Saturday, July 5, 2008

モノと記憶と大地

私は元来・・・というか、いつからなのだろう、よくネジが外れていると言われるようになったのは。先日は、家庭教師の帰りにGSに立ち寄り、財布を持ってきていないのに「レギュラー満タン」でなどと微笑み、メーターが回り始めたころ、ようやく事の重大さに気づき、車で15~20分ほどの自宅に運よくいた母に電話し、お金を持ってきてもらったという愚をやらかした。スーパーなら、よく主婦がやるように「あら足りないわ」なんてとぼけて品物を戻してもらうということもよくある話なのだが、これが飲食店とか美容院、病院などの消費系だと、戻してもらうなんてことは不可能なわけで。しかも100円足りないとか1000円足りないとかという話ではなくて、一文なしなのである。クレジットカードもキャッシュカードもなくて、仮にあったとしてもここはド田舎。都会のように下ろせるという発想はありえなく、しかも田舎だからといってGSまで顔なじみでツケが効くわけでもなく。

こういうことは私は平気で海外でもやってしまう。行くのは途上国がほとんどで、買うものも食糧とかで金額としても向こうの人にとっても大したものではないのだが・・・。シリアとかだと周りの人が払ってくれてしまったり、トルコの後払い長距離バスでは結局免除してくれてしまったり。地球の人々には本当にお世話になりっぱなしであります。

過ぎた話をくどくどと並べるのは他でもない、またやらかしたゆえにである。大学内で電子辞書を置き忘れ、四方手を尽くしたが戻って来なかったという前科2犯の私は(一台目は2006年10月、初めて買った電子辞書とのたった半年での別れ。二台目は半年耐えたものの、電子辞書なしの生活に耐えられずに2007年4月に大枚はたいた相棒とのまたまた10月での別れ)、以来電子辞書は買わない、紙で生きていくと決心し、今に至るが、今回亡くした(”失くした”ではなく!)のは赤いほぼ日手帳である。中身は新潮文庫の無地の文庫手帳で、カバーのほぼ日も相当手垢で汚い。1月始まりのそれには、2、3月の旅にまつわる思索も詰まっていたし、must to readな書籍名のリストや、次にカラオケで歌いたい曲とか、スケジューリングというより、日記or雑記帳としての役目を存分に果たしていた。まだ教務課等に問い合わせていないから絶対に戻って来ないと決まったわけでもないのだが。

いただいた名刺とか旅で出会った人々の連絡先とか、かけがえのなさすぎるものまでぎっちり。考えたことや書き留めた感情なんかは私に血肉となっているだろうから良いとしても、実に、実に、実に・・・形あるものの儚さよ。全部大事なことだけ記憶して、自分の中に留めて、天国でも地獄でも行くしかないのか。こうしてblogを始めたのも(blogに関しては色々と議論ができるけれども、今回あえて踏み切ったのには今は触れずに。)何かの縁というか。ネット媒体ほど脆いものはなさそうなものだけれど。やはり、石に刻まなきゃいけないのかしらん。中国の先人たちのように、石に。おお、大地に。私が書き込めるような余地はもうないのに。

(うちの大学に通う人たちの名誉のために付け加えれば、ICレコーダーを置き忘れたときはきちんと戻ってきたのである。それにしても、もはやモノは持てないのだろうか、私は。)

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