Sunday, July 20, 2008

抽象から具体へ

蝉が鳴いている。確かに暑いけれど、穏やかな風が入ってくる。子どもたちは夏休みに入ったばかり。まどろみながら読みたい学術書を読む。なんて幸せな七月の午後。



拝見している同じ大学の1つ上の経済の先輩(しかし見ず知らず)のblogからのincentiveで。就職活動の過程で、「仕事とは社会貢献で自己実現だ」という"naive"な学生の信念がいかに現実社会から乖離したもので非現実的か気づき、「仕事は食うため。他の目的は他の手段によって(例えば趣味や余暇を通じて)行うべき」という方向性に舵を切るパターンがある。どういうポリシーも一理あって、否定するつもりは毛頭ないし、自分も人生経験を積む過程で考え方が変わるというのは大いにあり得ることで、このテーマはむしろどちらか一方ではなく、balancingの問題だろう。妥協とか折り合いをつけつつ、それでも守っていくものがあるのだと思う。

100%理想を仕事に求めたら見えなくなるものはあるし、官僚たちの夏ではあるまいし、情熱とか熱意で押し切れる時代でもない。しかし、whiteでもblueでも、何かしらその仕事(人生の大半をかける)に、自己存在とか遣り甲斐を見いだせなかったら、生きていけない。非正規雇用とか格差社会だなどという喧しい議論に近似したくはないけど、それは根本的で基本的な極めてfundamentalなことと言うほかない。

それは違うだろうと思ったのは、そのblogerが「社会貢献、自己実現としての仕事→生存手段としての仕事」という直線的な発展過程を前提にし、自分はもはやnaiveな学生ではないと匂わせ、「どちらも認めるけれどやはり守るべき方向として前者は捨てられないね」と半ば自嘲気味にしかし足取りは強くコメントする院進学の友人に対して、「それでもいいのか良く考えてね」的な物言いをしたこと。就活もまだで、specificなキャリアプランも描けていない私が言うのもなんだけれど、何かの出来事ですぐにall or nothing的に、右か左かと振れるのは誠実じゃない。ミクロとマクロを往復してにちゃんと観察できずに浮き足立っている、それこそnaiveな若者ではないか・・・なんて厳しいかな。

そのblogerはまた、①自分のコミュニケーション能力の欠如を問題にして、②学生時代の勉強、議論、読書だけじゃだめなんだ、もっと抽象的なことではなく実践的で具体的なことを的なことを言う。

①について。巷の就活how to本を眺めていてもよく感じるのだけれど、社会が求めているコミュニケーション能力って、空気が読めるとか社会人として必要な営業とか接客とか会議とかでの文字通りの表面的なコミュニケーション能力だけなのだろうか。そんなの必要なのは、必要必要と叫ぶまでもなく自明のことで、ESを飾り立てていわゆるプレゼン方式のようなPR力と「わかりやすさ」を追求することが全てではなくて、骨太の本物の、authenticな思考力に裏打ちされた、共感能力とか、理解の限界を弁えた上での「思いやり」とか、本質を見抜く、私が使う文脈でのcommunication能力をかなりの程度含むべきなんじゃないか。古典文献の読み方、みたいに。

①に関連して、②も「だけじゃだめ」だろうけど、じゃothers(そうでないことe.g.「コミュニケーション能力」を育成する場として最適だとよく挙げられるサークル活動とかバイトとか)を本分としたら、つまり具体から抽象へ、というのはより困難じゃないか。抽象から具体・・・は私もあまり経験がないし苦手とするところだけど、やる気になればいつでもできるはず。そういうpotentialを重視して採用してくれる懐の深い企業はないんでしょうかね。internが通らず、夏の予定が勉強しかない私が言うことでもないか。


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