《A meaningless hesitation》
昨日、クウェート政府奨学金の合格通知をいただいた。関係する方々にご報告のメールを打ちまくり、なんだか気分が高揚して、普通の試験勉強(民法とか)が手につかなかった。(outgoingな性格ではないし、「人脈」もないけれど)本当に色々な人にお世話になって、色々な人のつながりの中に生きさせてもらっていると痛感。初めての長期海外生活、しかも米英とかではなくて、ちょっとミステリアスなお国。しかも今年は現地着の9月にいきなりラマダーン。イスラームには個人的にまだまだ謎が多い。食べ物とか気候とか持病がどうなるか不安がないと言えば嘘になる。でも、1年間そんなところで生活したら、かなり月並みだが色々考えるところはあるし、これまた月並みで使いたくないけど「成長」する部分は大きいと思う。(無条件に人間が常に発展、成長の方向に向かう・・・というセオリーには完全には同調したくないところがある。完全に「未発達⇔発達」という構図がすべてに適用されるわけではないし、そもそもある一定のものさしを持ち込んで「自分は成長したな」と高みから見下ろしたくなるような気分が危険だと、自戒を込めて強く思っている。)
1年間休学を余儀なくされるわけで、帰って来るとこの3年の初秋で、同級生は進路も決まった状態なわけだ。1年くらい人生60-80年と考えればどうってことはないのだが(そもそも明日の命がどうなるか分かったものではないが)、極めて重要な時期であるだけに、自分の行く末を心配しないわけがない。
linga francaとしての英語はますます世界を席巻し(とはいえ英語の通じない地域はものすごく多い)、アラビア語を普通の日本人が話せる必要などほとんど、というか全くない。就職が有利になるわけでもない(留学やアラビア語習得を通して得たものや考え方は活きるだろうけど)。何でもそうだが、how to speak ではなくてwhat to do, what to speakの問題である。
何人かの友人は研究職を勧めてくれるけど、自分がどこまで通用するのか全くもって検討がつかない。私がこのブログのいち読者だったら、どう客観的に見ても、この程度のアタマで院ですか、笑っちゃうぜという評価しか下せないと思う。実際、この程度だったらブックマークすらしない。本も(量、質ともに)そんなに読めない。アタマがちっちゃい。周りには飛び抜けて優秀な人々が数多くいるし、文系大学院修了者の就職状況の厳しさは耳タコ。どこもそうだろうけど、研究者の世界もクロいらしい。そんなstressful lifeを自分が送れるとは思えない。いつまでも親の世話になっていられない。かと言って奨学金という名の借金を重ねる勇気も皆無。優秀でかつ努力家の院進学&在学の先輩方は納得だけれど、しょぼいレジュメを作って来たり、はっきり言って将来を心配してさしあげたくなる院生も相当数いる。こう言っては申し訳ないが、いわゆるFランクの大学生でお門違いの発言をする人もいる。己の実力を認識、判断するのも実力のうち。分かっていないからバカなのだ(これはもちろん自分に対して)。己のオツムを見てみろ!
他人のことなら冷静に考えられるのだ。自分のことは分からない。自分にしかできないことがあるとはさすがに思っていないけど、自分が携わったほうが比較したときに色々betterではないかと思えるようなことなんて・・・ないか。大人にならなきゃと思う。いつまでもピーターパンなんて、働いている同世代に顔向けができない。使えない人間にはなりたくない。自滅したくない。(挫折したことのない人間が言いそうな台詞だが)取り返しのつかない(と思われるような)失敗は避けたい。
日本にいるとこんなちっぽけなことで堂々巡り。ちょっと旅行すると各国の大学院生やgap yearを謳歌して、日本的価値観(履歴書の空白を恐れる)なんてどこ吹く風的若者と多く出会う。でも・・・私は日本で生まれ育ち、これからも主に日本で生きていくしかない人間なのだ。こういうことに逡巡する時点で器がちっちゃい。大成する人は(以下略)。
Anyway,1年じっくり考えるチャンスを得たことには変わりない。日本の外に出る回数と期間が増えるほど、日本のマーケットに不適応人間になってくる事実には目を背けてはいけないけれど。
p.s.昨日の宇都宮線で、そんなに仕事ができるようには見えない20代の女性が上司と見られる男性に、最近週に2,3回日経を読むようになったと嬉しそうに誇らしげに報告していた。なんでも、これで取引先との会話に参加できるそうだ。日経の面白さは年季が入らないと分からないとはよく言われる。「政治面は要らないんですけどね」と笑う彼女に、疎外感というか(自分に対する)敗北感というか、要するにガッカリな、ショボーンな、ため息な感情とともに、批判される用意は出来ている的な開き直りをしたがる己が情けなく、結局、どちらに避難するも逃げ込む勇気も覚悟も持ち合わせていないことに、また違ったため息をつくしかないのか。
p.s 2,出発まであと1ヶ月わずかというドタバタ感がアラブチックなテキトーさゆえで(今のところは)微笑ましいのだけれど、1ヶ月しかないと思うと(試験勉強が第一なのだが)日本の風景、匂い、肌触り、音、温度、家族、友達etcがとてつもなく尊くて尊くて、今この瞬間を捕まえて冷凍保存できないことの当たり前さが切なくて悔しい。何だかんだ言って好き勝手させてもらっているこの環境は本当に恵まれている。失って初めて分かる・・・とか、離れて初めて分かる家族の・・・とか、使い古されすぎて嫌になるけど、実際そうなのだろう。病気にならなきゃその人の気持ちは分からないし、その立場になってみないと何とも結局言えないのだ。どうして人間はこんなに単純で、複雑で、単純なんだろう。
p.s 3,余命1ヶ月ではないけれど、日本の書籍が読みたいときに手に入らなくなる不自由さを考えると身が悶える。いつでも読めるからと積ん読しておいた書籍らが急に愛おしくなる。人間と一緒だね。しかし知的枯渇感というのはどうしようもなく救いようがない。情報統制が程度の差こそあれ実施されているアラブ諸国(ちなみにシリアの友達はこのブログにアクセスできない。you tubeの一部もしかり)で、自分の知らないところでインターネットの検索結果に操作が加えられているなんて、自分だけアクセスできないなんて、歯がゆくてもどかしくて仕方ない。クウェートはそこまでではないはずだが、それでも・・・。「○○する自由」に慣れきった私(たち)がそれらの限りなく制限された(クウェートでは女性参政権は2005年から。これはまだいい方)ところへ行くと精神的にどうかなってしまうのでは。(アフガンでは女性医師はいない。女性は夫、兄、息子を通じて症状を医師に伝えて診断を仰ぐ。パスポートが自由に取れる国だって実はそんなに多くない。)切りがないからこの辺にしよう。旅立ちはかくも悩ましいものだ。
Friday, August 1, 2008
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