Wednesday, August 13, 2008

形而上学への寄り添い方

仲正昌樹『〈宗教化〉する現代思想』(光文社新書、2008)
〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書 356)〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書 356)
仲正昌樹

光文社 2008-06-17
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頑張って一度レヴューを書いたのに消えたのであっさり行きます・・・。

Religionalizing Contemporary Thoughts, Nakamasa Masaki, May 2008 とでも英訳できるのかしら。 仲正氏は、ご自身語られるように色々な方面から色々言われる人である。私の属する「東大法学部」系からウケることも今までもこれからもないと思う。要するに、こういう新書モノではなくて、氏の真面目な本でも、ゼミの発表で参考文献に載せるのが憚られるということ。教授には絶対良い顔されない。・・・それでも、私はこの人はかなり面白いと思っているし、この面白さ(氏の愚痴も含めて)が分かるのはある種の体験をした人でないと若干厳しいかもという部分はある。いずれにしても、文章はかなり上手いし(中身のもっと薄い新書でも文章が下手であるゆえにもっと時間のかかるケースはいくらだってある)、ブリリアントな学者であることは間違いない。

ちょっと引用。

「宗教共同体の「内部」にいる本人たちにとっては、霊的な生命を与えてくれる生きた言葉(パロール)に触れた体験の証であっても、「外部」の者にとっては、教義というエクリチュールに従ってパターン化された言動にしか見えない。(略)「内部」にいる間は、霊的な体験は生き生きと私の前に現れているリアリティであって疑いの余地はないが、いったんその「外部」に出ると、教義の「文字」に対する機械的な服従としか見えなくなる」(p.219)

素敵な解釈その一。アーレントのコミュニケーションの形而上学が、解放の形而上学にある程度の歯止めとなっているという点。その二。「『マルクスの亡霊たち』で肝心なのは、あらゆる反形而上学の言説が、不可避的に対抗形而上学に依拠しており、いかなる立場にある人も、自らが「真理の霊」を背負っていることを証明できない、ということ。(略)敢えてマルクスの「妖怪」の「再来revenant」に見える「亡霊」にコミットする立場を表明した」(p.268) 「亡霊たち」クウェートに持っていかなきゃ。

過去にゼミで書いたペーパーを参考までにコピペ。

①仲正昌樹『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画、2006)
②仲正昌樹『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』(双風舎、2005)

 今までの人生の中で最も印象に残った本というよりは、最近一年間の筆者の思考的・人間的変遷が顕著に表出して(しまって)いたこのゼミの場での新年度のネタとして最適で、自己紹介を兼ねたあくまでも現時点での筆者の立ち位置を他人が想像するのにオモシロイだろうという安易かつ浅薄な選択の理由によることをご了承いただきたい。
 著者の仲正昌樹氏は1963年生まれ。81年に東大理一への入学とともに、統一教会に入信し、84年に教育学部に進学、89年に卒業。その後世界日報社で二年間勤め、92年の退社と同時に統一教会を脱会。駒場の院で学術博士号を取得後、現在は金沢大学で主に政治思想史等を担当している。上記のようなカンタン系から各種総合雑誌、御茶ノ水書房のまじめ論文や翻訳まで幅広く活動している若手の部類に入る研究者といえるだろう。
 しかし他の研究者・「知識人」と一線を画しているのはその経歴であり、その経験に裏打ちされたサヨク・左翼・ウヨク・右翼批判は悲愴感さえ帯び、思わずうなずいてしまう議論も少なくない。
 筆者がまだ受験生であった2006年2月の『諸君!』で、氏は「北田暁大に告ぐ 『諸君!』に出て何が悪い」という主張を掲載していた。これは、氏が2005年12月の同誌で行った八木秀次、小谷野敦との鼎談「この世の嫌われモノをどうする!タバコ・フェミニスト・監視カメラ・人権擁護法案・・・」を受けて発生した、氏の「裏工作をする偽装脱会信者」疑惑に対して、北田氏が仲正氏と予定されていたトークセッションを中止したことなどを批判するものであった。筆者は当時それらをオモシロがって読んでいたが、氏の意図する本質的な部分については全く無頓着であった。
 筆者は昨年の夏まで(正式には11月頃まで)、ポストモダン左派というか、新左翼や現代思想を混ぜたようなサークルに所属していた。(彼らは革マルや民青等との差異を強調していたが、類似点もないわけではなく、筆者自身まだ定義しきれず、相対化の最中である。)様々な運動にかり出され、サヨク・左翼の世界を嫌というほど味わったことに気づいた筆者は、学問一般や世の中に対する姿勢を考える上で、氏の議論は比較的有効であった。①のように「サヨクの害毒からしばし解放され、カタルシスを味わいたいというマイナーな欲求を覚えているごく少数の読者向け」の著書でも、「ラディカル」とは何かなどについて考えるには良い契機となりうるし、①の布石となっている②も「私」と「世界」の関係を考える上でひとつの議論として「使える」のではないかと思う。
 常に自己の諸々に対する姿勢を点検することほど難しいことはなく、真摯に誠実に「読み破る」こともまた非常に、極めて難しい。読む瞬間瞬間によってつかまえられるエクリチュールの表情は変化する。それにいかに意識的・自省的であるかが、人が生きていく知の領域で本当に重要なのだ、ということに気づくまで、このゼミを始めさまざまなゼミやその他を経由しながら、一年近くかかったことを恥じながら、しかし未来に希望を持って、新年度第一回目の自己紹介を兼ねたペーパーとしたい。ご高評を仰ぎます。

8/14追記:もしかしたら、私のこの稚拙な理解を、稚拙だと一番分かってしまうようなお方にご覧頂いてしまっているかも知れないのですが、その方の「ファン」(一般的に「ファン」という語句から受け取られるような没入的なイメージでの「心酔」とか「陶酔」というのを、そのthe被対象者一番望んでいらっしゃらないはずなので、私はそういう意味での「ファン」ではないということ。)はというのは全国に一定数いて、どういうわけか著書が出ると買ってしまう筆者もそのうちの一人でないわけでもなくて、ただ、その中の果たしてどれくらいの人がこの方の議論をどの程度「理解」(文字通りの「理解」という意味にとどめます)しているのかということになれば、これはかなり疑わしいのではないかと、自分も含めて思います。

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