Wednesday, August 6, 2008

周辺の非日常

若松河田の国立国際医療センターで健康診断。診断書発行は来週。総額で3万程度必要。HIVもB/C型肝炎も検査。そのあとで外務省と在日クウェート大使館の認証が必要。かなり面倒。

持病の治療で定期的に病院に行く私だが、病院というところは非常に安らぎと癒しを提供してくれる・・・と言ったら、生死に関わる病に苦しむ方々に失礼なのは承知で、しかし、その場所に集う誰もが(もしくはその近しい人が)身体的精神的ハンディキャップを背負い=マイナスの状況を受容(せざるを得ない)しているという状況が生み出す雰囲気は、絶望ではなくてある種の心地良さとも言えるのではないかと思う。何せ、この世の中は、病院の外に一歩出たら、快活な健康さと美しさばかりが求められてしまう。この熱い日差しに耐えられる勤勉で上昇志向の人間が。サナトリウムに文学が生まれる理由はそこにあるだろう。

この病院に一年前に行ったとき(ケニア渡航のためのA型肝炎予防接種。結局諸々の理由で行けなくなってしまったけれど)も、宇都宮線、湘南新宿ライン、高崎線が全て止まって大惨事な日だった。今日も湘南新宿ラインと埼京線が止まるという。

電車が止まる。しかも埼玉、茨城、栃木、群馬県民の通勤通学の足が途絶えるというのは、北関東(地方)と東京(中心)の断絶とそういう脆弱な構造を、その都度見せつけるもの。「招かれざる客」としての田舎者が、東京に行く術を失い、代替手段としての東武鉄道で細かく各駅停車や急行(それでも停車駅が多い)で東京にかなりのスローで向かうときの心境。普段JRがいかに速く移動することを重視して、我が郷土を飛ばし飛ばしに東京へ急いでいるか。郷土(周辺)につなぎ止められていることを否応無く認識する。辺境の人間が偏狭になるひとつのポイントはここ。この単純でない重層性を東京生まれ東京育ちの人にはなかなか分かるまい。(だから、次につき合う男は絶対地方出身じゃないとダメだ、というのは余談。)

赤羽という埼玉と東京をつなぐ動脈交差点は、こういう日には人で溢れかえる。ホームに人間が入れないから入場制限を階段でかける。京浜東北で田端まで行って、そこから山手で池袋に行けと、駅員が必死になって呼びかける。今日は信号トラブルだったけれど、大体は人身事故(=自殺)が原因なわけで、こういう場合はもっと複雑だ。「ちぇっ」etcあからさまに口に出す人もいるけれど、大概の人間は(他人に迷惑かけずに死んでくれ)と言うに言えない心境で、わさわさと人ごみに飲まれて、いつもと違う通勤通学経路を辿る。ひとつの信号やひとりの人間によって何万もの人間が右往左往する。駅員はぺこぺこしっぱなし。車内放送も謝り過ぎ。サラリーマンは勤め先や取引先に謝る。学生は友達に一斉にメールする。人間の波が、秩序が、日常が、少しの形で、少しの原因によって、脆くも崩れ、しかし現実を受け入れて対処する、このちょっとした「非」日常の渦の中に身をおくと、それが素晴らしいのか空しいのか哀しいのか、ごちゃまぜの感情が涙になって襲ってくる。人間はいつだって動くのだ、そんな感慨。

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