Friday, August 8, 2008

テロリズム

On Suicide Bombing (Wellek Library Lectures)
On Suicide Bombing (Wellek Library Lectures)Talal Asad

Columbia Univ Pr 2007-06
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自爆テロ自爆テロ
かり田 真司

青土社 2008-07-18
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タラル・アサド、茢田真司訳、磯前順一解説『自爆テロ』(青土社、2008.8.11)頑張って発行日の前までに読もう。発行日の前に読むって結構いい感じである。おい、試験勉強はどうした・・・。

On Suicide Bombing, Talal Asad, Columbia University Press, Apr.13 2007


第一章「テロリズム」

・テロに対する組織的な暴力の行使=戦争?警察活動?・・・かつてヨーロッパでの「テロリズム」の行為者と異なり、現在のそれらは「現実にはリベラル・デモクラシー国家の市民であったり、その支配領域の住民であるとしても、外的存在とみなされている」(p.23)

・「イスラーム組織の暴力は(略)「正当な」意味での歴史に位置づけられていないために多くの人々には理解不能」(p.24)

・キリスト教徒対ムスリムの戦いは当初から善vs.悪の戦いと捉えられていたわけではないという歴史(p.25)

・ムスリムにとって「ジハード」≠「聖戦」だったこと。宗教的コンセンサスの欠如。(p.27)

・時にはキリスト教徒と連合したムスリムはムスリムと戦った。(p.27)

・ジハード教義の転換。ジハードの法的前提条件にはイスラームに対する真正の危機の存在と同時に、それに対する抵抗の成功可能性が含まれていなければならなかった(p.28)

→固定した文明的な価値を伝える自己充足的な社会などは存在しない。

→文明の衝突はありえない。(p.29)



・ローティ(Richard Rorty)への批判

ローティは「テロリストが西洋社会に対してもう一度大規模な攻撃を行うことによって、歴史的に発展して来た西洋デモクラシーの終焉がもたらされること」(p.31)を危惧していたが、「そこにあるのは、昨日まで自国における自由を促進して来た暴力が、今日では自由を密やかに抑圧しつつあるという変化」(p.32)。行為主体モデルから、暴力の循環、歴史的な空間の観念を用いる。



・ウォルツァー(Michael Walzer)への批判

 ・リベラルな政治の前提は暴力の問題と切り離し、政治の領域から暴力を排除し、戦争の領域に閉じ込めることが国家の第一の任務という前提。(p.35)

 ・「道徳的犯罪者」?(p.35)

 ・「繰り返しの技術」?(an art of repetition)(p.37)

←テロリスト自身も比例制の原則、軍事的必要、人道性で行動を語る(p.39)

 ←ウォルツァーの感覚:反映するリベラル・デモクラシーという政治的共同体とその経済的・軍事的成功に対する誇りを伴った自己同一化(p.42)



「テロリストの良心や弁明の誠実さは、彼らの行動を分析する際には、何の意味も持たない。他方で、軍事指令指揮官の誠実な良心は、不幸にして必要であった非人道的行為と戦争犯罪との区別にとって決定的」(p.46)



「テロリズム」・・・国家法の下での有責性+脆弱性の感覚を表象。(p.47)

特定の法的カテゴリーとして定義は難しい。創設された国家の権威の限界や、国家の権威に対して超背運する大衆運動の権利に関する、複雑な政治的な選択がなされなくてはならないから。



違いは、用いられる暴力の程度であって、その性質ではない(p.48)

テロリストと戦時の軍隊の区別で問題なのは、残酷さではなく、生活様式(a way of life)全体に対する脅威でもない。問題はその文明的な地位。リベラルな言説が非人道的行為を人道的行為に変換する工夫、これは野蛮な言説では不可能だが。(p.61)

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