Wednesday, October 15, 2008

何の季節だろう?


クウェートの物価は日本のそれとほとんど変わらないか、物によってはずっと高く(電化製品や文房具など)、生鮮食品に限っては安いようだ。クウェート国籍を持つ「クウェート人」には月に100KD(=4万円)が政府から支給され、私たち30カ国の奨学生を含めて、その恩恵に与っている。街を走る車はベンツかフォードかトヨタのレクサス等の高級車が9割で、クウェート大学の学生の多くがそういった車を乗り回して登校している。ブランド物を惜しげもなく披露し、でっぷりとたわわに実った、とでも表現したくなるような「石油」腹を突き出しながらふんぞり返って炎天下の街を闊歩している・・・というのは決して悪意が込められているわけではなく、現に私の腹も石油で満たされているわけで、私のアラビア語力も石油でできていくし、使用人的立場にある、色黒で大体はやや細身のインド人やスーダン人やスリランカ人やバングラデシュ人やフィリピン人のおばさんたちはヒエラルキーのほぼ最下位に置かれながら、食っても食っても餌を欲しがるデブ娘たちに飯を3食用意し、娘たちが汚すトイレを掃除し、娘たちが排出するゴミを回収し、祖国に送金している。

言うべきことは色々あるのに、それをひとつひとつ消化する時間がないのが惜しい。

貧しさや豊かさがある。階層も階級もある。社会的にプラスに働くこともマイナスに働く要素も各々、それぞれが揃ってその人自身を形成しているのは言うまでもない。しかしながら、最低限の基本的な衣食住に困窮したり、生命が脅かされたり、生きる希望を失ってしまうほどの過酷な労働を強いられたり、銃弾の飛び交う環境で身を潜めていなければならなかったりするような「不幸」は避けましょう、避けたいですよねというのがとりあえずの、おそらく、地球上すべての人がおおよそにおいて納得できる世界的なテーゼだと思われるし、そうであってほしいとも思う。しかし、絶望的な格差に涙を落としても、結局は己の生を引き受けていく。甘受する、という言葉もある。身の丈や、身分や、一分を知るということ。ならば涙のすぐ乾く人は、その一分を知るときに、己の血肉、細胞、脂肪が何でできているのか、腹が何で満たされているのか、それに思いを馳せ、一分を再画定する作業を繰り返さないと、腹はいつまでも突き出たままのような気がする。己の細胞やバックグラウンドや排出したものにまで思いを致すことは、かなりの難儀であって、それに耐えうる人間性を持ち合わせている者は決して多くない。そのほうが社会はスムーズに動くし、精神安定剤の需要が減るくらいだ。・・・なんて、口をパクパクしながら言うことでもないのだが。

クウェートでは、日本で言うような「普通の」ノートが存在しない。「普通の」とは、いわゆるCampusノートとか、小学生ならジャポニカとか、紙がそれほど白く厚くはないけれど、1000年持つとかという王子紙で、再生紙を使用し、糸で留めてある、30行×30枚綴りの薄いノートのことだ。高くても100円、まとめて安ければ一冊あたり20円程度の優れもの。ところが、ここでは最低800円、平均的には1200円で、紙もおそらく再生紙ではなく、やたらと白く、リングがでかく、人口の少ない町のタウンページを遥かに凌駕する厚さで、非日本人学生によくあるように、鞄には入れず、剥き出しで抱えられる。これをあえて解釈すれば、「書き」や「書かれている」ことを重視し大切にするイスラム文化?とも言えなくもないかも知れない。日本のものと比べると、可動性に劣るところでは、腰の据わり具合が決まっているとも言えるのか。庶民のリテラシーが広範囲に渡らないとか、無理矢理こじつけて見るのも愉しい。「書く」ということは実は大変なことなのだ。初めに文房具の物価に言及したのは、そう言えばこのためだった。

Because you are a woman, above anything else.というフレイズがショッピングモールの水平エレベーターの脇に書いてあった。 イスラム特有の女性観・・・というわけでもないが、イスラムの女性観をよく表しているといえる。大事にされ過ぎて、身を隠し、家に篭っている彼女らを、「私たち」のパースペクティヴでは、「社会的地位が低い」と判断されうる。ところが、例えば当の日本でも、男女の雇用格差や賃金格差は未だに程度の差こそされ残っているし、アメリカでだって、男女の社会的ステイタスとしての扱われ方が完全にイーヴンだと言える人は少ないだろう。これは完全な憶測と感想にしか過ぎないけれど、家で篭って家のことだけをやり、動かずにでっぷり太り、男性の庇護のもとでぬくぬくと温かく暮らすほうが、社会の風圧に晒されず、「ラク」なのであって、「合理的」なのかも知れない。ただ、「近代的な」ここクウェートでは、そうでもない女性が多そうなのだけれど。至高の女たちよ、どこへゆく。

もうひとつ、それに関連した話。私たちの部屋のトイレの水が出なくなり、すぐに業者を呼んでもらった。2人のインド系(こういう下働きはほとんど出稼ぎである)男性エンジニアが、女子寮に入るわけだから、これは大変だ。寮母が「ラジ~~~ル、ラジ~~~ル!!」と叫び、女たちは身を隠し、部屋から出ない。「ラジュル」とは「男」であり、日本語で言えば、「おとこ~~~!おとこ~~~!」と言っているようなもの。「男が来るから気をつけろ」という意味だ。ルームメイトの日本人はそのとき半袖を着ていて注意され、慌てて長袖を羽織った。なんとも面白い話。

これも雑感だけれど、「隠す」という行為は見えないものを秘め、想像する余地を残しているわけだから、ぶっちゃけた話、スカーフを被っているほうがよっぽど綺麗な(感じのする)子は多い。脱いでみたらそうでもない、そこにあるものとして限定されてしまう。可能性の問題。

女は社会的にも生物的にも弱い存在であり、男に守られるべき、というイスラムの文化に反して(?) 、女子学生のほうがよほど英語に長け、賢く、優秀で努力家であるケースが散見されるのは何故だろう。「開明的」なのは女性のほうであるのかも知れないとさえ思う。

同じ状況を共有している2人の間で、男が分かっていないことを女が分かっているという状況はすぐに思いつくけれど、その反対は(私が女だからか)思いつかない。アラブの男は(とすぐに一般化するのはよくないけれど)概して“平均的に”アラブ女性より単細胞的な感は否めない。

昨日、寮の歓迎会があり、私たち外国人留学生に向けてアブラ(寮母)が延々と長々しい話をした。まとめると、私たちはあなたたちが心地よく過ごせるようにベストを尽くす。完璧ではないが、ベストを尽くしている。あなたたちの要求(夜9時半以降に外出したい、旅行したいなど=いわゆる「普通の」ムスリマには考えられないこと)には、あなたたちの大使館の許可を取って、その「責任」のもとで行動して欲しい云々・・・。この話の中に何度「責任」という言葉が登場しただろう。クウェート航空の一連の騒動でも感じたことだが、彼らは(意外にも)「責任」の所在を明確にしたがり、その仕事はいかにも官僚的ですらあると思える。書類がすべて、であったりもする。ここで生活していると、一日に何度も「インシャアッラー」を耳にする。自分のこれから取る行動に対して言及する際、最後に付ければ完璧だ。あとは自分の基準で「頑張り」さえすればいい。人間の力は偉大なアッラーに比べれば何とも非力なもの。この世は人智に及ばないことばかり。完璧ではないが、頑張る。あとは、どうにもならない。アッラーが何でもお見通し。私の(いい加減な)印象では、「自分が頑張る範囲」にのみ、人間がタッチできる「責任」があって、そのあやふやな「範囲」の線を一歩出れば、天に(メッカに?)飛んでいく感じ。「範囲」の中では、「責任、責任」と言いますのよ、ということだ。その「範囲」が意外と広いのか狭いのか、これから徐々に明らかになりそうだ。

クウェート大学の学生自治会の選挙が一昨日行われた。驚くべきポイントは、party(政党・・・と訳すしかない)が存在していてAl-E’atelafiya(ぶつかって跳ね返るという意味らしい), Islamic Alliance(イスラム同盟)、Independents とDemocratic Circleの4つ。前者2つは保守系で後者2つがリベラル系。学生選挙が始まってこの方29年来、リベラルが勝ったのは1回だけ。あとは80~85%の支持率を誇る保守系が依然として優位にあるらしい。日本の場合は自治会=民青=共産党、と繋がっているように、彼らも議会と繋がっていて、予算の勝ち取りがカギとなっているそうだ。ただ、写真のように、学生の関心は(異常に?)高く、男女が集える(=同じ空間に存在できる唯一の場所という意味で。なぜならば大学の授業は全て男女別で、男子向けの講義が女子に開講していないとかその逆もよくあるくらいに、建物自体が入り口からして分かれているのでこういったスペースは非常に限られているので。)ところでは、男がパンフレットを振りかざして党の名前を連呼し、腕を天に突き上げ、精神の興奮状態に陥った輩が時たま摘み出され、乱闘状態にすらなってしまい、取り巻きは身の危険さえ感じてしまうくらいで、日本で言う自治会が完全にアウェイな存在であるのを思えば、今クウェートは政治の季節ということか、はたまたこの政治性が今までもこれからも続いていくのか、面白いところでもある。これがpolitical awareness/consciousness(政治意識)の「未開」の「発展段階」にあることを意味するのか、日本のような無関心やア・ポリティカルな状態が「成熟」を意味すると見ていいのか、確か、「成熟」をテーマにしたシンポジウムだったか連続講義の宣伝が本郷に貼ってあったのを思い出すと、語るべきものは既に「成熟」という点でしか私たちには残されていないのかとさえ、自嘲してみたりもする。

クウェートの英字紙Al-Watan(=Nation)はさずがに中東とイスラム地域をカヴァーしていて、なかなか日本では馴染みの薄い地域も展開している。スーダン南部では、イスラム地域の北部に比べてリベラルであると思われていたのにも関わらず、細身のジーンズを穿いた女の子たち数十名が逮捕されたらしい。今では解放され、数名は途中で逃亡したため、行方不明。いわゆるスキニータイプのジーンズは、数年前、どこの国が流行の発信地点だっただろうか、と思い起こすと、アウトサイダー(外部者)が作り出す流行の波に人身や精神さえも翻弄される彼女らの運命に、ため息でもついてみようかという気にもなるものだ。

Al-Watanは中東・イスラム地域をカヴァーしているのに対し、その他の地域には関心がないらしい。そのためかどうか分かりかねるが、The New York TimesのInternational Herald Tribuneが付いてくる。寮の玄関ロビーには、それが山のように積み上げられ、ご自由にお取りください状態。お得な環境だ。The Japan Timesと同じように、The New York Timesの文章表現と比べると、やはりお粗末な英語の感は否めないものの、こんな小さい(と言ってはいけないが)国でよくやっているのではないかとも思う。そういえば、1ドルが100円切ったなんて数日間気づかなかったけれど、よほどの番狂わせが無い限りマケインはないのかな、なんて思わせるのには、日本よりは十分だったりもする。手がどうしてもObamaと書きたがらない白人がどれだけいるのかにもよるらしいけれども。ああ、アラビア語で新聞を読める日は一体いつ来るのだろうか。

それにしても、フランス語しか分からないベニン(アフリカ)の女の子と、なんちゃら語(ごめんなさい、マイナー過ぎて覚えられない)しか分からないタジキスタンの男の子は、どうやって英語を介さずにアラビア語をこれから学んでいくのか、「長い」とか「短い」ならジェスチャーで説明できるものの、抽象概念が入ってきたらどうなるのか、(フランス語なら通訳してくれるセネガル人やコートジボワール人や私?!がいるけれど)私は心配であります。またまたそれにしても、いくら言語の多様性が重要と言っても、日常会話レヴェルに満たない英語よりアラビア語のほうがよほど得意な各国のアラビア語学習者は、これからどんな職で食べていくのか、こちらも興味津々であります。

今日はここまで。当たり前のことですが、コミュニケーションというものは、相手のレヴェルに合わせて進んでいくものであります。ここ1週間、(私にとって)難しいことを考える機会がなく、やはり独りでは限界があり、以前にもまして頭が腐ってきた私は、日本に帰ってから皆さんにご迷惑をおかけしないか心配でもあります。英語と、少々のアラビア語と少々のフランス語ばかりを使っている日々では、日本語も鈍ります。鈍らないように日本語の本を持ってきたのに、読む時間がないとは。いやはや。

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