてくればさすがに濃淡はあれ、個性というものがあったりなかったりするわけだから。問題はその後。「就活仲間を作ろう!」というのがコンセプトらしく、連れ立って夕食に行く面々。「就活仲間」なんてこれまたキモい語彙をどうしていけしゃあしゃあと受容する?結局軽いノリの方々が六本木の闇に消えていった。
プログラム中は義務があって話していただけ。その後でも話したいと思えるような人はなかなか見つかるものじゃない。生きる世界が違う。着るものも見るものも違う。コードが違いすぎる。伝達・理解不可能性の前で立ちすくんでいていいですか?静かに、悲観も楽観もせずに見守っていていいですか?殻に閉じこもるのではなくて、ただただ、温かく彼らを見つめるだけ。
400字で私が分かってたまるか。市場よ、我を排除したまえ。喜んで受けて立とう。・・・なーんて。やろうと思えば、「企業の欲しい人材」に私は一時的に扮することができる。そこそこのところから内定ももらえるだろう。しかし、しかしだよ。私には「利潤」も「利益」も「会社に奉仕」も「ビジネス感覚」も「営業」も「コンサル的ロジカル思考」も合わない。身体が拒否している。これはかなり観察可能な紛れもない事実だ。もう他の人に任せる。頑張ってくれたまえ。
my SOP
今後、クウェート政府奨学金に出願される方々のために参考になれば。
《My SOP》
When I recognized the enormous importance of the Arab world and influential existence of Islam as a religion was the critical moment that two hijacked airplanes crashed into the World Trade Center, at my age of 14. Since then, I have keenly focused my interest in international relations, concerning how to make and maintain peace and order and whether it is possible or not to share values among people in different beliefs to the extent not to threaten others’ lives. This is the most fundamental reason that now I major in Politics in the University of Tokyo, and I have made it a rule to backpack in as many countries as I can and do fieldwork in order to put theory into practice and to try to get rid of my prejudices and stereotypes. The encounter with the actual Arab world, not on the drawing board, was when I visited my Syrian pen-pal last spring. Not only its culture and their life style but also political situations such as a big protest demonstration against the Israeli attacks to Gaza made a strong impression on me. Since even only people who were able to speak English gave me views and information which are seldom reported to outsiders, I believe that I must have been able to grasp the real meanings and concepts they used and to understand the live voices of the people in Arabic if I had a good command of it. Like this, I observed these glaring discrepancies of outlooks on occurrences in the Arab world between the inside and the outside of it, talking with Syrian people and refugees from Iraq. Of course this is highly probable in any languages and countries, but it seems that the international world needs more specialists with knowledge of Arabic, especially who come and go between academism and journalism, when we bear in mind the urgent importance of the Arab world and Islam in the contemporary world situation on power politics and economical structures over ballooning oil prices and prevailing discourses to connect directly “terrorism” or “fundamentalists” with the Arab people, Islam or Middle East, etc. As a fact that there can never be no appropriate comprehensive regional concept for the Arab world, Islam and Middle East shows, “the part of the world” is coming to have more so multi-tiered structures that we tend to easily produce discrepancies by ignorance, lack of imaginations, inappreciation and fixed ideas.
Ever since I can remember, I have had a strong sense of justice and responsibility, power of action, intellectual curiosity on different cultures and a spirit of inquiry especially on conflicts in the world. These came to be displayed in my days at Otone junior high school from 2000 to 2003, such as works as the vice president of student council, volunteer activities at an old people’s home and visiting Australia as a member of the town delegations, the experience of which was organized into a manuscript on the life and history of Aborigine for an English speech contest, which I won. From 2003 to 2006, I studied at Saitama Prefectural Fudooka High School, and the club activities I was absorbed in, such as Koto, Japanese traditional instrument, and Shodo, Japanese calligraphy, reinforced my identity as a Japanese and led me to the All-Japan High School Student National Competition, which was enough to make me believe that my Shodo ability, once evaluated as a semi-professional level, would contribute to comparative culture, particularly from views of a notion of space, time and color in Arabic calligraphy. From 2006 to 2008, in a liberal arts curriculum of the University of Tokyo, I made utmost efforts to enrich my education by studying a variety of fields, such as Political Science, Law, Philosophy of Law and Politics, International Relations, Classical and Contemporary Philosophy of the East and the West, History, Religious Studies, Psychology, Economics, Sociology, Literature and Environmental Science, etc. As for languages, my TOEFL iBT score is 88, and I feel no inconvenience especially in reading French, though my other French skills leave much to be desired. It will make a quite positive contribution to work for not a few countries whose official languages contain both French and Arabic. As to German, it takes a long time to read, but it is possible. Lastly, as for my Arabic learning experience, I took classes in my university in 2006 and now I attend the Arabic class at Asahi Culture Center, but I have to admit the necessity to learn it much more intensively in order to rise above a beginner’s level and its almost impossibility to acquire a good Arabic speaking skill in Japan. From 2008, I moved up to the Faculty of Law, in which I major Politics, now I mainly study bases of Laws and Politics as compulsory subjects, but I plan to take also Islam and Arabic related classes after that, such as Islam Law, Middle Eastern Studies and Arabic Thoughts and History, etc.
After acquiring excellent Arabic language skills in Kuwait, graduating from my university and getting a master’s degree in International Relations, Peace Studies or Middle East Studies, I have some plans to contribute to “the part of the world” in the view of human security. (1) Working in the institution in Japan such as Japan International Cooperation Agency (JICA), where I deal with Official Development Assistance (ODA) and help people in “the part of the world” improve their quality of life, Japan Bank for International Cooperation (JBIC), where I promote the relations on resource management in an economical administration among oil-producing countries, including Kuwait, and Japan, or Japan External Trade Organization (JETRO), where I make efforts to establish the win-win relations in trades. (2) Entering the diplomatic service, and working in Middle East Division or working as a staff on the U.N., away from the Japanese national interest, in peace building and administrative sector for the region after making enough career and experiences. (3) Continuing to research Middle East’s political situation as a scholar in universities or a researcher at think tanks or sometimes reporting and writing articles in the media as a journalist. For an instance, topics for study are; Conditions and Possibilities of Liberal and Democratic Government in Monarchy As a Example of Kuwait, Political Stability with Resource Diplomacy and the Balance of Political Forces in Middle East, centering on Kuwait and Saudi Arabia, etc.
For these reasons, I desire earnestly to enroll in the Arabic Language program at Kuwait University, perfectly concentrate on mastering Arabic, make great friends from not only Kuwait but also other Arabic countries and experience and observe the real, one-year-long life in Kuwait, which is the economical and political key place in the region.
Saturday, August 2, 2008
国家を歌え
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バトラー、スピヴァク『国家を歌うのは誰か?グローバルステイトにおける言語・政治・帰属』(岩波書店、2008,5)
Who Sings The Nation-State? Language, Politics, Belonging, Judith Butler and Gayatri Chakravorty Spivak, Seagull Books London,2007
気になった部分を抜き出してみる(適宜改変)。
・生は、「剥き出し」だと考えられるのか。性はすでに不可逆的に政治敵領域に参入していたのでは。(p.26)
・放棄された生―追放と包摂の両方を受けている生―は、市民性を奪われた瞬間に、まさに権力にどっぷりと浸かる(p.28)
・こういった生は「剥き出しの生」という画一的なものの事例ではなく、追放のきわめて法制的状態(ステイト)なのだ(p.29)
・人権の心情の前提には、個人が(自然)状態に戻るときには、そこには譲り渡すことのできない権利があり、それこそ専制的支配から個人を守る根拠だという見方がある。アレントはこれをこれを批判し、ナショナリズムが既存の国民国家を覆っているときには、人間的なものそれ自体の完全な欠落が出現しているという。(バトラー)アレントはルソーの(自然)状態の仮説を字義通りに受け取りすぎる。ルソーは(自然)状態に対して具体的な場所も時も与えていない。(pp.31-32)
・自由は要求の前ではなく、行使の中にだけ存在しうる。(p.34)
・米国国歌をスペイン語で歌うこと。国歌を歌う権利、所有の権利、多様な帰属形態。複数性の表明。(p.43)
・変化をもたらすラディカルね政治にはパフォーマティヴな矛盾がつきもの。歌っている人たちは、(自然)状態から歌っているわけではない。(p.49)
・(スピヴァク)コズモポリタン的普遍主義はグローバルな民主主義の未来を生み出さない。国歌はわたしたちの味方になりうるので、守るべき最小単位の抽象的構造。(p.72)
・カント、倫理的「国家(ステイト)」を思考することは不可能。(p.73)
・主権を「交渉可能な」ものとして語る。(p.79)
・歴史は権力の外側の存在論的状況に置かれている人が一人もいない。(p.87)
靄
文章よりはその行間から苦悩が滲む感じが。難解語や外国語も駆使して尚残る伝達不可能な思考の靄・・・まだまあ深くなるし、それは文字通り身体に纏うものかと。クウェート帰りの深さで話をするのが凄い楽しみだ。
深くは全くないし、大人にならなければとももちろん思うけど、一方でやはりこの「青さ」を失ったら人間つまらなくなるんじゃないかという残念な恐怖もある。皆、伝達不可能性を抱えて生きなきゃならない。どんなに説明しても、煌びやかな語彙が空しく並ぶだけ。大変だな、この世は。
生身の人間
「男はどうもイデオロギーに縛られつまらない抽象論に逃げ込んで生身の人間を見ようとしない傾向がある」(p.101)
そうなんだよねー。脳の作りが違うと言われれば見も蓋もないが、どうして男はこうなのか。
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don't or can't
レストランで日本人女性店員がこれまた相手が外国人であることを臆せず、すらすらと流暢な日本語でおすすめメニューの解説をする。それに対してアメリカ人客が怪訝そうに"I don't speak Japanese."と。ひと悶着あって、とりあえず料理が来て食べる。すると店員はデザートは食後がいいかどうか聞いてくる。客は(この日本人は私が日本語を解さないことを分かっていないのか?!)と、リアクションに困って、"Ah.......I , DON'T understand Japanese..."、それでもなお説明を続ける店員。どうにか対処しようとするその客に対して、もうひとりの客が"Forget it!"と言ってCMは終わる。
安易な単純化、一般化はしたくないが、こういう構図に透けて見えるアメリカ人ー日本人、英語(ヨーロッパ言語)ー日本語、西洋ーアジアetcという断絶が、米軍が駐留しているという現実に被さって、なんとも痛々しい。
アメリカという国やアメリカ人という人たちに対して、ことさら特別な感情があるわけではないし、長年メールのやり取りをする友達もいるが、ある種の人々に見られるあの傲慢さはどうにかならないかと思う。海外で身内で固まってしか動けないワースト1は中国人(そもそもツアー以外に個人外国旅行がそこまで自由ではないから、というLSEの中国人留学生の説明)か日本人(中高年ならまだしも、大学生で生協、HIS等ラクラクツアーでぞろぞろ日本語でしゃべりながら「旅」してる~!と楽しんでいらっしゃるのは救いようがない)のような気がするが、アメリカ人もそれに劣らないのではないかと最近思う。彼らはツアーではなくグループ行動を好むようだが、英語以外を話して(別に英語でもいいけれど)他の旅行者や現地の人の交流しようとしているアメリカ人をまだ見たことがない。アメリカ人の友達によると、他言語への寛容性が低く、世界観が極めて矮小でアメリカがどこか中心だと思っている輩は多い、との分析。ある調査でアメリカの人口を10億と答えた人が何割だったとか。
日本の英語教育を批判しても仕方ないのだが、最近は"Can you speak English?"は相手の能力を問うゆえに失礼だから"Do you speak English?"にしなさいという傾向が強いように思う。ところが、ところが、私自身は"Do you"なんて訊かれたことがない。いつも"Can you"だから、ネイティヴにとってはそういうものなのかも知れないが、どういうつもりで使っているのか首を傾げたくなる。"Can you"と訊かれると、奥ゆかしくて消極的で謙遜上手の(!)日本人である私は"a little bit."なんて答えるしかない。そのあとでべらべら話せば、きまって日本人だから話せないと思った、とか言い始める。おお、日本人よ。
"Can you-?"と訊く彼らはそれで、答えるときは紛れもなく"I don't speak."なのだ。ああ、やりきれない。そうそう、旅先で話が続くネイティヴ英語話者は大体、Australia, NZ, Canada, UKであって、なぜかUSではないことにやはりため息しかつくものはない。
私はいつだって現地語(カンボジア語でもタイ語でもベトナム語でも口語アラビア語でもポーランド語でもなんでもいいけれど)が話せないことをまず謝る。"Sorry, I CAN'T speak ---."と。I can't と言える強さって実は意外と大事なものかも知れない。
Friday, August 1, 2008
不倫と公共心
なぜか興奮して寝付けずに夜を明かしてしまったので、くだらないことをば。
山本モナの不倫騒動に続き、渡辺アナウンサーという人が不倫したとかで、非難・バッシングが多いんだと。皆さんお暇なようで結構なことだが(失業等でお暇なのなら結構なことではないけれど)、眉をひそめる方々は①不倫なんて不道徳だ、みんなすべきでない②一般人はともかく、不道徳な不倫を公共の電波に乗るアナウンサーともあろう職業に就く人が行うなんて特にけしからん、のどちらの声を上げているのでしょう。
どちらにしても①’不倫は不道徳であるという価値観がある種の「共通観念」として今もこの日本でなお有効であり、他人に対してその性道徳の遵守を強要することが少なくとも当然と見なされる文化があること②’一般の人と職業に公共性を帯びる人で遵守すべき道徳観念のレヴェルが異なるということが前提とされていること、の2点が明確となった。これを前時代的であるとかアジア的と呼ぶ必要は特にないと思われる。良くも悪くもそれが今の日本なのだろう。
個人的には降板とか謝罪とかは行き過ぎで奇妙に思われた。不倫している(のであろう)人結構見かけるけど。だからといって、古き良き日本人の道徳が失われたと叫んでも仕方ない。時代は移り行くものよ。不倫のない社会より不倫のある社会のほうが多様性とか可能性があって建前としてはいいなぁ。とはいっても、なかなか実際不倫って難しいのではと思ってしまうが。所詮他人事。
無意味な逡巡
昨日、クウェート政府奨学金の合格通知をいただいた。関係する方々にご報告のメールを打ちまくり、なんだか気分が高揚して、普通の試験勉強(民法とか)が手につかなかった。(outgoingな性格ではないし、「人脈」もないけれど)本当に色々な人にお世話になって、色々な人のつながりの中に生きさせてもらっていると痛感。初めての長期海外生活、しかも米英とかではなくて、ちょっとミステリアスなお国。しかも今年は現地着の9月にいきなりラマダーン。イスラームには個人的にまだまだ謎が多い。食べ物とか気候とか持病がどうなるか不安がないと言えば嘘になる。でも、1年間そんなところで生活したら、かなり月並みだが色々考えるところはあるし、これまた月並みで使いたくないけど「成長」する部分は大きいと思う。(無条件に人間が常に発展、成長の方向に向かう・・・というセオリーには完全には同調したくないところがある。完全に「未発達⇔発達」という構図がすべてに適用されるわけではないし、そもそもある一定のものさしを持ち込んで「自分は成長したな」と高みから見下ろしたくなるような気分が危険だと、自戒を込めて強く思っている。)
1年間休学を余儀なくされるわけで、帰って来るとこの3年の初秋で、同級生は進路も決まった状態なわけだ。1年くらい人生60-80年と考えればどうってことはないのだが(そもそも明日の命がどうなるか分かったものではないが)、極めて重要な時期であるだけに、自分の行く末を心配しないわけがない。
linga francaとしての英語はますます世界を席巻し(とはいえ英語の通じない地域はものすごく多い)、アラビア語を普通の日本人が話せる必要などほとんど、というか全くない。就職が有利になるわけでもない(留学やアラビア語習得を通して得たものや考え方は活きるだろうけど)。何でもそうだが、how to speak ではなくてwhat to do, what to speakの問題である。
何人かの友人は研究職を勧めてくれるけど、自分がどこまで通用するのか全くもって検討がつかない。私がこのブログのいち読者だったら、どう客観的に見ても、この程度のアタマで院ですか、笑っちゃうぜという評価しか下せないと思う。実際、この程度だったらブックマークすらしない。本も(量、質ともに)そんなに読めない。アタマがちっちゃい。周りには飛び抜けて優秀な人々が数多くいるし、文系大学院修了者の就職状況の厳しさは耳タコ。どこもそうだろうけど、研究者の世界もクロいらしい。そんなstressful lifeを自分が送れるとは思えない。いつまでも親の世話になっていられない。かと言って奨学金という名の借金を重ねる勇気も皆無。優秀でかつ努力家の院進学&在学の先輩方は納得だけれど、しょぼいレジュメを作って来たり、はっきり言って将来を心配してさしあげたくなる院生も相当数いる。こう言っては申し訳ないが、いわゆるFランクの大学生でお門違いの発言をする人もいる。己の実力を認識、判断するのも実力のうち。分かっていないからバカなのだ(これはもちろん自分に対して)。己のオツムを見てみろ!
他人のことなら冷静に考えられるのだ。自分のことは分からない。自分にしかできないことがあるとはさすがに思っていないけど、自分が携わったほうが比較したときに色々betterではないかと思えるようなことなんて・・・ないか。大人にならなきゃと思う。いつまでもピーターパンなんて、働いている同世代に顔向けができない。使えない人間にはなりたくない。自滅したくない。(挫折したことのない人間が言いそうな台詞だが)取り返しのつかない(と思われるような)失敗は避けたい。
日本にいるとこんなちっぽけなことで堂々巡り。ちょっと旅行すると各国の大学院生やgap yearを謳歌して、日本的価値観(履歴書の空白を恐れる)なんてどこ吹く風的若者と多く出会う。でも・・・私は日本で生まれ育ち、これからも主に日本で生きていくしかない人間なのだ。こういうことに逡巡する時点で器がちっちゃい。大成する人は(以下略)。
Anyway,1年じっくり考えるチャンスを得たことには変わりない。日本の外に出る回数と期間が増えるほど、日本のマーケットに不適応人間になってくる事実には目を背けてはいけないけれど。
p.s.昨日の宇都宮線で、そんなに仕事ができるようには見えない20代の女性が上司と見られる男性に、最近週に2,3回日経を読むようになったと嬉しそうに誇らしげに報告していた。なんでも、これで取引先との会話に参加できるそうだ。日経の面白さは年季が入らないと分からないとはよく言われる。「政治面は要らないんですけどね」と笑う彼女に、疎外感というか(自分に対する)敗北感というか、要するにガッカリな、ショボーンな、ため息な感情とともに、批判される用意は出来ている的な開き直りをしたがる己が情けなく、結局、どちらに避難するも逃げ込む勇気も覚悟も持ち合わせていないことに、また違ったため息をつくしかないのか。
p.s 2,出発まであと1ヶ月わずかというドタバタ感がアラブチックなテキトーさゆえで(今のところは)微笑ましいのだけれど、1ヶ月しかないと思うと(試験勉強が第一なのだが)日本の風景、匂い、肌触り、音、温度、家族、友達etcがとてつもなく尊くて尊くて、今この瞬間を捕まえて冷凍保存できないことの当たり前さが切なくて悔しい。何だかんだ言って好き勝手させてもらっているこの環境は本当に恵まれている。失って初めて分かる・・・とか、離れて初めて分かる家族の・・・とか、使い古されすぎて嫌になるけど、実際そうなのだろう。病気にならなきゃその人の気持ちは分からないし、その立場になってみないと何とも結局言えないのだ。どうして人間はこんなに単純で、複雑で、単純なんだろう。
p.s 3,余命1ヶ月ではないけれど、日本の書籍が読みたいときに手に入らなくなる不自由さを考えると身が悶える。いつでも読めるからと積ん読しておいた書籍らが急に愛おしくなる。人間と一緒だね。しかし知的枯渇感というのはどうしようもなく救いようがない。情報統制が程度の差こそあれ実施されているアラブ諸国(ちなみにシリアの友達はこのブログにアクセスできない。you tubeの一部もしかり)で、自分の知らないところでインターネットの検索結果に操作が加えられているなんて、自分だけアクセスできないなんて、歯がゆくてもどかしくて仕方ない。クウェートはそこまでではないはずだが、それでも・・・。「○○する自由」に慣れきった私(たち)がそれらの限りなく制限された(クウェートでは女性参政権は2005年から。これはまだいい方)ところへ行くと精神的にどうかなってしまうのでは。(アフガンでは女性医師はいない。女性は夫、兄、息子を通じて症状を医師に伝えて診断を仰ぐ。パスポートが自由に取れる国だって実はそんなに多くない。)切りがないからこの辺にしよう。旅立ちはかくも悩ましいものだ。