Sunday, September 28, 2008

暴論:Hopeless Japan?

オバマは演説だけでなく論戦もうまくなった。これはひょっとするとひょっとするかも知れない。今度行われる副大統領同士の論戦で、ペイリンが株を下げれば尚のこと。

小泉の引退で、猪口邦子のコメントが「小泉チルドレンと呼ばれることが誇りだった」首相との会話はメモにとり、教科書にしていた。「100冊もの理論を読んできたが、本にはない政治の原点を学ばせてもらった」。

・・・だそうです。唖然。別に小泉のところに誰の名前を入れてもいいのですよ。そりゃあ、小泉さんから学ぶことはないわけではないでしょう。誰からでも何かしら学ぶところはある。学術書と生の政治の世界の違いに目を見張ることもあるでしょう。

それにしてもそれにしても、「誇りだった」なんて、どの面下げて言うものなんでしょうか。学者としては準一流には入るだろうし、国外にウケている日本人研究者といしては特に旦那は超一流なのに。桜蔭中からすぐアメリカに行ってしまうとそういうメンタリティーになるものなのかな。本当に心からそう思って言ったコメントならば学者として失格、困った人だと思うのだけれど。(猪口氏は現にいろいろ“困った”と言われているそうだが)

朝日新聞が載せそうな読者投稿に、障害者施設だったか老人ホームだったか、どこの誰でもいいのだけれど、要は、そこでボランティアだか働いている人が、そこの人を見て、首相が変わっても政治に希望が持てていないようだ云々・・・と。

政治に希望が持てないことはそんなに悪いことか?政治に希望を持つ必要があるのか?オバマのChange!には確かに希望が感じられてしまう。実際に、黒人系が大統領になるというのは画期的なことだ。アメリカの選挙キャンペーンというのはお祭りみたいなもので、あれで興奮するのが大衆というものだ。しかし、なぜあれ程までにオバマ、マケインに希望を託してしまうのか――言うまでもない。この8年間と比べたら何だって希望に見えてしまう。

ここからの暴論仮説。政治の希望を託してしまうのは、現状やここ数年の状況が悪いけれども、まだ人為的に政策的に解決や改善が可能であり、それを可能とする人が存在すると信じられるからである。これは、独裁状況下において、「大統領なんて誰がやったって同じさ」と言う庶民のケースは考慮に入れない。ある程度、民主的で、人々が圧制に苦しんでいるとは言えない体制下での前提だ。

現代社会の仕組みは言うまでもなく複雑化、専門化しており、政策決定過程も、その政策自体も複雑で、何かをすればドラスティックに何かが簡単に変わるわけではない。一気に、庶民の目にも分かる程度に解決するとしたら、年金問題も消費税も、100年に一度の賢人でも出てこない限り不可能である。昨今、物価が上昇しているのだって、福田康夫が能なしだったのではなく、世界的な大きな潮流であって、程度は調整できても、日本だけ何の影響も受けないなんていうのは、鎖国でもしない限り不可能である。

つまり、希望を政治家に持てるという段階では、まだ人為的にある程度の早さで分かりやすく(イラクから軍を撤退させるとか)対処できる問題があるということである。もしくは、「彼ならやってくれるだろう」ということは、「彼」以下の能力の人間しか今まで首長の職に就いたことがなく(就くことを阻む何らかの要因があった)、満を持してのご登場という場面だ。返せば、日本では誰がやっても変わらない=誰も解決できない問題くらいしか残っていない、今度の人も変わらないだろう=今日本で首相になりうる、考えうる政治家の中で最高レベルの人間が今までも出ていたし、今回も出た、ということでもある。道路を作って云々・・・と、庶民に分かりやすい時代は終わったのだ。21世紀は何事にも困難な時代だということをゆめゆめ忘れてはならない気がする。

そもそも、様々なこと(経済etc)において、頭打ちになっていて、メディアや学問も発達して、言論の自由が許されている国で、現在の政権を絶賛したり、希望を持っていたりしたらそれこそ不気味だ。政権が何かを隠しているか、コントロールしているとしか思えない。暴論を承知で言えば、国民が政治を批判したり失望するのは社会の色々な面が健全な証拠だ。

考えてもみよう、旅行先で、「今の政治はどう?」と現地人に聞いて、「すごくいいよ。今回の大統領は素晴らしい」とか「前の大統領はダメだったけど、今のは社会保障もよくしてくれるし・・・」などと答えられたら、大丈夫かなあ、と思ってしまうのが普通では。簡単に解決可能な問題が残っていたんですか、「素晴らしい」って、あなた洗脳されているんじゃないの?etc

では、日本や自分自身の未来に希望が持てない場合は?希望の有無に政治を持ち出す必要があるのは、全員ではないはずだ。社会の極端な弱者とか。もちろん最低限度はあるにせよ、もはや国家に全面的に頼ろうという時代からはシフトしつつあるように思う。寄付金や入所者による利益だけで運営されている障害者センターとか。社会の度量や文化の問題もある。それを形成するのが政治だという向きもあるかも知れない。しかし、例えば、長時間労働の減少とか男性の育児休暇の取得推進とか、非正規雇用労働者の待遇向上とか、政府が音頭を取ったとしても、結局やるかやらないかは民間の話。何でもかんでも政府が政府が・・・というのは、政府離れできない政治リテラシー的に未熟な国民という気がする。

国家は退場すると言って、意外と退場しなかった。しかし、確実にその影は薄まっている。国家と一言聞けば、暴力暴力と騒ぐ輩に限って、社会保障をなんとか・・・と要求するものだ。そんなに都合よく行くほど世の中簡単ではない。

結論:政治に希望が持てない日本はまだいいほうだ。しかもそれはまだ「失望」であって「絶望」ではない。「絶望」する人が国民の半数以上くらいに出てきたら、状況は相当に異なるだろうが。

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