Friday, October 3, 2008

ウィットか違和感か

朝日新聞の大好きな「反貧困」。何日か前に、路上生活女性たちが「連帯」して「生きにくい」路上生活を乗り切っていこう的記事が。その中で、藝大院修了の女性の話。藝大を出たはいいけれど、年収は200万程度。(超一流でもなければ、芸の道にこだわって、講師etcで食いつないでいくのは大変なこと、これ自明)知り合いの男性の、お金にこだわらない生き方に魅力を感じ、路上生活を始めたとか。(細部は違っているかも。大筋で合っているはず)同じ路上生活の女性たちと協力していきましょうというような運動を始めたらしい。

朝日的には、見よこの格差社会云々・・・以上のものは言っていない気がしたのだけれど、まずひとつは、そもそも路上生活が生きやすいわけがないだろうということ。女性ならなおさら、踏んだり蹴ったりされて、卑猥な言葉を浴びせられるのは、これある意味仕方のないことでは?誰でも路上生活を快適に行える社会である必要が果たしてあるだろうか?路上よりも、家の中に住んだ方が快適だから、多くの人が屋根の下に住んでいる。他の方のケースは様々だろうが、とくにこの女性の場合は、自ら、その生活文化やイデオロギーに共感して、自発的に、積極的に、路上生活を始めたと読める。200万では確かに生活は崖っぷちだろう。しかし、路上生活にまで足を踏み入れる必要性は必ずしもあったとは言えない可能性も、(あくまでも)この文面からは読める。

路上生活者がその生活を快適だと喜び、我も我もと路上生活を始めたくなるような社会は異常だと思う。これは論証不要。施設でいじめに合ったとかという理由も多いらしいが、どんな理由でも、路上生活自体を快適にするよう、路上生活者を守るよう、どうにかせよ、というのは何か違う。

やはり、当面の生活資金と、アパートの賃借に必要な資金を低利子で提供して、職業訓練を受けさせ、定職に就くよう指導するのが、行政のやれることであり、限界だと思う。はっきり言って、街行く人々に、一般市民に、ホームレスの問題をどうにかしようよ、と呼びかけるのはかなりお門違いな感じがある。こういうことに関心がある人は既にボランティアやNPOで活動しているし、それ以外の人が(自分を含め)、ホームレスや格差の問題に無関心なのでは決してないと思う。違和感を感じていなかったら、どうして彼らから目を逸らすことがあろうか。問題は、この違和感である。

それでも、そういうことが既に行われていても、世知辛い俗世に背を向けて、あえて路上を選んだ人(が本当にいるとすれば)に対しては、我々は成す術を持たないし、自分で選んだ(としたら)以上、「生きにくい」なんて文句をつけてもらっちゃ困る。

これは単なる自己責任論ではない。生活能力のない人を社会がどこまで面倒見るべきかという、政治思想上の伝統的な問題。本当に生活能力がないのか、自ら放棄したのかは、区別すべき重要な点だのに、一緒くたにしているから、朝日の視点がぼやけて、こういう突っ込みをする人が出てきてしまう。もしかしたら、朝日的だと従来思われている方向に、微弱ながらも抵抗したい、記者のウィットだとしたら、その可能性を初めから採ってあげなくて申し訳ないと思うけれども。

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