女は自分の魅せ方を知っている――ベトナム人女性のアオザイは彼女らの細さ、可憐さ、純情さといった美しさを存分に引き出すためにある。ムスリム女性のスカーフは、特に中東系の顔立ちの場合、髪を隠すことでより彼女らの彫りの深い、吸い込まれそうな深い瞳の魅力を増大させる。ザ・日本人のアジア系の扁平な顔でスカーフを被ったら目も当てられないくらい貧相だ。(マレー系だと日本人よりは多少顔立ちがはっきりしていて似合う)どちらも本物に囲まれればため息が出るほど。 (非アラブ系のムスリム女性の存在を否定しているわけでは全くない、念のため。)
私がなぜ就活から逃げるか、逃避の理由付けを何に押し付けていたか思い出した。容姿だ。①日本において容姿や見てくれは諸外国に比べてもかなり重要視される。入念に化粧を施し、elaboratedな衣装に身を包まないと「ダサくて」「イケてない」として白い目で見られる(=異質なものに対して排除的であることにつながりやすい)のは特に日本と韓国ではないかと思う。もちろん例外はあるが(ロシア人のイケイケ系のスタイルのいい女の子は日韓と同じだと思ったけれど)、気張ったファッションに身を包んでいるのは大体、日韓の女の子と言っても問題にはならないはず。アメリカ人女性の多くはパンストを日常的には履かないらしいし、薄化粧の人もかなり多いし、日本人から見れば服装はかなり適当である。キャミ1枚で大学とか、お腹の肉がベルトに乗ってるとかは余裕。この緩さに慣れると日本に帰って来られない日本人女性は少なくない。something different に対して、移民大国アメリカはやはり日本とは段違いに寛容だということなのか。具体的に言おう、It doesn't matter how my skin condition is there. だろうということ。 もちろん、実際のところはどうだか知らないが、あくまで印象論として。比較の問題として。②日本人女性の場合、有能な人は容姿も美しい場合が多い。その逆は必ずしも真とは言えないが、少なくともかなりの肥満体系でバリバリのキャリアウーマンという人を見かけるのは困難だ。(もちろん、醜いものは悪としての社会的圧力から表に出ていないだけという可能性は大いにあるが)反対に、例えばアメリカやヨーロッパ系で、お世辞にも日本的基準では美しいとは言えない人がその能力を認められてバリバリ働いているというケースはよく見聞きする。有能→美人という図式は真か、それは日本人にあてはまるのか、そうでないのか。ただの社会的風習や文化の問題か。後者ならば私のこのエントリーはただの僻みや愚痴や文句になってしまうし、前者ならば諦めと妥協にしかならない。
思いつくままに書いて来たが(なんだかあまりいい文章が書けない)、要は同じ就活中の女の子たちを見ると、優秀な人ほど美しい人が多くて、とてもとても隣には並べないと痛感するのだ。就活用の写真、就活用メイク・・・。写真を撮ればお化けでしかないし、メイクはできない。メイクは教養だ、とはかつてゼミで同じだった素晴らしく美しい子がその煌く笑顔で訴えたことだ。メイクは社会人の最低限のマナーとは、巷の就活本が挙ってフィーチャーすること。私には教養もマナーもないけれど、ぐだぐだと書き綴って来て、結局問題にしたいのは、その教養やマナーの無さをも凌駕しカヴァーする能力がないという厳然たる事実なのだ。何もない!je n'ai rien!
外見でも能力でもundeserved to be employed in a market.(※)なら、「小生は自ら顧みてどうしても学問に趣く可きものと存じ候」(北岡伸一『清沢洌:外交評論の運命』(増補版、中公新書)p10)なんて本気で言えたらどれだけ格好いいか。「私はイズムと公定式によつて生きうるものの気楽さを羨んでゐる」(同、p42)。可愛い顔をしていれば、イズムに染まっても染まっていなくてもどちらでも許される。イズムの醜悪さは容姿の醜悪さに誘導されないか。イズムがないことの喪失感や欠如も、容姿が醜悪ゆえの喪失感や欠如に由来しないか。
とはいえ、性質(たち)が悪いのは、問題は中身だということを認識していると言いながら、それでも外見の要素を捨て切れないでいる醜い者の入れ子構造だ。もしかしたら、もっと性質(たち)が悪いのは、肌の状態によって多少醜悪さの程度を行き来し、外見と中身の相関関係(心が美しい人は外見も美しい、能力のある人は外見も美しいetc)を肯定してみたり、否定してみたり、はたまた肯定と否定の入れ子構造になっているのいないだのと、無理に客観視したつもりになって公的なブログの場でわざわざ披露し、しかもそれを認識している・・・という無限ループに嵌っていることを認識しつつ・・・というto be continuedな私のような人間であることは、髪を隠しても十分美しくいられる中東の姫たちには想像もつかないことかも知れない。髪は隠されるべきものではなく、私にとって顔や首を隠すorフォローするべきものでしかないのだから。 (フォローになってないぜという突っ込みはさておき)
(※)Oops, it is needless to say that this blog is not worthy of existence. It depends on the way I live my life whether this extent spreads to "my" existence. Of course, the meanings of all the people's existences other than me are always unconditionally guaranteed by "me"!・・・You can take this as my dark joke, but this may not be a kind of too-much-humility-is-pride.
Tuesday, August 19, 2008
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