Friday, August 29, 2008

慟哭せよ

新聞の社説みたいなことをいけしゃあしゃあと言えるような人間は私の対極にいる。はっきり言ってしまえば、そんなやつ大嫌いだ。とりあえずの過程を経て辿りついた結論がそれならまだ許せるが、いきなり抵抗もなく飛びつける人間の性根は信じられない。国語力の向上にやれ社説だ、やれ天声人語だなんてヌカすよくいる高校教員はまだ絶滅していないんだろう。

アフガンで日本人が殺害された件。例えば朝日は「青年の志を無にしない」と題して、秋野豊氏や中田厚仁氏をも挙げて、最後は「悲しみを乗り越え、出来る範囲で粘り強く活動を続ける。それが伊藤さんたちの志を生かす道だ」なんて締めくくっている。社説なんて大体どこもいつもこんな感じだが、今日のには腸が煮えくり返った。

日本人の顔を見せる、とか、金だけじゃダメだ、とか、血を流さないと、なんて使い古された台詞だけど、人が死ぬっていうのはこういうことだ。日本は自衛隊を「非戦闘地域」に派遣せずに、大きな犠牲もないからこんなに能天気でいられるんだろう。ルワンダやサラエボの映画で、戦況が悪化し、援助関係者や報道関係者の身の安全も危うくなって、現地の人に袖を引かれながら、泣く泣く引き上げるシーンはいくらだってある。最後は、己の命が惜しいか、ヒューマニズムを貫けるか、という究極の瀬戸際の選択で、それは結局利己的にしか生きられない(まれにそうでない人もいるわけだけれど大多数は違うだろう)人間のおぞましさや儚さや情けなさやらの詰まった、慟哭の瞬間なわけだ。

「志を無にしない」なんて出来もしないのに言うな。私たちは安全で清潔で快適な机上で物を考えるだけで勝手なことをこうして書き綴り、何もしないし何もする気がないし、現実問題、何もできない。できないならできないで、できないなりに、何かのきっかけくらいにはしようとか、そういう地に足の着いた物言いをするほうが誠実だし謙虚だと思うんだ。建前や綺麗ごとを言い放って思考停止に陥るよりよっぽどマシだ。NGOの役割とか、国際協力、援助って結局はどういうことなのかとか、憲法上の問題は置いておいて、実質上、NGOの活動と自衛隊の「人道支援活動」にどれほどの差異があるのかもしくはないのか、アフガンがどうして30年以上の混乱の中になきゃいけないのか、テロリズムの本質について・・・etc。

人間の命そのものは理念上は平等だけど、現実としては決して平等なんかじゃない。タイで生きたまま臓器摘出される子どもと、試験前なのにこうして試験勉強から逃げて、挙句の果てに知ったようなことを偉そうに書いている私の生の状況が平等であるわけがない。アフリカの最貧国に生まれればすぐに死ぬ命、アフガンの貧しい家庭に生まれて教育も受けず、タリバーンに回収されて戦士として落とす命、日本の中流家庭に生まれればこういう有様。この厳然たる事実にどうやって向き合うのか、誰もが伊藤さんになれるわけじゃないし、なる必要もない。募金すればいい話じゃない。お前の食っているものが何でできて、誰によって作られて、どこを通って、誰の稼いだ金(その金はどこから?)で購入されて、お前の血肉や脂肪となり、排泄されるのか、身をきりきりと震わせるように考えるんだ。「無にしない」なんて、四方八方手を尽くした先に吊るされているキャッチフレーズだよ。(もちろん社説担当者は既に四方八方手を尽くしたのかも知れない。しかし、日本の社説の役割が大衆の代弁者だとしたら、の話)

本当の「現実」を知っている人からは、借りてきたような正論や建前や綺麗ごとは出てこないはずなんだ。世の中ほとんどのことが綺麗になんか割り切れない。「難しいですね・・・」で口ごもったっていいじゃないか。この私みたいに、分かった風な口を聞く奴が一番厄介なんだ。

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