Tuesday, August 5, 2008

自己に向き合えば

Jobwebの「就活丸ごとセミナー」とやらに申し込んでしまったので参加。いわゆるES, GD,GWを一通り体感せよという内容。私のグループは日本女子英文科、上智ポルトガル語、藝大院、早稲田社学、法政法、東大工という面々。要は、世の中、就活就活と煽るけれども、「慣れ」の問題。小賢しいテクニックを振り回しても、3分喋ればボロは出る。今更慌てふためいたって、20年ちょっとの人生の厚み、深さがモノを言うのでは。言葉は悪いが、「人間の程度」が如実に出てしまう。恐ろしいことよ。「みんなちがってみんないい」という話をしているのではなく、念のため。

「大学でがんばったこと」という判で押したようなお題に対してどうして皆一様に、サークル、ボランティア、バイトの3拍子になるのか。「自己分析」なんていう、鳥肌が立つような、身の毛のよだつような、如何わしい語句の取り合わせになぜ誰も何も言わないのだ。「自己分析」は大事です、「自己分析」をするにはまず「自分史」を作って、自分にとって何が大事で大事でないのか考えましょう・・・etc、確かに言いたいことは分かるが、「自己」が「分析」可能な対象であると前提にしてかかっているところで何ともあさましい、傲慢である。「自己」は向き合うもの。それ以上でもそれ以下でもない。

就活のプロセスにおける様々な出来事は「大人」になるためには極めて有効だと確かに思う。勉強になる。しかし、まぁ、就活言説に汚染されすぎではないかとも思える今日この頃。規格外の人間を雇う余裕のある企業はおらんかね。

プログラムの過程で、相手を褒めあう時間が設定されていたりする。人間、褒めようと思えば誰でも褒められる。これくらい生きてくればさすがに濃淡はあれ、個性というものがあったりなかったりするわけだから。問題はその後。「就活仲間を作ろう!」というのがコンセプトらしく、連れ立って夕食に行く面々。「就活仲間」なんてこれまたキモい語彙をどうしていけしゃあしゃあと受容する?結局軽いノリの方々が六本木の闇に消えていった。

プログラム中は義務があって話していただけ。その後でも話したいと思えるような人はなかなか見つかるものじゃない。生きる世界が違う。着るものも見るものも違う。コードが違いすぎる。伝達・理解不可能性の前で立ちすくんでいていいですか?静かに、悲観も楽観もせずに見守っていていいですか?殻に閉じこもるのではなくて、ただただ、温かく彼らを見つめるだけ。

400字で私が分かってたまるか。市場よ、我を排除したまえ。喜んで受けて立とう。・・・なーんて。やろうと思えば、「企業の欲しい人材」に私は一時的に扮することができる。そこそこのところから内定ももらえるだろう。しかし、しかしだよ。私には「利潤」も「利益」も「会社に奉仕」も「ビジネス感覚」も「営業」も「コンサル的ロジカル思考」も合わない。身体が拒否している。これはかなり観察可能な紛れもない事実だ。もう他の人に任せる。頑張ってくれたまえ。

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