Thursday, April 29, 2010

mortalityを実感するまでもないが良い友人

Back from 飲まない飲み会(休肝日) with 3人グッドコンビ. 数年分の来し方、変遷、思考様式をお互いに把握していて微笑ましく見守りあえるかつ語り合えるというのは、言葉にすると陳腐だけれど、めっちゃくちゃ基本的で大事だわ。あそこに戻ればいい、というか、理解されるということは非常な救いなわけで。良くも悪くも変わらないんだろうと。

I have made a rule to write daily things here in English recently in order to prepare for the coming summer session at Yale a month later, but it was reported to me a few hours ago that the number of member (at least 8) was a bit low so the course had to be canceled! Well, it is okay, since I was sure that it would be a bit busy to deal with 2 courses this summer while the semester at my university is going on, but I wonder if the financial aid would be also canceled too! I hope not, but I am sure it would. Ah, I had a dream to walk around NY since my childhood, though:( Anyway, the course at UCB will surely be opened, so I should switch my motivation to it.

東京の深夜を歩いたり走ったりするということは、東京といえど「休憩」とか「闇」とかもっと言えば「死」があるということに直面するということでもあって、これはそのうちまとめようと思っているけれど、通常時mortalityの実感性の比較的低い人が親などの肉親以外の全ての人であって、mortalityの実感性が比較的高い人が親などの近しい肉親であるのと似ていると最近思う。 他者(自分以外の全ての人)ではあるが他人ではない(非常に近しい肉親や友人など)人に対するmortalityの実感性もまた後者に当たるわけだけれど、そうではない人たちの存在が社会の持続性を担保しているわけだ。曾祖母が死んで、母も父も祖父母もいずれ死ぬのだ、自分も・・・と、初めてmortalityを自覚して恐くなった小学校の低学年のときに、学校に行けば死ぬことの信じられない(=mortalityの実感性が低い)先生や友達がいて、世界が続くことを信じられるような気がしたのと一緒。大人になったって、プライベートでマイナスなことが起きても職場にいったり友達と集まれば、切り替えられたりする。ただ、大地震等の災害があるとそんなことは平時くらいにしか思えないのだということを見せ付けられる。この世に昼と夜があるのは(とくに昼に対して夜があるということは)そういう可能性や現実を毎日確認するためでもあるかも。