Saturday, September 6, 2008

多様性とやら






























現実逃避に世界の諸言語で自分の名前を書いてみました。
①エチオピアのアムハラ文字(下)
②韓国朝鮮語のハングル文字:요시노 미카 (1年生の夏に1ヶ月だけ勉強して挫折経験あり。文法は簡単だけど単語が覚えられなかった)

③キリル文字:Ёсино Мика
④ヒンディー語のデーヴァナーガリー文字:योशिनो मिका(当然だけど、もはや全然わからない)
⑤ヒエログリフ
⑥タイ語のタイ文字:โยซีโน มีกา(これは見覚えがあります)
⑦ギリシア文字:Ιοσινο Μικα(自分の名前が高尚に見えます。偏見ですが)
⑧アルメニア文字
⑨モンゴル文字(そういえば縦書きの文字表記の言語ってどれくらいあるのか。モンゴルのBちゃんはこれをメールでローマ字表記していたな。点とかもあって書道もできそう。文法も近い。現在ではこのモンゴル文字はほとんど使われず、キリル文字表記が一般的)
⑩スリランカのシンハラ文字
⑪ヘブライ文字(文学部のタルムード原典購読で、読めないのにじっと何時間も見つめていた)
⑫変体がな(我らが、という感じですが。縦書きにできればよかった)
⑬ビルマ文字(これも可愛い)




こういう「特殊な」文字(「特殊」かどうかは数で決まるものではないが)、少数の(多くて数百万人程度の)人々によって話される言語を内に秘めて、日本で生活している方々を見ると羨ましくてならない。その“他に”ホームがあるということ。私の知らない、決して届くことのないであろう思考様式を隠し持っているということ。世界を、感情を。変換、翻訳不能な、その貴重で貴重で貴重すぎる無形の財。「多様性」なんかでは収まりきらない、このまったき異なるものもの。



自分の名前を変換しまくり、さぞや自分大好き人間かというと、そんなはずはなく。では、自分の名前大好き人間かと言うと、これも違う。名前に関してはミスマッチ度が高い。違和感マックス。名前の重要さなんて、今更なお話だけど、でもやっぱり名前は名前なんだよね。名前という概念がなかったら、私はあの人をどう認知するのだろう。名前に規定される部分とそうでない部分。歳を取るにつれて、私はこの名前と一体化して雁字搦めに溺れるのだろうか。その名前を引き剥がしたとき、そこに残るものがあれば、それで生きていけるのだろうけれど。やはり結局、Je pense, donc je suis.ということか。何だかんだ言ってデカルトは偉大だ。



日本人は今1億2000万。いわゆる「経済大国」。国土は狭いが人はいるし、お金もある。国際社会の政治力学上は弱々しいけれど、どうしたってマジョリティーに入ってしまう。英語ネイティヴでないことにたまには僻んでみたりするけれど、そんなことどうってことない。多数派の名のもとに胡坐をかくなよ。自分がスタンダードだなんて思うなよ。見ろ、現前に広がる、この「多様性」とやらを。

・・・ということは往々にして忘れがちであるので、たまにこの「不思議な」文字たちを見ようと思う。

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