Saturday, September 27, 2008

自己責任説

弟の宿題でOfer Sharone, Constructing Unemployed Job Seekers as Professional Workers; The Depoliticizing Work-Game Job Searchingを読み、設問に答える機会があった。以下、そのレポート。原文は電子ジャーナルで読めます。

①過去の研究では、失業中のアメリカ人にとって、職探しは個人的で私的なことであって、公的な構造的な原因や政治的解決の可能性のある社会問題とは認識していないとされていた。この失業の非政治化や仕事が得られないことに対する自己叱責は高学歴の求職者層にも根強い。個人ではどうしようもないレイオフから生じる困難にも関わらず、個人的な努力こそがキャリアの成功を導くというアメリカンドリームというイデオロギーによって、実体験との間に乖離が生まれるためである。この個人主義的言説のイデオロギーは、主観的理解の形成において、様々に異なっているはずの実体験を隠蔽している。

②JPの活動では、いかに自分自身を売り出し中の製品として売り込むかという点で、1、履歴書2、人的ネットワークの構築3、積極的態度の重要性を強調している。1では、採用に落ちれば、それが自分の弱点を反映しているとして、履歴書は常に編集と訂正を繰り返し、膨大な時間をかけて一生作り出していくものとされる。2ではまた、エレベーターに同乗した人に対して売り込めるのに十分に短く印象的な自分のコマーシャルを磨くことを勧める。他にもカヴァーレター、サンキューノート、企業研究、適切な面接時の服装や異なった面接の質問への応答などを助言している。3では、求職者は常に積極性、自信、熱意や楽観性をもち、前向きな発言や態度をすることが重要で、そのために自分に不利な情報の提供は慎み、言葉の言い換えを行い、JP内でも言ってはならないタブーが存在する。

③第一段階のboost期では、多くの求職者が朝早く起床し求人情報をチェックして応募するなど、精力的に一生懸命に職探しに取り組むが、その繰り返しを経て次第に第二段階のbust期では採用に落ち続けることで失意と自己叱責に苛まれ、自分を売り込むことに不安を感じネットワークの構築に困難を感じるようになったり、ただひたすら実績の量化を求められる履歴書の改訂に苛立ちや疲れを感じたりするようになる。

④work-gameとはプレイヤーである求職者に、職探しというゲームにおいて「勝つ」ための戦略に全神経を集中させ様々な対策を採らせる、職探しのプロセスであるが、これに集中し過ぎると、その求職というゲーム全体を規定し構成している条件や規制などの大きな文脈が視界に入らなくなる。この自助努力言説、つまり個人主義的イデオロギーに対して反抗心を抱かないのは、第一段階のboost期ではそのゲームの個人的な戦略に熱中しているからであり、第二段階のbust期では自己叱責の観念やゲームの負け犬としての意識が、求職者から反抗心を奪っている。ゲームを規定する年齢差別や外部委託などの市場の客観的な求職者を受け入れない外部の条件が大きな原因であるかも知れないのにも関わらず、求職者は自信を喪失し、「自分が悪いのだ」という主観的経験だけに原因を求めるようになる。というのも、当初の第一段階における「自分や置かれた状況をコントロールし、自分にとっても現実を自分で構築する」というイデオロギーは、就職に失敗した場合に、求職者に自分自身を責める道しか残さないからだ。しかも、JPのプログラムでは失敗談は公にされず、自助努力パラダイムへの疑問はその人自身の内的障害として捉えられ、さらにディスカッションにおいてその疑問や失敗談を語ることは、ゲームに熱中している第一段階の人間にとっては、許されざる非難の対象である痛ましい負け犬でしかないことが、この傾向に拍車をかける結果となっている。


¶47 この論文が職探しを仕事のタイプのひとつとして取り上げたことで、その動的な過程が明らかになった。専門化された職探しの実践、戦略の強調、自分自身で個人をコントロールするというイデオロギーが重なって、魅惑的なワークゲームを構成するに至った。このゲームに参加することで、典型的なパターンである初期の楽観主義や熱中的な入れ込み、そしてそれに続いて起こる失意や就職活動からの脱落が生まれる結果となる。このワークゲームの力学は、個人主義のイデオロギーの再生産がなぜなされ、失業の構造的な原因への反発心がなぜ失われるのかということに対して重要な暗示をしている。
¶48 今までの文献は、個人主義のイデオロギーが、それに相対する失業者の主観意識を形成するはずの実体験を打ち負かしていることを述べているが、この論文では、正確に言えば個人のコントロールをするという実体験を生み出す一連の実践とそのようなイデオロギーが連結しているために、それが共鳴していることを主張している。ブラウォイ[1979]は出来高払いの製造業において、ワークゲームをする際に、プレイヤーがあまりにも戦略的活動にのめり込み過ぎるために、そのゲームが埋め込められている、より大きな法則や権力が背景に消えてしまうことを発見していた。職探しのワークゲームを行うと、個人的や私的、戦略的であることの重要性を過剰に増大し、構造的で公的、政治的な重要性はあいまいになってしまう。
¶49 そのゲームは一時的なものにもかかわらず、効果は持続する。この論文はブラウォイの理論を「勝たなかった」プレイヤーにとってのゲームの結果を明らかにすることで発展させた。求職者にとって、第一段階において自らの経済的運命をコントロール経験を付与された同じ求職者によって、第二段階における個人的な敗北感を味わうことになる。仕事が見つからなかったという実体験は、個人的にゲームに負けたということであり、それゆえに「負け犬」となる。求職者が自分自身を責めるために、労働市場での負の経験によって、個人的にコントロールすることへの自助努力の仮定に疑問を呈したり反抗したりすることには大抵ならないのだ。さらに、公にはしていないが自助努力イデオロギーに懐疑的である者も、そういったネガティブな思考やサボタージュを非難されないように、その疑問を公衆の面前で表明することは避けるものだ。



まぁ、つまり、なぜこの論文を弟の大学の英語の先生が選んだのかは容易に想像できますね。もちろん、一理あるけれども、かといってすべて外部の状況やコンディションに原因を帰すわけにはいかないわけです。自己責任説かどうかということですね。

もちろん物によるけれど、日本語の論文や学術書より、英語のペーパーバックによる学術書のほうが、値段的にも重量的にも文体的にも気軽に読めるなぁ。日本語のはどうしたって構えてしまう。

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