Sunday, August 10, 2008

リアルなものを大切に


映画「となり町戦争」(2007,角川フィルムパートナーズ)
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/official/tonarimachi/ より


8日の夜中、正確には9日、ついにグルジアとロシアの戦闘が本格化したとの速報が飛び込んできた。BBCでSaakashvili(サアカシュヴィリ)大統領の緊迫した会見を凝視しつつ、とうとう来たか・・・という感慨に耽る自分が何とも言えなかった。9.11のときは、さすがにまだ中学生で何も分からなかったけれど、今はいい年をして、それなりの本を読み、それなりの情報を処理し、それなりに一端の口を利いてなお、その地域研究に携わる研究者が後で必ず回顧するように“ついに来てしまったか”の一言で済ますのである。どんなにいい論文を書いても、それで飯を食うその研究対象で出世してどんなに偉いポストを得られても、ただ見守ることしかできないのだ。リアルタイムで強く感じた。声を上げたら「学者」ではなくなってしまうかも知れない。「行動する―」という枕詞が付くと、途端に怪しい気配が漂うことだってある。歴史の無口な証人たるべきなのか。

そして9日だ。長崎のおばあちゃんが細い声で言うんだ。「戦争はいやだよぅ。命を粗末にしたらいけないよぅ。」インタビュアーが続ける。どんな世界になって欲しいですか?決定的な誘導尋問。「平和な世界にね・・・。」戦争経験者にお決まりの言葉を引き出すのが恒例かも知れない。陳腐だと嘯く輩もいるだろう。「平和」なんて「戦争反対」なんて「命を大切に」なんて、手垢に塗れ、イデオロギーに染まった語彙を、誠実に嘆けるのはそういうおばあちゃんおじいちゃんだけ。そんなものは「陳腐だけれど」という前置きを付けて、しかしその重さを身体で受け止めて、しかしまた常に付きまとうある種の軽薄さで脚が浮遊しないよう、大地に己を繋ぎとめる強さが、戦後生まれには必ず求められてしまう。蝉の声がこだまする、夏。

・・・という偶然のタイミングでたまたま(江口洋介が出ているから、映画として駄作でも江口洋介のPVとして堪能できるだろうから(!)というだけの理由で)観た本作。原作が評判だったらしいが手にはしていなかった。(原作は読んでいないし、今後も読まない前提で書く。)第17回「小説すばる新人賞」受賞作の同名小説だったらしい。選考委員の言葉【私はこの本が傑作であるという考えは変らない。(五木寛之)】 【このすばらしさを伝えるのは百万言費やしても不可能。(井上ひさし)】に激しく同意。確かに、井上ひさしが気に入りそうな話だとか(この方の文学的才能と政治的思想は分けて考えるべきだろう)、朝日新聞の熱心な読者が手放しで喜びそうな話だとかという批評があるけれども、それははっきり言って誤読だろう。映画のレビューには「意味が分からない」という類の理由で☆2つ程度の辛口採点が並ぶのだが、もう一度はっきり言うと、この映画(私には文学作品を評価する能力は持ち合わせていないので、専ら映画について語りたい。映画はそうであっても小説自体はそうでないという可能性は大いにあるので悪しからず。どの程度modifyされているかは把握していないという前提で。)は、観る人の世界観の矮小さを如実に反映させてしまう類の作品であるということ。さらにはっきり言えば、映画や小説としての完成度は問題じゃない。それを契機にどこまで想像力を働かせられるか、日ごろの問題意識がどれだけ鋭敏か、直球で(観る人によってはそうは受け止められないらしいけど)心臓にバンバン刺さってくるかどうかが試されている。1度観た後、心拍数が上がり、高揚感に打ちひしがれて2回目を観てしまった。映画自体は大したことはないかも知れない。しかし、それが分かる人に提示する世界の広がりと慎重なバランス感覚と、蒼く誠実に真摯にありたいが、その平均台の上でバランスを保つのが辛くなってしまう(この「辛い」という桎梏に対する葛藤がなければ、これはただの「戦争反対」映画なのだとイデオロギーを押し付けるしかないだろう。「悩み」を捨て去っていないということが観客の条件かも知れない。悩みのないただのサヨクシンパにはネオリベだ!とかしか叫べないかも。)人たちに贈る、かなり強力な、ギリギリのところで踏ん張ってくれている応援歌なのである。

以下、箇条書き。

・作者が公務員だったとあって、“お役所”らしさ全開。運転中の携帯電話禁止とか路上喫煙禁止とか住基ネットが極端な形で描かれ、さすがにファシズムだと言いたくなるのも無理からぬ感じがする。「広報まいさか」(舞台は舞坂市という設定)という柔らかなひらがなとのコントラスト。費用対効果と言いながら、ばかばかしい几帳面さ律儀さ。

・拒否権が形式上認められていても、拒否手続きの非現実性。「よくわからないのでそれでいいです」と言わしめる作法。

・「お役所コトバ」=「政治のコトバ」の美しいまでものレトリック。「正しい戦争」としての「業務」。「業務」をそのまま「政策」に置き換えればいい。「様々な選択肢の中から」決めたのだ。「失業とか、合併とか理由はいろいろあるんだろ。」「理由は複雑多岐に渡ります。」理由は多様だけれど、よく分からないけれど(実際専門家も政治家も誰一人把握していないことだってある。)と言いながらその内容を検討しない。わかりやすい戦争。「議会に決まったことですから」の「議会」を「国会」に置き換えればいい。「対森見町戦争説明会」とただの「下水道工事説明会」の近接性。民主主義の永遠の陥穽に対峙せざるをえない、選挙を拒否しても棄権しても投票しても「責任」が圧し掛かる。誰も逃れられない残酷さ。しかし、始まってしまったら誰にも止められない。戦争は殺し合いではない。結果として死者が出るだけ。その手を直接汚していないだけ。

・町のためになると思って役場に入った。「国のためを考えて」国Ⅰを目指す同輩たちにとやかく言う資格は私にはないけれど。行政や「公」や「国」や「役所」が悪だというわけでは全くない。それらが機能してこその市民生活。昨今の不当な官僚バッシングはよろしくない。ただ、問題はそこに構造的に孕む危うさをどの程度痛々しく自覚しているか、あとは本能的な部分かも知れない。 それでも国のことを考えたいんだ、という人種は好きだけれど。

・「闘争心育成樹」なんて分かりやすい名前で存在してくれないから難しいのだ。江口の台詞「ただのデカい杉。くだらない名前。そんなものなくても、どっしりと揺るぎなく存在しているじゃないか」。

・自称戦場カメラマンが江口を追い詰めて。「なんのために戦争するの?正義のため?愛する人のため?・・・どうしたの?思考停止!戦争はNOだと言った?じゃ、YESとはっきり言えるか?」

・原田知世「弟は誰かに殺されたわけじゃない。戦争という業務で死んでいった。」江口「業務なら戦争も許されるのか?」「嘘やでたらめで固められたもの・・・僕は戦争で色んな感情を失いました。」

・江口「リアルだったのは香西さんのことだけだった。」「戦争という業務が人の感情を奪うなら、そんな業務しちゃいけない。あきらめちゃいけないことはあるはずだ。」

・で、DVDを止めるとポニョのCMで宮崎駿が「半径3m以内に大事なものは全部ある」とね。目の前に大切なものはある。ああ、血縁以外で「大切なひと」が20代のうちくらいには現れて欲しいです、余談。

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060329で、原田演じる「香西さん」が私的なコトバと公的なコトバで揺れる様子、非アイヒマン的公務員の議論はいいと思う。アレントもっと読もう、クウェートで。

なかなかまとまって書けないけれども、妥協してこの辺で。色々議論を膨らませられるポイントが凝縮されているという意味でいい映画でした。江口洋介、演技力が特にあるわけじゃないんですけど、まじイイ男です。仕事の選び方が上手い。あ、別にファンだから映画に誘導されているわけではないので、念のため。

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