Sunday, September 21, 2008

あくどさ

Why do I use English to mention my illnesses? 

母語である日本語で記すと、そのリアリティーが書いている+患っている本人に突き刺さる。痛々しく、重々しく、ただひたすらに苦しい。しかし表音文字にしかすぎず、しかも未熟で未完成な私にとっての外国語で記すとき、それはあたかも自らの手を離れて、どこか遠くの「それだけで成立している」客観性をたちどころに帯びる。

話題は若干逸れて・・・アルファベットを使用する言語を用いるブロガーは、よくその本名を晒すし、署名記事もどことなく多いような印象を受ける。アメリカなどでは大学教授による公的なブログは散見されるし、一定の市民権も得ている。しかし、日本では、誰それのブログらしいという「公然の秘密」が前提であり、そのブログ本体に、漢字でフルネームが記されていることは極めて稀だ。思うに、我々漢字圏の人間はsakamoto ryoumaという音と、坂本竜馬という意味の二重構造の中に生かされているがゆえに、二重の個人特定が可能となり、二重のプライバシーの膜がそこにあるのだろう。私はこのブログで「音」は各言語で晒しているが、「意味」まではどうしても出す気にはなれない。「意味」はそれほど、誰かを傷つけもするようなセンシティヴなものなのだと思う。

これは偏に私の英語能力の未熟さによるものなのだろうか。いつか私は英語圏で一定期間生活して、日本語運用能力と大差なくなってきたとき、「暴力」と「violence」の両方に同じ暴力性を感ずることができるだろうか。否、おそらく無理だろうと思う。「beauty」よりも「美」の方に美しさを感じることは否定できまい。その語彙に負わせてきた、もしくは、その語彙は負ってきた、正負の個人的な歴史を、どうしてもありありと現前に思い浮かべてしまうだろうから。

醜い、と言うよりuglyと言う方が、そのリアリティーから逃れられると感じる限り、私はその言語に思いを託すのだろう。もし、アルファベット使用言語の達人になってしまったら?

そのためにアラビア語があり、(おそらく有り得ない話ではあるが)アラビア語が身体化されたとき、私は他の文字を求めるのかも知れない。自分にとってそのときに「未知」である世界観や文字体系に、己の思いを託すことで、この閉鎖された世界から一歩外へ赴き、救われるのだ。誤解を恐れずに言えば、私の苦しみが翻訳され、複数の言語の窓によって理解可能(異なる言語環境の人にアクセス可能)になったとき、その苦しみは複数性と多層性を帯びて、私の手を離れていく。

病は多くの人に理解可能であって欲しい事項であるとともに、「身内」に宣言した瞬間、自分の足元さえも支えられなくなってしまう。だから私は、ここを訪れてくれる人のほとんどが英語をよく読めることを知りながら、"あえて"(=知らないふりをしてもらうために)(=外部に向けているのだ、己の中では処理済みの事柄であるのだと察してもらうために)英語で書いているのだろう。フランス語だと、読んではもらえない。英語、という位置が重要なのだ。この毒々しさと禍々しさとあくどさを、隠すつもりが・・・パラドックス!

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