Saturday, October 18, 2008

10月17日

仏語で考えるときと、英語で考えるときと、日本語で考えるときの私は違う。もしかしたら、仏語や英語で考える背後に佇む日本語は同じなのだろうけれど、多かれ少なかれ影響は受けていると思う。仏語圏アフリカ諸国からやってきた何人かの留学生に触発されて、仏語のリーディングとライティングをまた始めてみた。そのときに覗かせる仏語の私が、痒いように心地よく、かの言語が持つ色々な問題に抗し切れなくなってしまう。フランスからも知っている限りで3人の仏人留学生が金融やらビジネスやらを学んでいて、そのうちのひとりの男性が、英語があまり得意でないので仏語を使ってくれる。英語の得意でない○○言語母語話者というのが言語学習には最適なのだが、いかんせん、英語英語の世の中でそういう人たちがなかなかいなくなってきている気がする。そんななかで書いた文章。初めに仏語ありきなので、日本語は抄訳。

Je suis désolée ne pas te tutoyer avec des amis qui parlent français, parce qu’il est encore difficile pour moi de faire la distinction entre ‘ton’ et ‘ta’. En fait, j’ai plus l’habitude de vouvoyer, c’est-à-dire, d'utiliser toujours ‘votre’.

(teで話してくれる人たちに対して、活用のひとつ少ないvousで返してしまうことが申し訳ないと思う。)

vous(丁寧な二人称)からte(親しみを込めた二人称)への移行には、それなりの壁が伴うということだろうか。昔の映画ではteからvousへの移行とともに恋が始まる・・・みたいな臭すぎる純な瞬間があったものらしいけれど、年齢が同じくらいで立場が同じくらいならば、今どきvousで始める人はいないだろう。けれどね、私だって使おうと思えばいつだってteを使える。それでも踏み切らないのは、きっとvousの(私が勝手に込めている)誠実さとか距離感に後ろ髪を引かれているからなのだろう。もしかしたら私は日本語でもvousしか使ったことがないのかも知れない。そう思うと、vousに安住することの是非は、砂漠の真ん中に置いて眺めておくだけにしようと思えてくる。


De temps en temps, je pense à la mentalité des personnes qui ont été nées et éleveées dans les pays qui ont été autrefois envahi par la politique coloniale, par example, un grand nombre de pays d’Afrique et d’Amérique du Sud. Je ‘naturellement’ suis contre le colonialisme, pourtant, en même temps, malgré soi, je suis trés contente de pouvoir communiquer facilement en utilisant les lamgues dominatrices, qui sont faciles d’usage. Mais, peut-être c’est l’inquiétude inutile et arbitraine par moi, qui feins l’apparence de bonté.

(ときどき、かつて植民地政策の犠牲となった国々、例えば多くのアフリカ諸国や南アメリカ諸国で生まれ育った人たちのメンタリティーに思いを馳せてみる。私は「当然に」植民地主義的なことに対して反対のはずなのだが、しかしそれでも、同時に、自分自身のそういった思いとは逆に、様々な理由によってならしめられている、その「簡単な」用法の言語(部族語を介す必要がない、という意味などで)で、「簡単に」「実用的に」支配者側の言語でコミュニケーションができてしまうことに満足している自分がいる。しかしながら、おそらくこれは私の余計な、そして恣意的な心配であって、その私の顔が極めて善人ぶっていることだろうとも思う。)

これらの添削をお願いした同じ寮のアルジェリア系フランス人の女の子に、初め、その植民地言語を極めてポジティヴなものとして直されてしまった。私の元の文に舌足らずなところがあって、その場で、口頭で、仏語で説明し直す能力もなかったから、お開きになってしまったのだけれども、アルジェリア系と言っても、バカンスで年に1度訪れる程度の彼女に、それこそ不要な、無用な、余計な、inquiétudeを抱いてしまったのではないかと危惧したのは取り越し苦労だったのかも知れない。

添削と言っても、難しいと思ったのは、単純な日常の内容(例えばどこそこへ行ったとか楽しかったとか)ではなくて、私の面倒な世界観を、可能な限り、それこそuniversalに「理解」してもらえるように努力しても、そういうことに関心のある人でなければ決して内容にまで踏み込めないのである。歳をとればとるほど、頭がいかついてくればくるほど、添削の先生が誰でもいいというわけにはいかなくなってくる・・・と、これは確かに真なのだけれど、外部にばかり原因を求めて終わりにするのは不本意だと思い、以下の文を書いてみた。

La différence entre langues elles-même n'est pas des problèmes. Le problème est ‘la différance’ (par Jacque Derrida), qui signifie que l’existence toujours produit la différence et le retard lorsque nous essayons d’être. Quand j'essaie de comprendre les autres, particulièrement qui vivaient dans des milieux différents, j’ai tendance à m’excuser plausiblement en utilisant les mots, par example, la culture différente, l’attitude différente et la façon de penser différente...mais le plus différent est l’existence produite par soi-même!
(言語の違いそれ自体は問題ではない。問題はデリダの言う「差延」というやつで、存在を現前させようとする歳には常に差異と遅れが生じる、というあれである。他者を理解しようとするとき、特に異なるバックグラウンドを持つ人に対して、私は、文化の違いとか、態度の違いとか、思考様式の違いなどというもっともらしい言葉を言い訳として使う傾向がある・・・しかし、最も大きな差異というのは、自分自身によって生産された存在(だった)のに!)

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