Monday, July 14, 2008

imagination と communication

最近確立、定着している私のモットーとして、人生で大事なものは想像力(imagination)とcommunication。想像力さえあれば解決あるいは改善可能な物事や問題のそれはそれは多いこと。他者への、過去への、未来への想像力。そこから配慮や焦燥や後悔や共感や理解が生じると、世の中や人生はもっと豊かになる。しかしその常なる限界が人間を人間たらしめているともいえる。それによる失敗やすれ違いや誤解や排除、被害妄想もあればそれがもとでこの世から去る人も。汚い、醜い、拙い、永遠に完全にmaturedな状態になることがないからこそ、人間はかくも魅力的で美しいのだと。限界は必ずどんな人にもある。「それ」や「これ」が全てでないこと。ある意味、物事や自分を俯瞰して客観相対視しつつ、そのひとつひとつに忠実に誠実に真摯に対応できること。何百何千何万もの感情に様々な角度から接すること。一山も二山も越えて繰り返したときに、そのひとはずっと魅力的で繊細で強いのだと。確かにc'est la vie、しかしla vieを、人間を、こよなく愛する、決して突き放したりしない。そんな人間に私はなりたい。 深く、深く、深く、大きく。

昨日サンプロにはからずも出演(?)、コメントまでし、初のテレビ(生)放送に心躍った田舎者は、ねずみ講式に広がった同じ観覧者でもあるfriendsと初スタバ@六本木。girlish talkを繰り広げ、not経験but知識豊富な私は分かった風な格言をば。なかなかどうしてそこまで愛せるかな。内田樹の名言で、結婚とは相手が相手自身を発見していくプロセスを共有し、隣で見守ること、というのがあって。それはまさしくcommunicationなしでは不可能。しかも、純粋に以心伝心とか、こころだけで会話するというのは理想的だけれど、なかなか難しい。それこそ、imaginationの限界があるから。だからこの2つは両輪で、どちらも欠けてはダメ。そんな結論に達するとY子は「imaginationはオナニーで、communicationがセックス」と。かなり言い得て妙な喩え。両方ないとダメ。生殖活動が人間の根本である、(再生産ということまで言わなくとも)ところからしても。シリアで私が描いてみせた絵を思い出す。女に挿入している男。その男の足にしがみつく女。その女の乳房に吸い付く男。その男のモノを口にする女。その女に挿入する男。その男とキスする女・・・みたいに人間が絡み合って連関している。love&peaceなんて叫ばなくても、そこに人間がいたら、そうなる。human nature。愛は愛で、生きるために。この世で、人間と共に。

無印で自分で月日を書き込むタイプの手帳を購入。どうしてこうも落ち着くかな。モノに記憶を託すことよ。

お父さんのためのワイドショー講座じゃないけど、まとめて1週間。7/7 mon アラビア語のレッスンがないと夜がかなりラク。しかも自分でやって結構頭に入るようになってきた。7/8tue どん底にやる気のない日がある。四谷の紀尾井ホールでkuss qartetを学生価格で。本物ですな、癒されますな、とかしか言えないですけど。その後「調子に乗ってる」上智の街で洋食をば。ランチの女王的な雰囲気に、食べること、人と話すことの尊さと重要性を再痛感。7/9wed 前日2,3時間しか寝てないのにちゃんと授業を聴けるのは驚異的。それでも最後までゆるゆるたらたらなゼミでは撃沈。次回は濃いのをば。来週までには一ノ瀬先生レポを。それにしても、切れ者学者が熱く語ると私なんぞはイチコロであります。あ、私のタイプは、抽象論を熱く語れる田舎者。決して自己肯定でもないですが、え?7/10thu 今回の民基礎はこれと決まった解決策のない隣人訴訟。imaginationとcommunicationとか言っておいてなんですが、隣人はいやですね。大変です。授業後に立ち話する習慣がなぜかついた子と喋り続け、気づいたら夜だったもので、学食で第2ラウンド、それでもなぜか止まず、生協前のATM隣のベンチで第3ラウンド。衝撃の事実が次々と明らかに。気づいたら終電を逃し、お泊りさせていただくことになって第4ラウンド、continued till morning・・・勝手にこちらが苦手だと思い込んでいた子だったので、話が合ったというより、ある程度、思ったよりもかなりの程度で共有できましたね、という程度ではあるものの、とてもよいcommunicationでした。そうして7/13sun、テレビ朝日。東大生が未来に希望を持っていることに対して、ワーキングプアの現実が温室育ちの秀才たちには分からんのだろう。どうせそのままエリート街道を突っ走って甘い汁を吸ってくれたまえ的な結論の付け方は、多分誤っていて、国のリーダー層が本当に希望を失ったらその国は終わりということ。東大生って昨今の官僚と同一視される部分が否めず、医者や教師などの専門職に対するルサンチマン的なものもひとつの要因なのだろうけど、一般人(語弊あるが)や私が思う以上に優秀で熱意や情熱を持って国のことを理論的客観的に考えているし、いまどき官僚になる奴なんてそうでもないと務まらない。希望がない、希望がない、金がない、どうしてくれるんだと不当に嘆いても始まらないのをよく分かっていて、それを改善する能力を持って生まれたノブレスオブリージュとして、変なエリート意識を持っている奴もいるけど、現状を認識して決して悲観的にならず、いろいろ問題はあるがという留保付きでの「希望」であることを分かって欲しいと切に願う。もちろん、何の苦労も社会の底辺も知らないがゆえに、という要素は捨てきれないのだが。

p.s.日本語のブログなのに、英語やその他外国語を混ぜるのは単にスノッブだからではなくて、その言語のほうが概念やfeelingsを的確に簡潔に表現できるからということで。あと、固有名詞とかカタカナで打つのが面倒というのも。

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