Wednesday, August 13, 2008

“人種主義的”CMが含意する多くのこと

話題騒然で、今日の朝刊(朝日)にも掲載されたイーモバイルのCHANGE!CM。you tubeでは"Japan:EMOBILE's Racist Commercial Depicts Obama as a Monkey"とまで言わしめている。


ロバート・キャンベルは「普段から新聞や本を読んでいれば差別と分かる。厳しく言えば教養がない」と。確かにそうとも言える。日本人のいわゆる「均質性」や「閉鎖性」は、特に海外から帰ってきたときには眩暈がするくらいでもある。良くも悪くも「人種」ということに関しては、世界の中でもかなり無頓着で無関心でいられたし、今もある程度はかなりそうであると言える。これは紛れもない事実。


ただ、このCM製作者や担当者も視聴者の大部分もこのサルがオバマ氏に喩え(られ)ているとは、努々思わなかったのではないか。softbankは白い犬をお父さんにして人気を博したくらいだし、人種差別という意図でないゆえに、これがサルである必然性もほとんどなく、単に、愛すべき小動物がマスコットとして“アメリカ大統領選挙の”真似を、“CHANGE”というキャッチフレーズを使っていれば本当にそれで良かったのだろう。大して意味のないCMで揚げ足を取られてしまった感が拭えない。


もうひとつは、日本人は、その「“西洋”に対する自虐的な劣等感」(かつてイエローモンキーとして揶揄、差別された経緯などを含め)から、“被害者”だからこそ、サルを擬人的に使用することに抵抗感が薄いのではないかという仮説。差別される/された側として、いわゆる白人よりも黒人にシンパシーを感じるがゆえに、サルを使用する日常性を彼らにあてはめることに「鈍感」であった・・・ちょっと無理があるか。でも白人/黒人&黄色人種という区切り方(があったとして)に安堵するというか、ホッとする人(本来はあってはならないはずのこの既存の枠組みを受容してもいいのではないかと思う人)はいないわけではないのではないかと思う。特に、プライオリティーやアドバンテージがこの「国際社会」において与えられていないという点において、簡単に言えば、痛みや弱みが分かち合えるという点において。


白人と黒人当事者には日本人には分からないような凄まじく生々しい歴史を背負っていて、今でもcontroversial issueであることには変わりなく、それでもなぜか学生同士でもコミュニティーが人種で分かれることが少なくないように、頭では理解していてもやはり・・・という人はいるのだろう。言ってみれば、完全に身体化され、内面化された「(被)差別(問題に対する)意識」がアレルギー反応を起こすように感じられてしまうのではないか、と。日本人にはそういう意識が稀有なために、かえってその「問題」にも気づかない。だから、今回の「問題」を「問題」だと感じるということは、「良いこと」だとも必ずしも言い切れないのでは。

キャンベルが言う「教養」はそういう意味では西洋近代的なものを多分に含んでいるのかも知れないし、やはり日本人や日本が「国際的」でないという証左にしかならないのかも知れない。今回、日本人は黒人に対して差別感情を白人が一般的に抱くよりも持っていない、ということを前提に考えてみた。

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