Sunday, August 24, 2008

"moving"な五輪

今年のRamon Magsaysay(ラモン・マグサイサイ)賞を受賞した明石書店取締役の石井昭男氏。明石書店は実にいい仕事をしていると思う。採算が合うとか利益のあるなしが第一義に来るのではない、使命感を持った仕事ができるってまじかっこいい。まあ、人権系で、多少付いていけないのもあるけれど。学術書系になってしまうけど、藤原書店とかみすず書房とか白水社とかも本当にバランスの取れた、かつニッチな領域に切り込んでいるのが素晴らしい。青土社とか未来社は多少レレフトすぎる感も否めないけど、それでもいい本はいっぱいある。岩波みたいに大御所になってしまっていない、小さな出版社で、細々とアカデミズムに携われたらどんなにか幸せだろうと思う。

オリンピックに関して。選手流出などは今に始まったことではないが、中国の選手が各国の卓球代表として活躍していたり、シンクロの日本人指導者が中国チームを育て上げてしまったり、冬に目を向ければフィギュアのロシア人コーチは世界中の一流選手を育てている(ような枚挙に暇が無い事例)ことを考えると、表彰式での国旗国歌掲揚はかなり馬鹿げた話になってくる。1年生のとき、ナショナリズム研究がマイブームで、一通りの文献を読み、果ては韓国のチョアンにある民族博物館まで出かけていったけれど、ナショナリズムというのは、明確に定義したり何かわかりやすい結論を出せるような代物ではなく、結局は相互(個人)承認の問題に帰してしまう。リベラルな人間は、オリンピックに国家を持ち出すべきでない、純粋に個人の闘いにすべきだ・・・という主張に対して賛同するだろう。50年後はどうか分からないけれども、例えば選手のウエアのデザインに国家を反映するような色や柄を採用しないとか、試合後に国旗をシンボルに場内を回らないとかというルールを設定して、完全に国家色を排除することも可能だろうとは思う。ただ、そうすると、オリンピックは世界選手権的な扱いに限りなく近づき、今ほどの注目は浴びなくなるとも予想できる。それがナショナリズムの魔力、魅力によるものなのだが、そう考えると、政治的に大いに利用され、開催国内の国内政治やそれを取り巻く国際関係が一定期間クローズアップされ、各国が視聴率稼ぎに有利な時間帯に多額を支払い試合時程を誘導し、程度の差こそあれ一定期間各国のメディアを賑わし、人々が何らかの形で(泣いたり笑ったり感動したり)感情を露にする、少なくとも「オリンピックが開催されているのだ」という意識が頭の片隅に共通事項として上るというのは、何もないよりはよほど"moving"な(動く、蠢く、感動させる、という意味で)出来事だと思う。オリンピックをきっかけに、良かれ悪しかれ何かが動く。ギリシアの時代から続く、この「厄介な」イベントをもう少し評価いいかな、と「成熟」していく(はずの)この国で思ってみたりする。

かつて五輪を国威発揚、経済勃興の契機として利用した日本。五輪賞賛から、五輪不要論を超えて、今、そこにある五輪をあるがままに認めたい、そう思う。

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